Nobuyuki Takahashi’s blog

Archive for the ‘制作ノート’ Category

藤井健仁の鉄面皮

2009年 5月 31日

今日開催予定だった「子ども療養環境フォーラム研究発表会」。私は座長を頼まれていたが、インフルエンザの影響で直前に延期になり、オフ日となった。昨日の香川県庵治町での住民説明会はたった30分あまりのプレゼンテーションだったが、考えあぐねた末の内容だったのでひどく疲れが残っていた。朝と夕方、子どもを散歩に連れて行く。ひさしぶりにのんびりとした時間だ。
夕方、娘を連れて、GALLERY Mに行く。私の古くからの友人で鉄の彫刻家藤井健仁の個展だ。鉄面皮のシリーズはブッシュ、麻原彰晃などのワイドショーをにぎわす面々を鉄を熱してたたき出す方法で制作したものだ。彫刻界では邪道とまでいわれる「お面」を彼は敢えて制作している。その途方もない作業と労力は情熱といえばそれまでだが、憎しみ、嫌悪、愛、慈しみがないまぜとなった営みだと彼は言う。殺人に値するほどの労力、処刑人としての愛。
私も専門を彫刻としているが、彼の表現とは全く方向性も手法も異なるものだ。しかし、今日ふと「意外と近いのかもしれない。」と感じた。というのも、私のテーマと同様に彼も事物の表面と中身についての問題意識が強く働いていると思えたからだ。仮面は事物を見えなくすることもあり、中身を象徴的に映すこともある。そうした表面を追いかけることで、かえってその背後にある不可視の領域に迫って行くことができる。その歪んだ姿勢に共通点を見出した気がしたのだ。ギャラリーの空間は洗練されていて、藤井の表現をくっきりと浮かび上がらせていた。

世界を切り取る

2009年 2月 2日

2月1日(日)午後に市民ギャラリー矢田で開かれている「Finder」展を見に行く。ブラジル移民100周年記念行事として、名古屋市文化振興事業団が助成している企画展だ。会場に着くと、企画者の長谷川哲さんにちょうどお会いすることができた。展覧会は3階の5つの展示室、4階の展示室全館を使った大規模なもので、写真というメディアを駆使した表現の作品が並ぶ。
天井高6mの広大な4階の第一展示室で長谷川さんが展示している。「これまでのシリーズが風景論だったとしたら、今回の展示は人間論である」というコメントが会場に掲示されている。写真は世界を切り取ったものである。時間と空間を描写し、その一瞬を克明に記録する。長谷川さんは写真の現実感をはぎ取るために、まず写真をコピー機にかけるそうだ。モノクロームの世界のある一部分ーここでは風景の一部である「人」ーの他はノイズのようなストロークのはげしいスクラッチが画面を覆っている。空間全体で見た時に、それらの人の所在がきわだって浮かび上がってくる。まるで霧の中から人影だけがこちらに迫ってくるかのようである。広大な展示室全体にストロークがとびかっているように感じられ、壁面のみに写真が展示されているのだが、空間の充満感がすごい。
私は最近、写真をよく撮っているので、今回の展覧会はとても興味深かった。世界をいかに切り取るか、という課題もあるが、一旦切り取った世界を絵画的なプロセスに乗せて再構築したり、冷徹に切り取られた世界に情念の息吹をふきこむなどのプロセスも必見である。
私はここ数年はレディーメード(既製品を用いた制作方法)で制作してきたが、写真には世界をそのまま切り取るという性質があるので、自然と惹かれていったのではないかと自己分析している。つまり写真とは究極のレディーメードではないか…。
世界を切り取り、それをどのようなかたちで現出するのか、「Finder」展を見て、自分の制作に投げかける。

やさしい家との対話

2009年 1月 21日

私が制作した+Galleryでのインスタレーション作品。ギャラリーの床下の小さな空間にもう1つの隠されたギャラリーを制作。

私が制作した+Galleryでのインスタレーション作品。ギャラリーの床下の小さな空間にもう1つの隠されたギャラリーを制作。

その床下のギャラリーには元うどん屋だった様々な遺物を拾い集め展示した。これは床下のギャラリーに小型カメラを仕込み、それをテレビモニターで見られるように装置づけられている。

その床下のギャラリーには元うどん屋だった+Galleryで発見した様々な遺物を展示した。これは床下のギャラリーに小型カメラを仕込み、それをテレビモニターで見られる仕掛けなっている。

