Nobuyuki Takahashi’s blog

2008年 8月のアーカイブ

恐怖の擬音男

2008年 8月 16日

私は会話の中でよく擬音を使う。というか、つい使ってしまう。そういえばこのブログではまだ遠慮してか、あまり使っていないが。
言葉はひとつひとつ辞書でその役割と意味が規定されていて、その組み合わせで精度の高い表現になる。それはそうなのだが、言葉を使う時、「ニュアンス」というものがついてまわる。各々の言葉 対 意味にぴったりと納まればいいのだが、それだけでは充分でない。単語にとどまらずいくつかの言葉の組み合わせにより伝わり方は変わるし、話す言葉、書き表す言葉、電話、メールなどの使うメディアによっても「ニュアンス」の伝わり方は違ってくる。それでも言葉を使うときはできる限り伝わるように自分なりに工夫していくしかない。そうした誠実さだけはよく伝わるのだ。特に海外で言葉による意思疎通が難しい時においては。
私の場合は擬音語、擬態語を駆使する。だれも聞いたことの無いような擬音語をその場その時で言い放つので、聞いている人たちはぴんと来ていない場合も多々あるのだが、時々絶妙にヒットする時がある。あの、何とも言えない感じをつかみ取ってころんと擬音語にできたときの快感!!
そのような瞬間には言葉には意味や使っている人の意図以上に、肌触りや漂う香りのようなものがあるのではないかと感じてしまう。マンガの効果音がしばしば量感と質感を伴って表現されるように。
機会があれば「擬音語、擬態語」ワークショップを開こうと密かに企てている。
ちなみに聞いた話であるが、擬音語、擬態語が最も多い言語は日本語とハングル(韓国語)とのこと。

耐久戦

2008年 8月 15日

今日は運転免許の更新手続きをし、その後はこどもたちと遊ぶ。
息子は今、恐竜にぞっこんで、ありとあらゆる恐竜に扮して私に戦いを挑んで来る。息子は攻撃を受けた時にその反動で体が反り返るところまで忠実に再現する。毎日毎日、恐竜の図鑑とにらめっこしているので、体の特徴や姿勢は完璧に頭に入っているようだ。我ながら息子の形態模写は、うまい。私も負けじと恐竜になりきって応戦する。想定している恐竜のふるまいとしてリアルかどうか常に息子にジャッジされるので、こちらも真剣である。
一日中蹴飛ばしたり、突き飛ばしたり、投げ飛ばしたり、踏みつけたり、泣いたり、わめいたり…。我が家ではスペクタクル映画何本分にも相当するバトルが繰り広げられた!こどもはこうやって肉と肉のぶつかり合いを覚えていくのだろう。
今日、何回死んだだろうか。何回生き返っただろう。今日一日ビデオカメラを回して編集したら、新しい作品ができたかもしれないー。

