Nobuyuki Takahashi’s blog

2008年 9月 14日のアーカイブ

胎盤を食す

2008年 9月 14日

美朝(長女)誕生/慧地も出産に立ち会う

2006年11月 美朝(長女)誕生/慧地も出産に立ち会う

ちょうど、足助病院に企画書を提出し、やさしい美術を立ち上げた2002年の5月。長男慧地が生まれた。私たち夫婦のかってからの希望で、出産は知多にある助産院にお願いした。私が小原村に住んでいた頃の友人たちが皆そこでお世話になっていたのだ。
ほとんどの場合、特に初産は病院での出産が普通の時代だ。妊娠がわかり、出産予定日が決定すると、出産日が遅れることはめったにない。つまり、その予定日までに陣痛が来なければ、医療的な方法で出産が促される。
私たちの場合は予定日から一週間遅れた段階で助産婦さんに「うちでは無理だから病院で産んできなさい」とさじを投げられ、病院にかけこんだ。出産が遅れると、羊水が少なくなってきて、胎児への影響も心配される。検査をしてもらったところ、羊水は心配されるほどではないということがわかった。病院の医師からは「ここで産むならば、陣痛促進剤で、すぐにでも産んでもらいます。」といわれ、ふたりで顔を見合わせた。私たちの決心はかたかった。私たちは病院を出たその足でお世話になっていた助産婦さんにもう一度会いに行き、「お願いだからここで産ませて欲しい。」と懇願した。もう土下座する勢いである。根負けした助産婦さんの示したリミットは2週間まで。それ以降まで遅れるならばしかるべき方法で病院で産むことを条件に私たちは陣痛が来るのを待ち続けた。待つだけではない。毎日とにかく歩きに歩いた。朝出勤前に二人で1時間ほど歩き、妻は私が仕事に出ている間にお昼に歩き、夕方に歩き、夜に二人で歩く。あれだけ大きなおなかで彼女は行者のようにひたすら歩いた。自然な分娩に不可欠な体力をつけ、産道を整え、陣痛を促す手段は他に選択肢はない。そして2週間目のその日。
夜に仕事から帰ると、妻は痛みで歪む表情でおなかの張りが、30分毎、20分毎と規則的になってきたという。「陣痛だ!」助産婦さんに連絡をして、助産院のある知多へ車を走らせる。彼女は押し寄せては返す陣痛に耐えている。でも、道中は何とも言えない高揚感に包まれていた。普段はロックを聞くふたり。でもその時は忘れもしない、カーステレオでかかっていたのはスティービーワンダーのCD。
その日は夜中で陣痛がおさまってしまう。朝になり、呆然としていると助産婦さんが来て「今日は大潮だからね、夕方には産まれるよ。」と言われた。その言葉を信じて今度は助産院の階段をひたすら上り下りする。正直私は途中でリタイヤしてしまった。そのあともびっくりするほど前に突き出たおなかで彼女は歩き続けた。夕方、再び陣痛が始まる。私には何もできない…。ただそばにいて体をさすったり、支えてあげることぐらいしかできない。
いつまで続くか判らない痛みに耐え、彼女はいきむ。
頭が出てきて、助産婦さんが赤ちゃんの肩をすっと抜き出すとあとは一気に「彼」はこの世に現れた。へその緒がつながったまま彼はたった今出会った母に抱かれる。

出産の様子はもう一人の助産婦さんが私が持参したビデオカメラで撮ってくれた。カメラを持ってきたとはいえ、産む当人でない私でさえ、撮影する余裕は全くなかった。その後、私はへその緒をはさみで切った。その間ビデオカメラの音声は私の嗚咽をみごとに記録している。
あの時、確かに世界は裏返った。次元のある一点からぐりんとめくれ上がり再び閉じたような感覚。うまく表現できないけれど、このような体験は一生のうちで一度あるかないかのものに違いない。
我妻、我が子を抱きかかえ分娩室から和室に移ると、助産婦さんが私を呼ぶ。ボウルには半透明の”広がり”が浮かんでいる、胎盤だ。助産婦さんは無造作にそれをちぎり、私の口に運んだ。
理解するとか、わかるということではない、全身の細胞が感動でうちふるえる感じだ。
慧地君、僕たちのところに産まれてきてくれてありがとう。
まなちゃん、命がけで産んでくれてありがとう。
かあさん、僕を産んでくれてありがとう。