Nobuyuki Takahashi’s blog

Archive for the ‘活動について’ Category

古典的なモデリング

2012年 3月 19日

私はハンセン病療養所大島での取り組みは、大島を「彫塑=モデリング」している、という感覚を持っている。(彫刻の専門性に触れるので一般論としてはいささか伝わりにくいと思うがこのまま考察を進めてみたい。)大島という全体の量塊=ボリュームに島外から付け足すことなく、また外部へと取り去ることもなく保存し、あらゆる方向から量塊の様相を見極め、こちらの量をあちらに、あそこに在るものをここへと移していく。それは心棒を組み上げ、そこに土付けして行く古典的なモデリングのセオリーそのものと言うことができる。
なぜ、今大島をモデリングするのか。大島とその外との連綿としたつながりをつむぐためには、まず大島の姿をくっきりと浮かび上がらせ、鋭くポイントしなくてはならない。次に大島で暮らす人々とその営為に裏打ちされた内部から表層に向けて表し、背景に広がる海と島々との関係性を恢復して行かなくてはならない。大島の土を使い大島焼を作るのも、入所者が暮らした住居を活用するのも、島にあるものを素材に配置するのも、海岸に一旦は打ち捨てられた船や解剖台を発掘するのも「モデリング」なのだ。
ここで注意しなければならないのは、そこに在る量塊は単なる造形素材ではないということ。いわばいのちの営みの断片であり、だからこそ至近距離で見て感じ、その重みを全身で受けとめなければならない。モデリングとは身体と精神を集中する膨大な作業の積み重ねなのである。

話は飛躍するが、東日本大震災で被災した地域で寄せ集められた量塊は「がれき」と呼ばれている。いうまでもなく、それらは単なる廃棄物などではない。それらを尊厳を持って扱い「日本」という塑像を造形するために丁寧に配置し、根付かせる方法があるのでは、と想像してみる。

独特だけど新しくない

2012年 3月 19日

やさしい美術の取り組みは些細なエピソードの積み重ね。身体に喩えると毛細血管での栄養素と老廃物の受け渡しのようなことか。小さいことでも丁寧にやっていきたい。何故なら私たちが「人」となった時代に備わった「他者の痛みを自分のことと感じる」回路は、細胞レベルで数万年、数十万年と蜿蜒に受け継がれたものなのだから。
やさしい美術は枠組みの拡張の方法としては独特だ。でもそれは何ら真新しいわけでなく、このあらかじめ備わった私たちの感性を「掘り起こす」ことに近いかなと思う。