時間を考えてみる

2008年 8月 14日

私が愛知県北東部の小原村(現豊田市)の鶏舎小屋に住んでいたことは前に述べた。(8月5日参照)私が当時住みたかった家は鶏舎小屋ではなく、草屋根の農家だった。大家さんが住むお宅は草屋根の上にトタンが貼ってあるものの、築150年ぐらいは経っていると言う。現存している小原村のお宅には築230年というものもあるらしい。よく見れば大きな梁や桁、まだまだ現役の建具など、見ごたえたっぷりである。
昨日、お盆のお勤めがあるとのことで私の親、私の家族全員で碩善寺に行く。昨年は娘が産まれたばかりで失礼をしたので久しぶりのお寺参りだ。碩善寺との縁は兄が11年前に亡くなった時以来である。その時は境内はこれから整備されていくだろう、まだまだ新しい小さなお寺だった。当時本堂はすでにあったが、柱はすべて欅(けやき)。壁は昔ながらの漆喰によるぬり壁で、新しくても、重厚な趣を呈していた。久しぶりに訪れると、新たに山門が完成していた。これもまた手抜かり無くふんだんに欅が使われている。今の時代に、これだけの腕がある大工さんがいることがすばらしい。その大工さんに腕をふるわせる住職の人徳と檀家さんの層のあつみに敬服。人によってはコストのことを話題にする人もいただろう。これだけの手間と時間に疑問を持った人が居たかもしれない。でも碩善寺のこれらの建物は百年、二百年経ってもその時々の趣をたたえながら、凛とありつづけるに違いない。そもそも、前者と後者は「時間」の考え方、捉え方の根拠が大きく違う。
お世話になった彫刻家が空家を借りて小原村に移り住むと聞き、また、そのお宅は土台から傾いてしまっている草屋根の家とのこと。当時学生だった私は友人と二人でそのお宅を直すお手伝いに行った。作戦を練った末、まず、この家が傾いた原因を取り除くのが最初だということになった。何代も続いた住人の都合で本来在ったはずのところに柱が無いのが、どうも原因のようだ。車のジャッキを幾つも用意して桁を押し上げ、準備した柱を据える。家の傾きが取れたと同時に、それまでびくともしなかった建具がすっと動いた。これには感動した。それらの作業を通して、臍や仕口に触れ、当時の大工の心意気が伝わってきた。彼らは彼らが実際に生きている間の時間を生きるのではなく、仕事を通して何世代にもわたる時間を生きていた。自分亡きあとの時間の流れをイメージできたのではないか。
私は新しい碩善寺にもこの時と同じ清々しさを感じていた。
「お盆は私たちのいのちが先祖代々の積み重なりの中にあり、その連綿たるいのちのつながりに感謝するもの。亡くなった人々を忘れず、今のいのちを生きることだ。」と住職はおっしゃられた。その根幹の精神が境内全体にみなぎっているのを感じた。

映し出すもの

2008年 8月 13日

あるビルのエレベーターに乗ったときのことだ。私はいつものようにエレベーターの扉が開くのを待ち、エレベーターに乗り込む。乗り込むと一瞬ぎょっとする。真正面に大きな鏡がはめ込まれている。それもエレベーターの扉が開くと乗る人の全身がそのまま映し出される大きさ。あまりにも鮮明に映っているので鏡に面している私から見て、開いている扉の向こう側はまるで鏡を境に自分を含めた光景が広がっているかような錯覚をおぼえる。扉が閉まると私はしばらくこの鏡を眺めていた。
その鏡は研磨された金属板(たぶんステンレス)でガラスの鏡とは明らかに違う。鏡面に手を触れると、鏡像と実像の接点には何も隔てるものは無く、ぴっちりと接する。ガラスの鏡ではこうはいかない。鏡像と実像の間にわずかなガラスの厚みが現れるのだ。
再度鏡に映る自分を見つめる。反射している物理的な現象だとは理解しているけれど、映し出されている世界には何かそれ以上のものを感じた。鏡は物質を越えて限りなくゼロに近い皮膜に空間を創り出している。
私は時折金属や石、革製品、木材など、手元にあるものを手当たりしだい研く。研くことを通して雑多な気持ちが1つになり不思議と安らぐのだ。丹念に研いていくと鏡のように映り込むものがあり、また限りなく透明に近づいていく素材もある。いずれにしても研磨していくと霧が晴れて行くようで心地よい。
限りなく透明ですべてを透かしてみることができるもの、ことごとく反射し、すべてを映し出すものを創造できないだろうか。いつか、そのようなものと向き合ってみたい。
エレベーターに話を戻そう。思い起こしてみると、鏡はただそこに在り、いろいろな環境の要素が絡み合っていた。鏡のサイズ、鏡の素材、エレーベーターの箱の高さや奥行き、壁の色、外と内の明るさ、乗り込む前の喧噪と乗り込んだ後の静寂…。向き合うものと向き合う状況は分けることができないようだ。

