Nobuyuki Takahashi’s blog

Archive for the ‘エッセイ’ Category

頭のおかしい人へ

2011年 10月 19日

ある町の依頼で公園に公共設置の作品を設置した。14、5年前のこと。僕以外の出品作家はアトリエで制作した彫刻を台座に据え付けるものだった。僕は周囲の不安の声をはねのけて現場制作に踏み切った。石材を地面に敷き込んで人一人がすっぽりと入る凹みを大地に穿つ作品だ。
ひと月現場に通い続け、地面に穴を掘りコンクリートを流し込み、石を叩き込む。周辺の住民の目線から感じるに、ある日唐突に現れた「頭のおかしい人」が自分を埋める穴をひたすら掘っている、そんなふうに目に映っていただろう。兄が病死して二日程しか経っていなかった着工当時は鬼気迫る勢いで作業に没頭する他なかった。
現場で作業をしていると、道ゆく人々の冷たい視線を感じることもしばしば。そのうち「俺はここにこんなものを作ってくれと頼んだ覚えはない」とか、税金の無駄遣いだ」などと私に罵声を浴びせる人が出てきた。僕はどんな話もまず耳を傾けたが、制作を止めることなく、毎日現場に通い続けた。
話しかける人も稀にいたが、遠巻きに見ている人がほとんどだった。毎日買い物袋を提げて行き過ぎる初老の女性も行き過ぎるだけの通行人の一人だったが、制作も佳境に差し掛かったその日は何かが違っていた。
その女性が初めて私が制作している現場で足をとめたのだ。そして、おずおずと私に差し出したのは、一本の缶コーヒーだった。その方は「初めて缶コーヒー買ったの」とおっしゃる。距離をとっていた人が実は一番近くで見守ってくれていたのだ。あーあの時の缶コーヒーの温くて甘かったこと!
時は下り、やさしい美術プロジェクトを設立して5年が経ち僕は作品搬入のため新潟県立十日町病院にいた。窓ガラスに作品を設置していると、背後から話しかけられる。振り返るとそこにはパジャマ姿の入院中であろう女性がぽつりと立っていた。差し出された手には缶コーヒーが!いうまでもなく、その缶コーヒーはあの時と同じ味がした。

考察 近づいてできること2

2011年 10月 2日

その「空白」が意味するものは何か。
仮に私たちが暮らす日本において、美術館とギャラリー、それらの場で発信される美術作品で考えてみたいと思う。
美術館やギャラリーは一歩も病室から出られない人には遠いと言わざるを得ない。まず美術館やギャラリーにたどり着けるかどうか。そもそも「ドクターストップ」というのがある。たとえなんとか出かけられたとしても不自由で深刻な容態に作品や展示がことこまかに合わせてくれることはない。作品はあるべき姿を保ち不特定多数の鑑賞者が来るのを待っているのだ。

では美術館やギャラリーが病院にやってくるとしたらどうか。まず病院に美術作品があることの根拠を問われるだろう。アートははたして薬剤のように効くのかと。施設内に張り巡らされる制限と抑制は人命をあずかる現場こそだが、そこには医療制度の画一性や権威、体制の力も作用している。その状況にアートの枠組みが飛び込んで行くのはまさに水と油。アートは強大な体制や制度に屈せず、むしろそれらを自らを構成するコンテクストとして飲み込んできたのだから。

物理的な距離、心理的な距離感、文脈と価値観の差異、分野・領域の拘束力…。それらはいずれも実体がない。そしてそれらを認識しているのは他でもない私自身だ。

私が瀕死の兄を目の前にしていること全ては何かに準えられるものではなく、同じ生命体として細胞が反応するようなものだ。それは表現の初動と出所は何らかわらない。狂おしいまでの情熱で目に見えない「隔て」を溶かしていく。私がやるしかない。

作品のディティール

考察 近づいてできること1

2011年 9月 25日

美術作品が社会で役割の一端を担う道筋として、強く、深く、遠く、そして多くに伝えるしくみがある。その極には国をあげてのビエンナーレ、美術館やコマーシャルギャラリーなどがあげられる。殊に現代美術はその強靭で鋭利なコンテクストによって世界に存在する事象を大胆に串刺しにし、解体し再構築する。作品はなおのこと、発信の形式の独自性と自律性を極限まで高めることで、社会に介入する。それがアートの枠組み独特の存在感であり猛々しい一面だ。