ワークショップを始めたのは

2011年 11月 8日

数年前のことだが、やさしい美術の活動を紹介する場で「なぜワークショップをしないのか?」と尋ねられたことがある。当時やさしい美術プロジェクトは作品を院内空間に配置していく仕事が主だったのでそこからわく素朴な疑問であったように思う。阪神の震災が一つの引き金となって、巷では協働性や市民活動の重要性が説かれていることは知っていた。それらに近接する活動はワークショップをやるべきという機運はあったと思う。
ただ少し気になったのはその時の質問「なぜワークショップをしないのか」には「やるのが当然」と言う響きがあったのも事実。私は闇雲にワークショップの形式を取るのは疑問だった。断っておくが多くのワークショップの形式が存在する中でここでは「アーティストが実施するワークショップ」に限っての話。
何よりも先にワークショップという方法が立ち上がるのに違和感がある。作家の「一緒に作りました」というアリバイづくりに終始しているケースは開いている様相を見せながら実は閉じられた構造をしていて見ていて居心地悪い。ワークショップの対象になる参加者とそのバックグラウンドが置き去りになっているのを見かけるとこれも気になって仕方がない。
それから月日は経ち、とうとう僕たちは十日町病院で始めてワークショップを実施する日が来た。それは最初にワークショップの方法があったのではなく、プランのコンセプトを忠実に実現していくプロセスであって、結果として「ワークショップ」としか呼べないものになった。当時メンバーだった福井が考案した作品プランである。
福井が着目したのは院内の極私的空間である病室である。ベッドに横になる利用者とその家族との関係性を取り持つものがアーティスト側から提案できないか、というもの。想像がつくと思うが、家族関係はとてもデリケートだ。他人が立ち入れる問題をはるかに超えている。テレビドラマに出てくるようなステレオタイプの家族イメージは仮想の話。それこそ人の数だけのケースがあるだろう。
このことはかなり時間をかけて福井と議論した。するともう一つ浮かび上がってきたのは、「患者と医師・看護師」という関係性である。システムが張り巡らされた医療の現場。「人」としてでなく「患者」として扱われる病院空間。医師や看護師はその肩書きを離れて思いの内を患者に伝える機会は無いに等しい。
「患者」と「医療者」という立場を超える、肩書きを取り去る、間にある見えない壁を溶かす。医師も看護師も伝えたい思いを携えながら治療にあたっているはずだ。一方患者はかけがえのない人生を生きぬいてきた一人ひとりのはずである。ひとり一人を見てほしい―。
そこで、福井は医師や看護師が描いた「残暑見舞い」の絵はがきを描いた本人から患者さんに手渡すワークショップを企画した。この提案を受けて病院サイドから「描く時間がない」「うまく描く自信がない」と反発があったものの、楽しく描くしくみや工夫を幾度となく提案し、何とか院内で絵はがきを描くワークショップを実施するところまでこぎつけた。
ワークショップ当日は院内で働く医師や看護師、職員のほとんどが時間を見つけて絵はがきを描きに来てくれた。一枚のはがきには、普段思っていたけれど伝えられなかった思いがメッセージに綴られている。「いつもそばにいます。」そんなシンプルでそっと元気づける言葉たち。切り紙や野菜スタンプで華やかに彩られたデザイン。
手術を終えた医師と看護師が緑装束のまま立ち寄り一斉に絵はがきを描いていく。そんな感動的な場面が幾度となく繰り返された。二日間で集まったはがきは300枚。それらはベッドサイドに絵はがきを取り付けるフレームとともに医師、看護師らによって入院している利用者に手渡された。
私たちは作品を作ったのではなく、医師、看護師という間柄を溶かし、感情の交流のしくみを作ったのみ。その道具立てとしてはがきを描き、渡す行為に集約させた。さて、ワークショップを終えて心の壁が瞬間解き放たれたのは病室内だけではなかった。気がつけば私たちプロジェクトメンバーと病院職員との間は何でもぶつけ合える仲になっていた。このワークショップを院内で滞りなく行うプロセスを通じて着実にお互いの距離は近くなったのだ。
「ここで私たちは何ができるのか」と突き詰めて、最終的にワークショップの形となった、病院内での残暑見舞い絵はがきプロジェクト。絵はがきを描いた病院職員はアートに興味を持ち、作るのが大好きで集まった人ではない。それぞれの思いを胸に医療の現場、病院の日常の中で働いている人たちだ。病院のシステムが簡単に許さない「心を通わす」という小さな冒険を私たちは創出した。一人ひとりそれぞれでいたい。そんな当たり前の事が、「患者」という画一的な枠に閉じ込められてしまう。その枠をそっと開く小さな飛躍を設ける。実施したワークショップは人と人という間柄を取り持ちながらまるで柔軟剤のように院内に浸透していった。

