Nobuyuki Takahashi’s blog

Archive for the ‘日記’ Category

ボランティア

2011年 3月 21日

自分が出演したのをきっかけにNHKラジオ第一放送をよく聞くようになった。もちろん時間を許せば、ラジオビタミンは聞くようにしている。放送の中で愛知県東海市が震災の支援物資を送る手配をしているが、物資の仕分け作業が難航しているとの情報があった。これは行くしかない。
20日から22日まで二泊三日で妻有(新潟県十日町市)に行く予定だった。交流を大切にしている十日町の人々に会いに行くにしても、無駄なガソリンは使えない。幹線道路は物資を運ぶ車両が最優先。震災のあった東北に物資も油も集中させなければならない非常時だ。加えて地震の影響で高速道路も通れないところがあるようだ。今回は断念せざるを得ない。
こういう時こそいつものように日々を送ることも大切だ。映画を観に行きたいと強請る子どもたちを妻に任せ、私は東海市製鉄公園に向かった。

東海市は名古屋の市街地で知多半島の根元にある。新日鉄の錆び付いた工場がまるで要塞のように根を張る町。我が子二人をとりあげてくれた助産院もすぐ近くにある。何度も通った道すがら、懐かしさがこみ上げる。
10:00 製鉄公園の体育館に行くと、入れ替わり立ち替わり乗用車が駐車場を出入りしている。それらの車からは衣類や毛布、布団を抱えた人々が吐き出されては体育館に飲み込まれていく。
体育館入り口でボランティアの手続きをして名札を受け取り、体育館に入ると―唖然とする。建物以外は一切止まっているものがない。およそ50名ほどだろうか、ボランティアの皆さんが館内を渦巻くように動き回り、仕分け作業がぐいぐいと進んでいく。その勢いに圧倒されたのだ。気遅れしないようにと思うが、誰も指示する人がいない。とにかく近くで衣類を仕分けし、畳み直している奥様方に混ぜてもらうことにした。
山のように積み上げられた衣類。それをセーター、薄手のもの、ズボン、上着、襟のあるシャツなどに仕分けていく。掌が擦れて熱くなってくる。ウールのものが多いので、埃が舞い、あっという間に鼻炎になってしまう。ハウスダストに過敏な人は密閉性のあるマスクが必需品だ。
仕分けた衣類、毛布、布団、肌着類をかなり大きな段ボールにぎっしりと詰め込む。これが、重い。大きな台車に乗せて体育館の両サイドに積み上げていく。
ついぞ私のとなりに来た男性は戸惑いを隠せない。きっと家庭では洗濯物を畳むことはないのだろう、慣れない手つきで、でも心を込めて畳んでいる光景がなんとも心温まる。おっと、見とれている場合ではない。うずたかく積まれた衣類の山は一向に小さくならない。埃にプラスしてナフタリンで喉がからからになる。マスクを持ってこなかったことを本当に後悔する。
ズボンはチャックが壊れていないか、汚れはついていないか、ボタンはとれていないかチェックし、それから畳んでいく。衣類は人の抜け殻である。特に新品ではないものは人の面影、気配を濃密に感じる。これも一期一会と思いながら丁寧に仕分けていく。
体育館中央に積まれた衣類を見て、ボルタンスキーの作品を思い出す。広大なギャラリー空間の床一面に古着をなげこみ海を作ったインスタレーション作品。泳ぐことができるほどの衣類というのは生涯でもあまりお目にかかるものではないだろう。

実のところボランティアの様子をこれ見よがしにレポートするのは私としてはあまり気が進まなかった。しかし、震災後「少しでも支えになりたい」という心意気で自ら行動に移している人々がいることをどうしても伝えたかった。
それと、物資の集め方と渡し方についても私自身肌で知っておきたかった。ただ物資を集めればよいのではない、ということがよくわかった。仕分け作業は重労働だ。もしこれらの物資が未整理のまま現地に届いても、憔悴しきっている被災者には親切どころの話ではない。また、何をもって支援となるのかという意識。ちょっとしたことだが、襟元が汚れていたり、ジッパーが壊れているものは外すことにしている。どうか被災地で袖を通す人々のことを思い浮かべて今一度整理し直して持ってきていただきたいと切にお願いする。