旅が好きなのは

2008年 8月 12日

その後ヒッチハイクでチベットへ/ラサにて

その後ヒッチハイクでチベットへ/ラサにて

私は旅が好きだ。普段の日常では気がつかない些細なことがふと浮き彫りになって感じられ、自分の感覚の触手がわっと広がるような気がするからだ。
たとえば、私がインドに行ったときのこと。カルカッタの安宿で同じドミトリーの部屋に泊まった日本人旅行者。この時はほとんど話もせず、旅を続けた約一ヶ月後、ばったりデリーの雑踏の中で再会。いっしょに食事をする。お互い旅の行き先も何も語らず別れ、その後ネパールのカトマンズのとある通りでまた再会。さすがにここまで会うと、偶然ではない気がしてくる。そこからは約一週間カトマンズからヒマラヤがのぞめるポカラまで一緒に旅をする。ゆったりとした時間の中でとりとめのない話をしながら過ごした旅の日々は忘れられないものとなった。この広い地球の表面に這いつくばる塵のような私たちが、しかも自国を離れた土地で3回も出会う。こんなこと確率にしてみたらどれぐらいのものだろう!
旅はだからやめられない。またこの種のエピソードを思い出したらここに書こうと思う。いっぱいあるからね。
さて、ここからが大事だ。私たちの日常は何気ない出会いの繰り返しが編み込まれている。友達になる。仲間になり仕事する。恋人になり、夫婦になり、こどもが生まれる。すべてはびっくりするような確率の偶然の重なり合いだと思ったら、どうでもいい些細なことがとてもすてきなことのように感じられる。どれ一つ無駄なんかないんだ。
旅はできるだけ予定をたてないで出かけることをお勧めする。宿も予約しない。行き先もその時々できまぐれに変更すればいい。その先々で小さな奇跡は起こる。

大島

2008年 8月 11日

瀬戸内にある小さな島。香川県にある「大島」という島をご存知だろうか。
90年もの長い間ハンセン病の患者さんは国の政策により人里離れた場所に隔離されていた。古来からの差別を含めればその90年もほんの一部。ハンセン病は差別的に「癩(らい)病」と呼ばれていた。人目にふれる顔や手足に病変が現れ、その後遺症で身体的変形がのこる。そのため「業病」「天刑病」と恐れられ、病気にかかった人々は何の根拠もなく偏見と差別にさらされ続けた。もちろん現在は感染のメカニズムは明らかになり、科学治療法による通院で「可治」する感染症の病気である。1996年らい予防法が廃止されるまで、国家制度として強制隔離されてきた人々がいる。おどろくことに12年前までだ。
大島は高松港から約8キロ。四国本土からは最短1キロのところに浮かぶ面積わずか61haの小さな小さな島である。大島はハンセン病を発症した人々が強制隔離された歴史を背負っている。今も元患者である入所者の方々が大島青松園にひっそりと暮らしている。
私は縁があってこの大島に出かけた。高松港から20〜30分船にゆられ大島に着く。船着場以外はほとんど護岸工事がされていないので、島はありのままのかたちをとどめていてとても美しい。
かつて島は社会から完全に隔絶されていた。制度的に解放されたとしても島に行ってみると今もそれは強く感じられる。そして島の中でも「有毒線」という当時の患者と治療者居住区を隔てる壁が存在していたと聞く。私は歩き回りその痕跡を探したが、全く見つけることはできなかった。入所者の方々は平均年齢78歳を越え、高齢化している。なぜなら、入所者はこどもを持つことを許されなかったから。また入所者の方々は家族と断絶されている場合がほとんどである。だから血族的なつながりを示す本名を名乗ることもしないし、できない。
私たちは意識するしないに関わらず、他者や世界と関わり生きている。それは、はっきりと目に見えるものではないので、その「つながり」の感覚が感じられると深いよろこびとなって心にのこるものだ。もしそうした「つながり」が断絶されたとしたら…。私にはどんなに想像しても想像できない、どんなことばもきっとあてはまらないー。
ここで最近書いた私の所感メモから以下を記しておきたい。
「土を耕して野菜を採ったり、会社で働いたり、こどもを育てたり、…日々の営みのなかで、生の充実を得るのは「今、私がここにいる意義」に触れた瞬間である。言い換えればそれは他者との関係、社会との関係、世界とのつながりにおいて、かけがえのない自分を発見することである。ここでは敢えて「発見する」と言わねばならない。なぜなら、私たちが住まう文明が築いてきた物事の枠組や物差しが「つながり」のネットワークを分断していることが多々あるからだ。今、アーティストに求められる創造とは、この分断された境界を貫き、狭間にある言い知れない感覚を掴みとってくる事だと私は考える。」
私はまた、大島に行く。