癒すという言葉は使ったことがない

2011年 11月 4日

やさしい美術プロジェクトは病院が主な活動場所であることから「癒しのアート」「病院のアート」と言われることが多かった。実は私はやさしい美術プロジェクトを語る上で「癒す」という言葉はつかったことがない。施設の現場にいると、そんな言葉は簡単には浮かんでこない。これまで作品を作ってきた経験からの私の見解だけど、「癒される」ということはその人の中で起きることであって、「癒す」ということはないと思っている。
やさしい美術プロジェクトの活動は事象に近づく、という特徴があると以前書いた。近づくと見えてくることもあるが、見えなくなることもある。地図を読むように遠くから眺め、想像力を働かせることで見えることもある。もちろん近づくということは物理的、心理的な意味があるのだけれど。その振幅の中で自分の立つ位置を見極める。
やさしい美術プロジェクトの活動が私個人の見解を広めるためにあるわけではないので、参加する学生たちのそれぞれの立ち位置はすべて受け入れることにしている。「取り組み」の内には手をにぎり看取ることもありうるし、「癒す」ことに真剣に取り組むのであれば「とことんやってみなさい」と背中を押す。そこで感じた何かに突き動かされ、自らの細胞が反応することを私は否定しない。
やさしい美術プロジェクトとはたぶんジャンルとして確立されるものではなく、ある事象に向き合った時に個々から発露される表現を受けとめる場であるように思う。それぞれの専門性を抱えてこの取り組みに参入すれば、自身が立つ専門性を離れては立ち返るという経験が起きる。もう少し踏み込んで言えば、自己否定と再構築だ。それほどまでに、私たちアーティストを揺さぶる何かがあるのだ。
手をにぎり大切な誰かを看取ることを私はアートだ、作品だとはとても言うことができない。でも「やさしい美術」という場では表現し、作品を制作して展示することや手をにぎることも同地平に連なる営みとなる。その蜿蜒なる地平をなめるように見つめ、乗り越えるべき壁や隔たりがあれば丁寧に紡いで行く作業と言ったらよいか。
私は殊に現代美術の領域で作品を作ってきた。誰とはわからない相手に強く、遠く、深くボールを投げ入れる。その真の意味もやさしい美術プロジェクトの活動を通じてとらえ直す契機を与えられた。きっとこの取り組みに関わったアーティストや学生、様々な専門家らはそれぞれの立ち位置で何かを得たのではないかと思うのだが。

発達センターちよだにて

遺るもの 遺すもの 女川町

2011年 9月 19日

女川町は広大な被災地の中でも特に大きな津波にみまわれた場所のひとつだ。コンクリートのビルが大地から引き抜かれた状態で横たわっている。当地ではそれらをモニュメントとして遺すことが検討されているようだが、もちろん賛否両論あるだろう。「遺す」ことの意思決定はとてもむずかしい。
一方「遺った」ものもある。私は避難所を訪れてひかりはがきを人々に渡してきたのだが、その帰り道、荒涼とした土地に静かにたたずむ人影のような物が傍らをよぎった。ふと車を止めると、それは枝葉がもぎ取られた2本の桜の木だった。そこに張り紙が。「津波によって弱っています。皆で応援してください。」この地で生きながらえた人々がその桜の木に自らの姿を映しているのだろうか。


マルチボックス修理

2011年 9月 18日

足助病院の病棟に60個、設置されている作品「私の美術館」通称:絵はがきフレーム付きマルチボックス。入院している病院利用者のベッドサイドに季節ごとに絵はがきを提供してきた。マルチボックスはティッシュや眼鏡などの小物を入れておき利用者が寝たきりでも手を伸ばして手にとることができる。入院している方々の傍らでそっと支援、応援するもっとも身近にある美術作品といってよいだろう。足助病院と丸3年を費やして共同開発を進め、2007年に設置。耐用年数を5年と定め、ボックスが破損した場合などは責任を持って修理に務めてきた。この「私の美術館」は来年で約束の5年を数える。昨日、メンバーら5名が集まり、木工工房の榊原さんの指導のもと修理作業を行った。
学生が主体的に活動する取り組みは入学と卒業という時間制限がある。否応なく活動に携わるメンバーは入れ替わって行くのだ。この「私の美術館」は開発までを含めると8年というスパンで社会的に責任を負うことを選択した。学生をとりまくタイムリミットを越えた取り組みであること。世間では当たり前のことだけれど、それを実現するには引き継ぎや対処マニュアルの作成も学生が担い、相当の労力をつぎ込んで整備した。木工工房をのぞく。新旧メンバー5名が力を合わせて修理している姿に感動。

おいしい美術

2011年 8月 23日

今日は学内で「プレゼン大会」(通称)。病院で行われる研究会でプレゼンテーションするという想定で、メンバーそれぞれが考案した作品を発表する。先輩、後輩の垣根はこの際忘れる。思いつく質問、疑問を投げかけ、感想を述べあう。
新築工事が進む病院に現れた仮設壁を活用する作品、えんがわ画廊で長期入院の利用者の目を楽しませる作品、「小牧の起源は帆巻き」という言説を包み込んだ大型の作品などなど、フレッシュで力強いプランが並ぶ。プランを持ち込まなかった人も、積極的に議論に参加する。朦朧と日々が過ぎがちな夏の日、しばし集中して「他人の作品を自分の作品であるかのように」見る。
「おいしい美術」も復活。一品ずつ食べ物を持ち寄ってランチだ。講義室が一瞬にしてビュッフェに早変わり。
はっとする。そうか、今年で10回目なんだな、プレゼン大会。