この1〜2週間

2011年 3月 17日

ずっとブログが書けずにいた。
3月5日、6日と福岡に滞在。九州大学総合研究棟で開催されるフォーラム「臨床するアート」にパネラーとして登壇するためだ。当フォーラムでは大阪市立大学医学部付属病院の山口悦子さん、九州大学大学院医学研究員の濱田裕子さん、そして私がそれぞれの研究テーマ、実践内容についてお話しした。私以外のお二方は医療の現場で実際に働き、実践を通して成果を重ねている研究者でもある。生命をめぐる第一線にたっておられる二人からお話をうかがって、私が「アーティストが現場に立つ」といったところで次元が全く異なるというのが身にしみてよくわかった。まさに臨床という言葉がぴったりと来る。フォーラムの詳細は後日記したい。

ドヤ=簡易宿泊所を改装したホステルに泊まる

3月11日、12日と横浜の寿町に滞在。寿町は日本の三大「ドヤ街」の一つとして知られている。私が初めて寿町を訪れたのは高校2年生の頃である。地図など見ずにぶらつき、とある通りから一歩踏み入れたとたん、町の空気が一変した。公道であるにもかかわらず通りにテーブルや椅子を出して昼間から飲んだ暮れているおっちゃんたちが闊歩している。その印象は鮮烈だった。今思い起こせばそれは寿町初体験だった。寿オルタナティブ・ネットワークが主催する寿お泊まりフォーラムで同じくパネラーとして登壇。
3月11日11:00に横浜到着。午後に首都大学東京山本薫子さんのレクチャーを受講中、地震は起きた。
私は地震の30分前から目眩に襲われ、気分がすぐれなかった。さらに目眩がと思ったら、揺れの大きさがシフトアップし、地震と気づく。とにかく揺さぶられるように大きく揺れた。そこに居合わせた人々の表情は恐怖に歪んだ。その後、公園に避難したのちも大きな余震があり所狭しと密集するドヤ街のビル群がゆさゆさと揺れているのを見た。地面がこれほどまでに心許ないものと感じることはなかった。
横浜でさえ、である。震源地周辺の地域では大変なことが起きているという予感がよぎった。寿お泊まりフォーラムの詳細も後日に記すことにする。

翌日12日、下り方面の交通網が回復してすぐ、18:00ごろ横浜を足早に発つ。すでに電源確保の問題が取りざたされていたので、これ以上無駄な滞在は迷惑になるのではと判断した。夜中名古屋に自宅に戻ると川の字になって熟睡する妻と二人の我が子。起こさないようにそっと髪と頬にふれる。

ハンセン病を正しく理解するため、副園長がレクチャーを開講

13日7:30の新幹線に乗り込み、一路大島へ。地震の直後、大島入りしているカフェスタッフの井木、泉には連絡を入れていた。瀬戸内のハンセン病療養所大島は大きく揺れることもなく、津波の影響も微細で心配はないようだ。12日から一般公開しているため、諸々のディレクションとギャラリー15の展示替えのため大島で滞在。

16日に名古屋に帰ってくる。東北関東大地震の関連でいくつかの心配が心の内を支配するなか、何かできることはないか、ずっと考え続けていた。やさしい美術プロジェクトのメーリングリストではメンバーそれぞれの「できること」の声が行き交っている。こういう局面ではアーティストとして何ができるのか、作品がどのような力を持ちうるのかということよりも、自分がまずできることを見つめることが足下に立ち現れる。それがアートであるかどうかは、もはやあまり意味を成さない。ましてやアートでなければならない理由はどこにもない。

大島会館でオープンした「出張シヨル」は大好評

ドローイング

2011年 2月 28日

さあ、描きましょう。まずは心の赴くままに。

美朝4歳の自画像

開かれた

2011年 1月 9日

「地域に開かれた病院をー。」といううたい文句は、私たちやさしい美術プロジェクトと協働関係にある病院との共同声明である。約9年ちかく前に初めて足助病院を訪れた時に早川院長がおっしゃった言葉を思い浮かべる。
「足助病院は足助で一番人が集まるところです。病院であるとともにここはコミュニティーの場でもあるのです。病院は地域に開かれているべきです。」
小牧市民病院の末永院長と最初の打ち合わせをしたとき、院長はこうおっしゃった。
「病院に作品を見に来てもらってもいいと思います。それぐらい、病院という場所が地域に開かれているのがいいと思います。」
私たちの取り組みの初期からこれらの言葉は様々な意味を持ちながら今日まで受け継いできた。当時のあの言葉はアートが発揮する効果への期待感というよりは、医療者対患者、病院と地域というこれまでのわかりきった関係性のみでは成り立たない何かと向き合い、一歩を踏み出さなければという焦燥感がにじみ出ている。