1月16日、17日、18日と2泊3日で新潟県十日町市に行って来たことは先のブログで紹介した。
その活動について。
これまでにも、何度か説明したが、私たちは「大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ2009」に参加する。その活動場所として新潟県立十日町病院、そして「やさしい家」と名付けた、空き家をサテライトスペースとして活用する。
16日(金)の研究会と定例となった懇親会をあとに、17日(土)は朝9:30ごろから空き家「やさしい家」の整備にとりかかった。朝一番に家主さんである樋口さんが来てくれていて、のこりの大きな洋服ダンスを4棹ほど、近くの現在のお住まいにトラックで運ぶ。その間雪が降り続ける。見かける人々のほとんどが長靴。これだけ雪が降っているのに、十日町の商店街には人影が少なくない。当たり前の日常なのだろう。私たちにとっては寒さに震える以外の何者でもないが。
その後全員で空き家の掃除をする。畳の上を雑巾がけし、廊下の隅々、障子の桟一本ずつに至るまで磨きたおす。こうした作業は展示する前の片付けであるだけでなく、人が住まなくなって久しいために降り積もった積年のほこりを落とし、清める意味合いもある。私の考えではこれらは空き家の歩んできた歴史や暮らしの痕跡を排除する作業ではないと思っている。もし、そうするのであれば、躊躇なく壁という壁にベニヤ板をはり、白ペンキでオールペイント、いわゆる「ホワイトキューブ」に作り替えてしまうだろう。だからこそ、生活の気配や痕跡を構成する、片隅に遺されたほこり、柱に残る傷、片隅に打ち込まれたままの釘一本にいたるまで、その背後にある存在意義を確かめなければならない。すべてを現状のままにすることも1つの考え方だろう。でも、それでは「空き家」であることがあまりにも強く感受されてしまう。そこで空き家独特の無作為の積み重ねが放置されているところから、そこにある事象に耳を傾けながら取捨選択していく作業が必要になってくる。喩えれば、長い年月の間に描き換えられ続けた壁画の一層ずつをその当時の関わった人々の意図を読み取りながら剥離し、もとの原画に近づけていく作業と言えば良いか。
アーティストの仕事は新品のキャンバスに筆を入れることばかりではない。すでにそこにあるものたちには時間と空気と人の気配が在る。それらと対話し、そこに一筆を入れる仕事があってもいい。上の作品写真は私と二人のアーティストとで運営する自主運営スペース+Galleryで展示した作品である。自分たちの手で元うどん屋だった建物をリノベートした。だからこそ、制作できた作品である。

ほんとに飲めたらいいのに

2009年 1月 7日

飲んでみたい!Mac OS牛乳

飲んでみたい!Mac OS牛乳

私の作品のシリーズの中で、surface and contentsというのがある。表面と中身、ということだ。中身ということを考えると、つい食べ物や飲み物、材料や物質的なものをイメージする。私たちの頭の中身を考えてみよう。もちろん脳があるが、その他に知識、思考、感情、記憶などがつまっているはずだ。でもそれらは物理的な、物量的なものではなく、喩えれば、水面に広がる波紋のように儚い現象のようなものだ。物理的なモノではない、コトたちは容れ物に問われない。書物の中に容れる。パソコンのハードディスクに貯める。体に憶えさせ、脳に記す。そこで、私は実際に物量のないものに物量を与えてみようと思った。質感が感じられるような状況を創ろうと思った。それらの感覚は想像できればよい、そう思った。
さて、できあがった作品は見た目は牛乳パックの「MacOS完全マニュアル」ポッキーもどきの「人体解剖書」スナック菓子状の「宇宙論」。
どんな味がするのか想像してください。

想像力

2008年 9月 12日

衣服彫刻/adidas/高橋伸行

衣服彫刻/adidas/高橋伸行

「感覚は共鳴する。」証明する方法は誰も持っていないが。
共鳴の実例をあげるならば、それは2つの音叉の一方が振動することでもう一方が振動の刺激を受けて振幅が大きくなる現象のことである。私を捉えて放さないのは、見たところつながりのない2つのものが次元の異なる現象によって共に打ち震えるというシンプルな構造である。それは私たちの身体(それは見かけのヒトガタという意味において)は個別でありながら、共鳴する感覚を持ち合わせているのと似ている。こうした前提は共同幻想を育て、暴走し、時には敵対するもの(共鳴しないもの)に攻撃を加えたという歴史もある。とても恐ろしいことだ。
美術の表現は基本的に個から発せられるものだ。個の表現という地平があるからこそ、個が何処に連なるものかという視点を持つことができる。孤独な営みが共鳴の波紋を拡げるのである。
想像力のトレーニングが必要だ。現代において「痛い」と感じる人に「痛み」を感じる想像力は、自然と培われるものではなくなってきているように思う。何故だろうか。これからじっくりと見てゆかなければならない。
さて、次へのステップは想像することのできた感覚をしかと受け止めてゆくこと。そしてその感覚に自ら押し潰されないようにすること。