妻有研修 空家視察

2008年 8月 10日

lotus light/浅井香名子

lotus light/浅井香名子

8月9日
朝8:00にホテルにて食事。米どころの妻有である。とにかくお米がおいしい。リーダー川島いわく、「ごはんをおかずにごはんが食べられる。」同感!
9:00に宿を出発し、二千年蓮がある弁天池を観に行く。蓮の花は大方散った後ではあったが、日に向かって手のひらをかざすように伸びている葉が美しい。心が透き通っていくような光景がひろがる。私は逆光で見た葉うらが気に入っている。バックライトのグリーンは説明がつかない美しさだ。愛機ハッセルブラッドのシャッターをきりまくる。
やさしい美術プロジェクトが制作する作品には現地の取材をヒントにしたものがある。前回のトリエンナーレで作品「lotus light」を制作した浅井を思い出す。浅井はこの弁天池の伝説的な蓮の花をテーマに蓮の花心から光る照明作品を院内のいたるところに展示した。
11:00見学を予定している空家に着く。まもなくしてアートフロントギャラリーの柳本さん、トリエンナーレ総合ディレクターの北川フラムさんが現地に到着。空家の鍵を開けてもらい、スタッフとリーダーたちは早速家の中を見て廻る。私と柳本さん、北川フラムさんは場所を移して今後の打ち合わせ。提案書を見せながらてきぱきと話し合う。要点が見えているのでものすごく早く打ち合わせが進む。北川フラムさんとの相談はいつも数分で終わる。私はこのさくさくした感じが好きだ。アートディレクターのアーティストへの強い信頼があってこそのスピード感。
空家に戻ってみると、スタッフとリーダーたちはすっかりくつろいでいる。この空家が気に入ったようだ。彼らの感じたことはやさしい美術プロジェクトwebサイトのフォーラム「ミーティングルーム」で公開するのでご一読を。
空家活用は現段階では計画中ということにとどめておきたい。詳細が決まって来た時にこのブログでも紹介するつもりだ。
その後、松代農舞台にて開催されている企画展を観に行く。私とリーダー補佐の竹中は春の田植えで自分たちが植えた稲の様子を観に行く。すっかり伸びた稲。葉の色調がグリーンからわずかにイエローオーカーに移行し始めている。私たちが田植えをお手伝いしたのは農舞台の正面にあるカバコフの作品がある棚田だ。カバコフの作品は棚田に立って体感するのではなく、農舞台側から眺めて鑑賞する作品だと感じた。
16:00松代を出発、名古屋へ。メンバーのミドルネームを命名するゲーム(これがかなりえぐい)やマニアックしりとり(本人の説明がない限りさっぱりわからない)で盛り上がりながら道中を楽しむ。
21:00春日井駅に到着。私としては皆笑顔で解散し、無事帰ってこられたことを感謝するのが理想だ。そのために私たちは日々健康管理と体力づくりに気を配らねばならない。自戒。