夏 たくましい、いのち

2011年 7月 31日

制約と可能性

2011年 7月 26日

「病院でアートなんて、制約があって大変ね。」
と、よく言われる。
病院内の制約はわかりやすい。人が傷つき、病んでいる時に、どうしても必用なことが絶対的に、そこに横たわっている。制約があるから、あれができない、これができない、と言っていたのでは何も始まらない。そこには人がいる。そのことは頭で考えてもどうにもならない。できるだけ近づいて直視しなければ。

病棟の一見無機質な廊下。50メートルは続くその廊下の先に作品を設置するとしよう。
病室から出ることもままならない方が、ある日病室からなんとか身を乗り出すとその先50メートルほどのところにこれまで観たこともない何かが飾られているのに気付く。普段はどうということのない50メートルという距離感。しかし痛んだからだには埋めることのできない隔たりだ。しかしとっても気になる、どうしても、近づいて観てみたい。
翌日、軋むからだに少しだけ挑戦を課す。病室から一歩前へ、歩みだす。50メートルが、40メートルに。作品は昨日より少しだけその細部を魅せる。次の日には30メートル、そして20メートル…。同じ作品であっても距離の縮まりが、昨日と違った表情を垣間見せてくれる。それどころか、自身の中でいつもと違った情感が育まれているのに気付く。
小さな冒険にいざない、そこにいる人だけに味わうことができる喜び。そのような時空を創り出せるとしたら、これほどまでにアーティストのインスピレーションをくすぐるものはない。

そのために、私たちは何度も現場に赴く。そこで感じることから始める。創造力が引き出される場は意外にも制約が多く、創造性とはほど遠いとされる場所に潜んでいる。

大島の白線 かろうじて見える白線を頼りに歩く入所者がいる

生き様と歴史が隣り合わせ

2011年 7月 24日

東村山にある国立ハンセン病資料館へ行った。西武池袋線で清瀬まで、そこからバスで10分ほどのところだ。
資料館は国立療養所多摩全生園の敷地内にある。周辺は住宅地だが、ところどころ鬱蒼とした雑木林に隔てられ、以前あった周囲との隔絶の痕跡を見て取ることができる。

常設展示は見応えがある。ハンセン病をめぐる歴史のパネルとそれにまつわる事物の展示は歴史的事実の重みを伝える。
証言がビデオで編集され、全国にある療養所で取材された入所者のインタビューを鑑賞することができる。
そして企画展は「かすかな光をもとめて」と題した、盲人の入所者に焦点をあてたもの。 私が大島で預かっていた木製の盲人会館看板が展示されている。ハンセン病を患い、失明して二重の絶望を背負った入所者のコメントがA4ほどの紙にプリントされ、壁一面にびっしりと掲示してある。一枚一枚が叫びとなって頭の中で反響する。
これからハンセン病資料館に行く人にアドバイス。丸一日時間をたっぷりとって訪れてほしい。

資料館を出て、全生園を歩く。食堂で定食を食したあと、あたりに耳をすましてみる。子どもたちが遊ぶ声が聞こえる。高校生が通りがかる。けっして多くはないが、自然に全生園敷地内を行き交う人々の姿が見受けられる。
「隠された史跡」として、監房跡や洗濯場(包帯を洗ったとされる)、収容門の跡が表示で示されている。遺構が全く遺ってなくとも資料館で見た史実と現在の風景を重ねて想像する事ができる。そして、今も、ここで入所者が日々暮らしている。生き様と歴史が隣り合わせにあるということが、とても力強く感じられた。

全国唯一の離島、大島。たとえば「資料館」という構想が大島に成り立つだろうか。生き抜いてきた証。それを、後世に伝えて行く事ができるだろうか。

少年少女舎跡は荒れているが、取り壊される事なく現存している