制度

2008年 9月 11日

どん兵衛/高橋伸行

どん兵衛/高橋伸行

せい‐ど【制度】社会における人間の行動や関係を規制するために確立されているきまり。また、国家・団体などを統治・運営するために定められたきまり。(大辞林より)

私たちをとりまく、様々な「制度」は私が生まれる前からずっとあり続けたものもあるし、最近できあがったものもある。「制度」は実は社会的に認知されているという意味において書面の一字一句まで定められているきまりごと・しくみの他に、従わなければならない事柄や一般的な常識のことをさすこともある。この広義での「制度」について考察し、アクションをおこしてゆくことは私のライフワークでもある。というのは「私」という個人そのものが生まれもって制度化されており、それによって私の意志に関係なく、外部から保護されたり、時には苦しめられたり、閉じ込められたりするからだ。私なりにまじめに生きようとすると、常にこの見えない壁に衝突する。
私は制度を破壊するアナーキストではない。ただ、制度が成立している根拠を置き去りにして、それを闇雲に振りかざしてくるような私への攻撃(いささか被害妄想ではあるけれど)に対して徹底抗戦しているだけである。私は制度のなかで生まれ、制度の中で育ち、私という存在が制度化された人形(ひとがた)であることを忘れてはならない。でも制度の内にじっとしているのは耐えられない。制度に向き合うということは先人が取組んでいた泥人形にあらたに私が一手を加えるモデリングであってほしいと願う。

モデリング

2008年 8月 27日

彫刻の世界では彫塑、塑像、肉付けする立体造形手法をモデリングと呼ぶ。私は浪人生のころ、自宅の近くに住んでいた彫刻家 原裕治氏から「モデリング」を教わった。朝5時前には原氏の自宅兼アトリエのある宅地造成地に行く。私はひたすら造成地のデッサンを描いていた。その後原家の飼い犬の散歩を終わらせるころ、原氏は制作にとりかかる。日中はほとんど彼の作品制作のお手伝いをするのが日課だった。日が沈みかける頃、原氏から時間をもらい、石膏像を造成地のど真ん中に置き、猛スピードでデッサンする。そう、日中は石膏像は白浮きしてしまい、とても描き留められるようなものではない。何度か試みたが紫外線で目が真っ赤になるのがおちだ。だが、夕方のまどろみのそのひとときだけ、かたちがはっきりと目の前に立ち現れてくる。ギリシャ彫刻の多くは石切り場から切り出された大理石を白日のもとに石工たちが鑿をふるったに違いない。その時間帯にほんの少しだけ、石工たちが見ていた日差しが感じられる気がするのだ。石膏像はアトリエの中の蛍光灯の光で見るのではなく、外に置き自然光で見るべきだろう。
私は木材や石材の中から形態を掘り出していくカービングよりも、何も無いところから肉付けしていくモデリングが好きだった。私は粘土によるモデリングで友人の首像制作に一気にのめり込んでいくー。そこにあるべきでない手前の一掴みの粘土を的確に取り出し、背後のあるべき場所に、その「量」を置く。手前と奥、下と上の対応に沿ってモデリングを繰り返していくと首像の表面をつかさどる 螺旋(らせん) のダイナミズムが現れて来る。対象の奥にひそむ別の法則をみつけるような高揚感がそこにはあった。
この二日三日、プロジェクトの様々な必要書類の作成に追われている。無理もない、シンポジウム、トリエンナーレの計画、空家プロジェクトの段取り、足助病院、小牧市民病院への対応、すべて同時並行で進んでいるのだ。
それらの書類作成はここを削ったり、あるところを盛り込んだりで、これもまさにモデリングだ。美しい書類というものもやはり存在する。
原裕治氏が亡くなってもうすぐ1年が経つ。あの人はモデリングの達人だった。

