Nobuyuki Takahashi’s blog

2008年 8月 14日のアーカイブ

時間を考えてみる

2008年 8月 14日

私が愛知県北東部の小原村(現豊田市)の鶏舎小屋に住んでいたことは前に述べた。(8月5日参照)私が当時住みたかった家は鶏舎小屋ではなく、草屋根の農家だった。大家さんが住むお宅は草屋根の上にトタンが貼ってあるものの、築150年ぐらいは経っていると言う。現存している小原村のお宅には築230年というものもあるらしい。よく見れば大きな梁や桁、まだまだ現役の建具など、見ごたえたっぷりである。
昨日、お盆のお勤めがあるとのことで私の親、私の家族全員で碩善寺に行く。昨年は娘が産まれたばかりで失礼をしたので久しぶりのお寺参りだ。碩善寺との縁は兄が11年前に亡くなった時以来である。その時は境内はこれから整備されていくだろう、まだまだ新しい小さなお寺だった。当時本堂はすでにあったが、柱はすべて欅(けやき)。壁は昔ながらの漆喰によるぬり壁で、新しくても、重厚な趣を呈していた。久しぶりに訪れると、新たに山門が完成していた。これもまた手抜かり無くふんだんに欅が使われている。今の時代に、これだけの腕がある大工さんがいることがすばらしい。その大工さんに腕をふるわせる住職の人徳と檀家さんの層のあつみに敬服。人によってはコストのことを話題にする人もいただろう。これだけの手間と時間に疑問を持った人が居たかもしれない。でも碩善寺のこれらの建物は百年、二百年経ってもその時々の趣をたたえながら、凛とありつづけるに違いない。そもそも、前者と後者は「時間」の考え方、捉え方の根拠が大きく違う。
お世話になった彫刻家が空家を借りて小原村に移り住むと聞き、また、そのお宅は土台から傾いてしまっている草屋根の家とのこと。当時学生だった私は友人と二人でそのお宅を直すお手伝いに行った。作戦を練った末、まず、この家が傾いた原因を取り除くのが最初だということになった。何代も続いた住人の都合で本来在ったはずのところに柱が無いのが、どうも原因のようだ。車のジャッキを幾つも用意して桁を押し上げ、準備した柱を据える。家の傾きが取れたと同時に、それまでびくともしなかった建具がすっと動いた。これには感動した。それらの作業を通して、臍や仕口に触れ、当時の大工の心意気が伝わってきた。彼らは彼らが実際に生きている間の時間を生きるのではなく、仕事を通して何世代にもわたる時間を生きていた。自分亡きあとの時間の流れをイメージできたのではないか。
私は新しい碩善寺にもこの時と同じ清々しさを感じていた。
「お盆は私たちのいのちが先祖代々の積み重なりの中にあり、その連綿たるいのちのつながりに感謝するもの。亡くなった人々を忘れず、今のいのちを生きることだ。」と住職はおっしゃられた。その根幹の精神が境内全体にみなぎっているのを感じた。