私が兄の病室でしたことは一体何だったのだろう。
昨日見られた笑顔は今日は見られなかったり、穏やかに話せたと思えば、刺のある言葉をお互い投げつけることしかできなかったこともある。まさに一喜一憂、病室の空気感は色に喩えれば寒色系の日もあれば暖色系のこともあった。小康状態もあったものの数十日というスパンで見れば兄の病状は着実に悪化していたし、入院から亡くなるまでの9ヶ月を俯瞰すれば日常の平静さから緊急を要する状況へと下降して行くまだらなグラデーションのように思えた。
兄の病状がおもうように恢復せず、本人の苛立ちが頂点に達していた頃だったと思う、私は私の描いたドローイングを病室に展示することにした。その頃の兄は何クールも抗がん剤治療に耐え、心身とも憔悴しきっていたが、まだ眼力は衰えていなかった。
自分の作品には何かしら人に影響を与える力があると曖昧な信じ込みがあったかもしれない。しかしその時の私には「アートに何ができるのか」「アーティストは何ができるのか」ましてや「癒してあげたい」「元気を与えたい」なんてお題目はまったく思い浮かばなかった。何かを与えたいというよりは、ただ兄と一緒に希望となる光を見たかった。壁に貼付けたボクサーのドローイングは私の分身であり、多くの思い出を共にしてきて私が兄と共有できる兄の分身でもあった。
ドローイングは兄がベッドに横たわった時のその目線の先に入るようにした。通常の展覧会であればかなり高い位置になる。かといってサイトスペシフィックで造形的な意識でもない。いかんともし難く衰えて行く兄の身体の延長にそのドローイングはつながれていた。
兄は余命宣告を受けてからというもの激痛に悩まされる日々、繰り返される嘔吐…。私たち家族はそのたびに足をさすり、背中に手を当て、固くしぼったタオルで兄の額を拭った。意識を失い昏睡状態におちいってからも、時折兄は声を荒げながら天井に向かって拳を突き出すことがあった。今となっては兄の心の内を聞くことはできないが。

兄の病室にいる私はアーティストである前に血のつながった弟だった。だから近くにいる者としての私は無力感に苛まれ、やり場のない怒りと不安でいっぱいだった。何ら特別なことではない、誰にも起きることだ。ドローイングを描き、飾るのも、兄と話すのも、兄の手をにぎるのもどこからどこまでという領分で切り分けられるものではない。そこではどのような思いつきも動作も表情も意味や意義の括りは霧散してつながっている。自ら求められる、求められていると感じて、自分のできることをしていただけだ。目の前にいる兄と向き合っている自分は身にまとうものは何もない。
病室を後にして、作業場にもどる。個展がせまっている作品の制作をすすめるためだ。作品の完成度を研ぎすましていく。強く、深く、遠く、そして多くの人に向けて。制作の最中ふと唐突に兄のことが脳裏をよぎる。今ここで制作していることと兄の病室で起きていることとの間に横たわる埋めようのない空白。
私がやさしい美術プロジェクトを立ち上げる4年ほど前のことだ。

1997年当時私が発表した作品

非常事態から平穏な日常

2011年 9月 11日

6日から7日まで宮城県の被災した地域をまわった。
七ヶ浜町は私が最初にボランティアに出かけ、「ひかりはがき」を手渡しした場所だ。避難所で暮らしていた人々は仮設住宅に移り、一見平穏な日常を取り戻したかのように見える。

レスキューストックヤードの石井さんと情報交換する。
あまり知られていないことなのでここに記しておこうと思う。

家や家族を失ったのは仮設住宅に居住している世帯ばかりではない。 避難所にいることができずに自費でアパートを借りた人、応急の仮設住宅として町営住宅や社宅に入った人もいる。それらの事由で町外に出てしまった人がいる。そして、驚くべき事実。これらの人々は震災直後から物資は届かず、支援の手や呼びかけも受けていない。生きているのかもわからず、所在が不明の人もいる。人との関係が断ち切られ、閉じこもって暮らしている人がいる。閉じこもっているというのは適切ではないかもしれない。人との交流の機会がまったくないのだという。このような人たちは町外に出て、たとえ近くであっても自分の故郷である町に戻る機会を失う。顔見知りもどこに行ったかわからない。そもそも物も情報も届かないのだから、だれがどこにいるのか、生きているのかすらわからない…。

物事は直線的に進むものではないのだな、とつくづく実感する。レスキューストックヤードはこうした「みなし仮設住宅」やそれに漏れる状況に立っている多くの被災者に目を向けて、交流の場や物資や支援が届く機会を目下模索中とのこと。支援して行かねばならないところを隅々まで掬いとろうとする懸命の活動だ。

この凄まじい状況を聞き、私も「ひかりはがき」の手渡しをどのように、そしてどこで渡していくのか、あらためて考え直すきっかけとなった。とにかく足を使って自分の感じたことからやっていくしかない。