呼吸するフレーム1

2008年 8月 17日

私たちの活動は1つの枠組みではもはや捉えることはできない。だからといって「なんでもあり」ということではないと私は考えている。自分の制作や取組みが何をベースに展開しているかは常に自ら問い続けなければならない。その指標の1つとして自分の専門分野がある。
私は現代美術のアーティストである。その専門は彫刻である。極端に聞こえてしまうかもしれないが、私の感覚ではコミュニケーションも造形と捉えている。日本で一般的に彫刻と認識されている、実材を用いた造形表現は、物質感として自分にはね返って来る探求のかたちだ。たとえ、物理的なやりとりでなくとも、実材と深く関わった経験は活きているというのが私の持論である。
「関わる」ということは「関わろうとする主体」と「関わる対象」の双方が変化することだ。自分自身を含めてすべての物事が固定的だとするとコミュニケーションは生まれない。お互いが重なり合う場所がないコミュニケーションはコミュニケーションではないと思う。
彫刻に取組み始めたときは、自分の意図やイメージ、造形的センスに忠実に実材を造形することを目指した。技術の問題か。ビジョンの不明確さなのか。厳密になれば厳密になるほど、実材は思うようにかたちになってくれない。試行錯誤して掘り続けた木彫はすべて木っ端になることもしばしばだった。造形するとはひとつひとつの行為の可能性の枝葉を見極めながら選びとっていく作業でもある。その道は険しく、アスリートが自らの身体をモニターし、完成度を高めていくのと似ていると思う。自然素材を制作者のおもむくまま単なる素材として扱ったならば、私は永遠に素材を破壊しつづけたことだろう。素材の方からこちらに語りかけてくることがあると気付いたとき、私の中の「造形」がぐっとひろがりを持ち始めたのを覚えている。自分の感じ方、自分の考え方、自分の世界観。それらは常に外部との接触にさらされ、呼吸している。換言すれば呼吸とはつながりのことである。
やさしい美術のプロジェクトメンバーは様々な美術分野、デザイン分野の有志で運営されている。病院と言う現場を得て、それぞれの専門性が必要に迫られて高められていく。一方で専門性を横断し、時にはグループワークで企画されるものが生まれている。
プロジェクトは様々な能力が呼吸し、やわらかに関わりあう。

大島

2008年 8月 11日

瀬戸内にある小さな島。香川県にある「大島」という島をご存知だろうか。
90年もの長い間ハンセン病の患者さんは国の政策により人里離れた場所に隔離されていた。古来からの差別を含めればその90年もほんの一部。ハンセン病は差別的に「癩(らい)病」と呼ばれていた。人目にふれる顔や手足に病変が現れ、その後遺症で身体的変形がのこる。そのため「業病」「天刑病」と恐れられ、病気にかかった人々は何の根拠もなく偏見と差別にさらされ続けた。もちろん現在は感染のメカニズムは明らかになり、科学治療法による通院で「可治」する感染症の病気である。1996年らい予防法が廃止されるまで、国家制度として強制隔離されてきた人々がいる。おどろくことに12年前までだ。
大島は高松港から約8キロ。四国本土からは最短1キロのところに浮かぶ面積わずか61haの小さな小さな島である。大島はハンセン病を発症した人々が強制隔離された歴史を背負っている。今も元患者である入所者の方々が大島青松園にひっそりと暮らしている。
私は縁があってこの大島に出かけた。高松港から20〜30分船にゆられ大島に着く。船着場以外はほとんど護岸工事がされていないので、島はありのままのかたちをとどめていてとても美しい。
かつて島は社会から完全に隔絶されていた。制度的に解放されたとしても島に行ってみると今もそれは強く感じられる。そして島の中でも「有毒線」という当時の患者と治療者居住区を隔てる壁が存在していたと聞く。私は歩き回りその痕跡を探したが、全く見つけることはできなかった。入所者の方々は平均年齢78歳を越え、高齢化している。なぜなら、入所者はこどもを持つことを許されなかったから。また入所者の方々は家族と断絶されている場合がほとんどである。だから血族的なつながりを示す本名を名乗ることもしないし、できない。
私たちは意識するしないに関わらず、他者や世界と関わり生きている。それは、はっきりと目に見えるものではないので、その「つながり」の感覚が感じられると深いよろこびとなって心にのこるものだ。もしそうした「つながり」が断絶されたとしたら…。私にはどんなに想像しても想像できない、どんなことばもきっとあてはまらないー。
ここで最近書いた私の所感メモから以下を記しておきたい。
「土を耕して野菜を採ったり、会社で働いたり、こどもを育てたり、…日々の営みのなかで、生の充実を得るのは「今、私がここにいる意義」に触れた瞬間である。言い換えればそれは他者との関係、社会との関係、世界とのつながりにおいて、かけがえのない自分を発見することである。ここでは敢えて「発見する」と言わねばならない。なぜなら、私たちが住まう文明が築いてきた物事の枠組や物差しが「つながり」のネットワークを分断していることが多々あるからだ。今、アーティストに求められる創造とは、この分断された境界を貫き、狭間にある言い知れない感覚を掴みとってくる事だと私は考える。」
私はまた、大島に行く。