妻有研修 十日町病院へ

2008年 8月 10日

8月8日
前日のプレゼン大会のあと、十日町病院での活動形態やスケジュールを提案するための提案書、空家活用プログラムのコンテンツ案を作成する。どちらも気が抜けない。十日町病院の皆さんは私たちからの提案をとても楽しみにしている。翌日9日の空家の視察にはアートフロントギャラリーの柳本さんとトリエンナーレ総合ディレクターの北川フラムさんが同行することになっている。できる限り丁寧な提案書を作り、前にすすめておきたい。明け方まで準備に追われ、6:00就寝。7:00に起床し、集合場所の春日井駅へ。
今回の妻有研修旅行は私とスタッフ4名、リーダー3名の総勢8名でレンタカーに乗り込む。スタッフたちが交代で運転してくれる。ほんとに助かる。新潟県十日町までの道のりでできるだけ体を休める。
15:00に新潟県立十日町病院に到着。妻有も名古屋と同様晴れでとても暑い一日になりそうだ。まず、事務の井沢さんの案内で外来病棟、検査室、病棟などのすべての施設を視察する。2006年の前回トリエンナーレの後にこの病院では「ミナーレ」という病院職員によるアートボランティアが立ち上がり、独自の方法で病院内の環境に配慮している。私たちやさしい美術プロジェクトとのコラボレーションがきっかけになっているとのこと、私たちの活動が波紋のように広がっていくのを感じる。うれしい。院内すべてのカーテンがピンクに統一されていて、院内の光が暖色系に染まりあたたかい印象を受けた。
16:00十日町病院塚田院長、事務部長、看護師長らとプロジェクトとで研究会を開催する。院長からはトリエンナーレもさることながら、数年後予定されている新設の十日町病院の設計段階から関わってほしい、とお話がある。そう、この活動は5年10年という時間の流れの中で動き始めているのだ。私の方からこれからトリエンナーレにむけて進めていく協働プロジェクトの概要、空家活用を含めた活動形態、スケジュールを説明する。さらに病院内に病院職員による検討委員会を設置してもらうようお願いする予定だったが、配布された資料に目を移すと名簿らしきものが…なんと、すでに「やさしい美術プロジェクトチーム」が発足されている!これにはびっくり。今回の研究会ではお互いが受け身でなく、前向きな空気が充満していた。
18:00から十日町駅近くの「寿美恵」にて宴会。ここには前回のトリエンナーレでお世話になり、現在は松代病院の事務部長をつとめる早川さんも合流(当時早川さんは十日町病院の事務長補佐だった)。忙しい中駆け付けてくれて妻有の人々の情のあつさに心打たれる。学生もスタッフも心開き、病院の皆さんと打ち解けている。このひとときがこの上なく楽しい。「寿美恵」の料理は家庭料理が基本。煮物も揚げ物もすべておいしい。ひときわ目を引いたのは真っ赤なトマト。井沢さんの奥さんの実家で採れる無農薬の野菜だそうだ。「野菜はかたちがいびつな二級品の方が味がいい。」という話が印象に残る。私は歪んだ野菜のポートレートを写真に記録して病院に展示しようと思っている。ホテルしみず屋にて宿泊。

プレゼン大会

2008年 8月 10日

8月7日
毎年恒例 学内で「プレゼン大会」を開催する。やさしい美術プロジェクトのメンバーが集い、新たに考案した作品プランを披露する。メンバー同士のプランの確認が主な目的だが、今年度新しく入ってきたメンバーにとっては病院での本番のプレゼンテーションを前にしたリハーサルも兼ねている。また、専門が異なり、学年も異なる学生が参加し、お互いの視点で確認し、批評し合うので緊張感はかなりある。病院に提案する前に「他者」の視点にさらされるので、プランもさることながらプレゼンテーションのスキルもぐっとあがる。それぞれのプレゼンテーションは架空のものであってはならない。医療の現場ではまず実施可能であるかが問われるし、病院の人々のこころにきちんと届くものでなければならない。よって教員である私のコメントも自ずと厳しいものになる。
このプレゼン大会では卒業生であるスタッフも作品プランを提案したり、アドバイスをする。このことにより、実感のこもった体験談がところどころで話され、いまだ病院での経験値の少ない学生には貴重な手がかりとなる。スタッフは学生からみて年齢も近く、ライバルであり、もっとも手厳しい先輩となる。
作品プランにはいくつか新しい提案があった。実現までに越えなければならないハードルはたくさんあるが、今まで取組まれることのなかった場所や作品の展開に可能性を強く感じた。

奥行きのある表面

2008年 8月 5日

小原のチキンハウス

小原のチキンハウス

日曜日にひさしぶりに小原村に行く。私がかつて住んでいた小屋周辺の草刈りをするためだ。私は大学を卒業後、約8年間をここで過ごした。現在は住まいを名古屋市内に移したが、大家さんのご好意にあまえて、いまだこの場所をお借りしている。
写真を見ての通り、鶏舎小屋である。周囲100mに家屋はない。ここに来た理由ははっきりおぼえていないが、何を思ったのか、「自分で自分の生活を作ってみたい」というぼんやりとした決意があったのをおぼえている。最初は電気、水道などのいわゆるライフラインは皆無だった。
村に入り、「寄り合い」に出席する。「お役」という村総手で草刈りをする。お葬式があれば、一緒に準備をする。気がついたら私は村の「家族」になっていた。
山の中とは言え今日は暑い。エンジン草払い機を置き、一休みする。山の中の日は早く沈む。山向こうにある日が雲に反射し、金色の光が私の周りを照らす。この一瞬に出会えることがとても愛おしく感じる。「自分」という表面をもった殻はゆっくりととけ、放たれていく。

鶏舎小屋を改造しているところ

鶏舎小屋を改造しているところ