私たちの生活は非常事態の外にあるかのように平穏な日常をベースに営まれている。しかし、私たちは知った。非常事態から断ち切られた日常なんてありえない。平穏だと思う日常には非常事態はたくさんころがっているし、非常事態から日常を取り戻すためには自らを救い出していくエネルギーが必要なのだ。

非常事態から平穏な日常にいたる延々たるプロセスは全てつながっている。そこに身を置き、創造性を発揮するアーティストがもっといてもいい。領域の棲み分けを越えて協働する場が、広大にひろがっている。

女川町の避難所にてひかりはがきを渡す。談笑しながらじっくり鑑賞

女川町。コンクリートの建物が大地から引きはがされて転がっている。

亘理町。家が残っているが津波の衝撃で傾き歪んでいる。人々が住める状態ではない。

人々の手によって清掃された亘理町。人気がなく、信号機も動いていない。

七ヶ浜町仮設住宅にてひかりはがきを渡す

七ヶ浜町仮設住宅と表札

解剖台の断面

2011年 9月 4日

昨年7月に大島北西の海岸にて発見された解剖台。引き上げと展示を決め、大島青松園の作業部の男たちが不可能と言われた引き上げ作業に取り組んだ。
解剖台は大島で使われていたものだ。30年近く前に不要となり、火葬場近くの岸壁から打ち捨てられると同時に、人々の記憶からも姿を消した。
7月頭のこと、大島の入所者であり写真家の脇林清さんが引潮時に姿を現したコンクリートの塊を写真に撮ったのが引き金となった。入所者にしてみれば、誰から見ても一目瞭然、解剖台だった。
引き上げられる際に真っ二つに割れてしまった解剖台。無理もない、解剖台には芯材が入っておらず、そのまま移動することは困難だ。このコンクリートの塊は大島の外で作られたのではなく、おそらくここ大島で作られそのまま据え置かれたものだ。

二つに割れてしまったからこそ引き上げることができた解剖台。ひょうたん型の周縁部も大きく破損してしまったが、断片は残さず回収して保管した。
拾い集めた断片をひとつひとつパズルのようにつなぎあわせる。解剖台の修復をしながら、その断面を心に刻む。どのような色をしていたのか、どのような質感だったのか…。

修復しながら私が撮った写真をここに掲載しておく。大島を訪れた際にこの解剖台を通っていった人々のことを思い起こしていただきたい。きっと解剖台は私たちの心の内を鏡のように映してくれることと思う。

解剖台再発見時 写真:脇林清氏

解剖台の設置の様子

修復が終わった現在の解剖台


ちよだ にょきにょききらり

2011年 9月 2日

発達センターちよだでの造形ワークショップは先月から新しいメンバーで引き継いだ。以前、ちよだでのワークショップの成果を発表する「どんどんだんだん展」という展覧会を開いた。企画の中心メンバーは現在大島でカフェ・シヨルを運営している井木宏美。当初は「どんどんだんだんにょきにょききらり展」という展覧会名を井木がつけたが、「ちょっと長過ぎるわ」と説得して短くした。井木は実は相当気に入っていた展覧会名だったと後で聞かされたのだけれど。
今日、現像があがってきたフィルムに目を通していて、突然「にょきにょききらり」という擬態語が思い浮かんだ。ちよだでのいきいきとした子どもたち、ワークショップを開くメンバーたちの表情。まさにぴったり!



静かに熱を帯びた時間 家族

2011年 8月 21日

静かな熱を帯びた時間

2011年 8月 20日

瀬戸内の島々

2011年 8月 15日

豊島の漁師さん

女木島から観た大島

豊島美術館カフェにて

大島の盲人の方々が杖で叩いた柵

犬島の煙突

横井敏秀先生のこと

2011年 8月 1日

2009年夏 「やさしい家」のバナーは横井先生の指導のもと制作した

横井敏秀さんが6月9日にご逝去された。
染色家として長い間本学でご尽力された私たちの大先輩だ。
縁あって数年間同僚として仕事をさせていただいた。
2年前、体調を崩され、そのまま入院された横井さんを見舞った時、窓際にはMorigami(もりがみ:折り紙の木で森を育む参加型作品)、点滴棒には学生がフェルトで制作した小さなキャラクターが提げてあった。

横井先生はその後小康状態で退院され、力の続く限り染色工房で教育研究活動に邁進された。私たちやさしい美術プロジェクトは素材のこと、技法のこと、何度も横井先生からアドバイスをいただき、時には工房で一緒に汗を流した。

ここに深くご冥福をお祈りします。本当に、お疲れさまでした。

長男の慧地 「やさしい家」で滞在した日々は忘れない