大島は国が離島につくったハンセン病の療養所。入所者の言葉を借りれば、「ハンセン病患者を目立たず誰にも気づかれない場所に閉じ込め、そこでひっそりと滅するのを待つ」場所だった。「ところがどっこい、私らはまだ生きとるぞ。」とおっしゃる入所者の声は、生き抜いてきた、生きてきてしまった、生きることを与えられた、つまりは生きながらえた生命体の証そのもののように響く。

大島を開くこと。それはハンセン病回復者である入所者がふつうのおじいさん、おばあさんになることだ。今の私にはそのように思える。

病院を開くということ。それは普通に日常を生きることと、(何かの理由で)病院にいることが地続きになること。

そこだ。これからそこをじっくりと詳らかにしていきたいと思う。

つきぬけろ!

2011年 1月 7日

我が家のハムスターは12匹。
留守がちな私に加えて我が家族全員が自宅を出払った時に一つがいのハムスターを義理の妹のところにあずけたらしい。
数日の後メスのハムスターが子どもを身ごもって帰ってきた。 なんとお相手はうちのつがいではなく、義理の妹のハムスターの子らしい…。これ、人間だったらひと騒動だわな。
そんなこんなで産まれてきた何匹か大きくなったと思ったら、今度は正真正銘夫婦同士の子どもができ、爆発的に増殖。成長途中に死んでしまったのもいるけれど、ほとんどが元気に育った。このまま増えてしまっては狭い我が家はあっという間にネズミ屋敷になってしまうってんで現在は3つの水槽に分けて飼っている。なぜ3つかって?それはオスとメスを分けるのは当然のこと、獰猛で他のハムを傷つけるもの、脱走好きなのを分けているのである。

オスは4匹。これが一匹ずつキャラが濃い。脱走しても何故か人に向かって逃げてくる天然ちゃん。やたらと何でも噛み付いて、自分までかみ殺してしまいそうな勢いの輩、体が生まれつき小さくてトラブルの時は自分の存在をうまーく隠してやり過ごすヤツ、からから廻す遊び道具をやっきになって倒し、その下に潜り込むまちがった遊びをするの。こいつらが、もうすでに何十回と脱走をはかっている。というか脱走そのものを生き甲斐にしているといっていい。写真を見てほしい。穴が「つきぬけろ!」と言っている。

重石にした雑誌をかじった跡 この穴を抜けてハムたちは脱走をはかった

おーまいがっ!

2011年 1月 5日

12月26日づけのブログにて、我が家でのワークショップの様子を書いた。さてその続編。
天白川で採取してきた粘土をさらに練り込んで、「にゅるん」としたものを作ろうということになった。その「にゅるん」感は半端ではつまらない。周囲が映り込むほど磨くことにした。
まず、徹底的ににゅるんっとしたフォルムをつくる。コツは「かたちが向こうからこっちにむかってくるようにイメージ」してつくること。口々に「にゅるん、にゅるん!」と呪文を唱えてつくるのも効果的。(ほんとですって。)
私と慧地が作っている間、美朝は「あー、う××。う××!ひゃははは。」を連発。ま、確かに…。
かたちづくるのが完成したら、しばらく乾燥させる。
生乾きの状態で今度はスプーンでひたすら磨く。粘土は乾いてくると乾く前より若干濃い色になってくる。乾きすぎると今度は白くなり、固まってしまうのでその直前のタイミングを逃さないようにする。磨いていくとみるみるうちに光沢が増してくる粘土の様子に慧地も夢中。
「ぴかぴか」ではまだまだ。「みかみか」になるまで磨く。(わかるかなぁ、この違い…)
私が仕事をしている間、奥さん、慧地、美朝でドーナツを作ってくれる。絵本に出てくる主人公がおいしそうなドーナツを山のように揚げているのを見て、作ることになったらしい。型抜きして輪状のドーナツを量産。奥さんが「どんな形のものも作っていいんだよ。」とアドバイスして、慧地はソフトクリーム型を作ることにした。
揚げたてのドーナツを、先日陶芸家で友人の加藤圭史氏よりゆずってもらった織部のお皿に盛る。次の瞬間悲鳴が。
「おーまいがっ。」
色も、ココアが練り込んであるのでまんま、あれです。
織部のお皿はほんとにすてき!我が家ではこんな使い方になってしまったけれど許してぇ!

左が私、右が慧地作

土とは思えない!

あけましておめでとうございます。

2011年 1月 1日

あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

大島の野村さんが育てている松の盆栽

ルーを使わないカレー

2010年 12月 30日

今日は毎年恒例の餅つきに小原村に行く予定だったが、慧地くんのノロウィルスがほかにうつってはと、大事をとって自宅でゆっくりすることにした。それにしても残念。小原で世話になった方々、小原の子どもたち(っていうか、もう大人)に会いたかった。
その気を紛らわすわけでもないが、スパイスでカレーをつくる。昨年もこのブログでカレーをつくって小原に行ったって書いたっけな。
ターメリック、クミン、ガラムマサラ、カルダモン、シナモン、ニンニク、ショウガなどなど。これら香辛料は漢方薬になるものばかり。薬膳のようなものだ。慧地に食べさせて、早く風邪直さなくっちゃね。

プロジェクトルーム 大掃除

2010年 12月 27日

昨日のやさしい美術プロジェクト忘年会は焼き肉。20代の学生たちでも食べきれないほどのコース料理だった。それに加え、当日こられなくなったメンバー一人分も上乗せだったので、肉の洪水に溺れ、敢えなくノックダウン。
40代の私はもたれた胃を抱えてプロジェクトルームへ。
10:00 今日はプロジェクトルームの大掃除
書棚から作品や素材を保管している大棚まですべて引っ張り出して整理し直す。分散していた重要書類、未整理のまま放置されていた素材や金具類、梱包をし直したり、道具類が出しやすいように配置をかえるなどの大掃除を敢行。ついでに学生やスタッフがこのプロジェクトルームにある備品類、書籍が把握でき、今後活動する際も無駄がなくなるだろう。
スタッフ川島は今日で今年の仕事納め。例年はこの時期に搬入が何件も重なっていることも珍しくなかった。今年はいつもよりちょっとだけゆったりとしたプロジェクトルーム。
19:00 途中でお花を買って自宅に帰る。今日は奥さんの誕生日だから。お祝いはお気に入りのレストランで、ということになったが、今日は残念ながら定休日だったので後日パーティーをすることになった。でもしばらく肉はいいや…。

自宅ワークショップ

2010年 12月 26日

昨日撤去したFLAXUSのディスプレイ。12月18日、19日とワークショップを行ったのだが、私は大島滞在中で参加できず、学生にお任せ。搬出作業の際にワークショップの残った素材をもらう。「先生、お子さんのために持ってかえってあげてください。」
今日は子どもたちとワークショップを自宅で再現。素材は昨日もらっているのであとはやるだけだ。慧地、美朝とも集中して制作。記念撮影は「でっかい尻のサンタ」の前で、とはいかなかったが、なかなか楽しかった。
午後は自宅近隣に流れる天白川に行く。粘土が採掘できる場所をついこの間見つけたのだ。子どもたちと土の粘り具合を体感しながら地面を穿る。その後は川の水面に石を投げ込んで遊ぶ。飛び石をやってみせると子どもたちが何度飛び跳ねたかカウントしてくれる。石の形状が円盤状になっているものほど水面を這うように細かい跳躍を繰り返す。子どもの頃に体で覚えた感覚が呼び覚まされる。
あわせて1キログラムほどの粘土を採集してきた。自宅に戻りこれを徹底的に練る。採りたてほやほやの土をよく観察すると、様々な不純物や層状になった成分がマーブル模様を描いている。とっても美しい。それを練り込むと模様はゆっくりと溶け込みほのかにオレンジ色を帯びた粘土となる。子どもたちも練れば練るほどに粘りが出てくる粘土の感触に夢中だ。それで恐竜を作ったり、おだんごを作ったり、ロボットのキャラクターを作る。自宅ワークショップは楽しい。
さて、夕方からは金山駅近くの焼肉屋にいくことになっている。やさしい美術プロジェクトのメンバーで集まって忘年会だ。ではでは、行ってきます!