Nobuyuki Takahashi’s blog

2008年 12月のアーカイブ

大島 山頂にはしご

2008年 12月 12日

官用船せいしょうから瀬戸内海をのぞむ

官用船せいしょうから瀬戸内海をのぞむ

瀬戸内大島に行く。私とスタッフの赤塚、井木、泉、伊東の総勢5名。
7:15に名古屋駅に集合、7:30ののぞみに乗り、岡山まで。神戸から急に霧が深くなる。岡山からマリンライナーに乗り換えるが、岡山でも霧が立ちこめていてダイヤが5分ほど遅れていた。
予定通り高松から11:10発せいしょう丸に乗り込む。前回の訪問と打って変わって海はべた凪だ。
11:30大島着。さっそく青松園事務所に寄り、事務長森さんに挨拶する。挨拶のあと、いつものように職員食堂に行き、ハンバーグ定食を食する。
食後は海岸に行き、漂着物を拾う。私は息子と娘、奥さんに砂の侵蝕でまるくなったガラスの破片をお土産にする。
午後からはお忙しい中事務長森さんの案内で、島内を散策する。先週訪れた新潟妻有は葉が落ちた樹木に冬を強く感じたが、瀬戸内大島は紅葉が枝にとどまっていて、秋の色彩を見せていた。山を見ていたら、山頂の一本の木にはしごがかかっている。きっと入所者のBさんがついさっきまで写真撮影していたに違いない。Bさんにまた会いたい、と思いながら、島をめぐる。
島のコミュニティースペース、大島会館に行く。毎週金曜日限定で大島会館会議室に顕われる喫茶室。私は前回の訪問でデビューし、今回はスタッフの皆と一緒にここでコーヒーが飲める。そう、コーヒーとビールが同時に出てくる、大島ならではの喫茶室。初めてお会いする入所者の方たちもいて、ご挨拶する。この喫茶室のように入所者の皆さんにとって大切な時間を過すところに作品を展示したら、と事務長森さんとお話しする。
その後病棟を見学させていただく。病棟の一室に陶芸室がある。ここでCさんが制作していた。不自由な手を使って、みごとに土を扱うCさん。かっこいい。ここでは新たな出会いもあった。一緒に陶器を制作していた女性、猪瀬さんは一昨年NHKで放映された「忘れないで」というドキュメンタリーを制作したディレクターだ。取材が終わった今でも島を訪れていて、たまたま今日ここで会えたわけだ。私たち全員がその番組を見ていて、何かふしぎな縁を感じる。
15:00事務長森さんは会議があり、ここでお別れして私たちは休校になった小学校と東側の海岸にある船小屋に行く。小学校の体育館が開いていたので、入ってみると美しい西日が差していて、体育館内をやわらかく照らしている。忘れ物のようにぽつんとピアノが置いてある。なんとも言えない情景に惹かれ夢中でカメラのシャッターを切る。
東側の海岸ではスタッフ井木と泉が漂着したガラスを拾う。ピンク、グリーン、ブルー…様々な色彩の断片。きれいなものを選んで私に渡してくれる。すべて息子と娘のお土産だ。
16:00高松に向かう船に乗り込もうと船着場に向かう。すると、Bさんが船着場に居る!私たちを見送るためにわざわざ来てくれたのだ。船の前にはCさんも来てくれている。NHKディレクターの猪瀬さんも。うれしかった。このうれしさはどこかで感じたような。そう、越後妻有アートトリエンナーレの展示会場で地域住民の皆さんが見送ってくれる時の、あの感じだ。
帰路の車中、スタッフ井木、泉と大島での活動展開について意見を出し合った。これまで活動してきた病院とは少し違った意識が大島で関わる際に必要ではないかと。時間や季節の移り変わりとともに姿を残さないこれまでの制作スタンスではなく、いかに「のこす」か、ということについて私たちは取組む事になるだろう。

編集長 最後のお仕事

2008年 12月 10日

これまで、「ヤサビのイト」は学生主導で編集発行を行なってきた。印刷業者とのやりとり、発送作業などはさすがに学生では荷が重く、スタッフ赤塚が編集長として役割を担ってきた。
「ヤサビのイト」発刊から1年以上が過ぎ、編集部も成熟してきたところで、私から編集部に通達「赤塚編集長に降りてもらいます。」
これまで、赤塚は編集長として、そしてムードメーカーとしてよく編集部をまとめ、ひっぱってきてくれた。学生だけの編集部はまだまだ未熟だけれど、可能性は未曾有だ。今日は編集部の皆と一緒に赤塚編集長最終版となる「ヤサビのイト1、2月号」の原稿をみっちりと検討した。完成度を高める事は情報誌の編集のみならずどんなことも、集中力と妥協の無いチェックの目が必要だ。
編集部、がんばれっ!

妻有 新しい展開へ

2008年 12月 7日

12月5日(金)8:30春日井駅集合。暗く重い雲が西からやってくる。天気は崩れそうだ。今回の妻有行きはスタッフ、学生の総勢6名、現地では新潟県で就職した卒業生が合流する予定だ。
レンタカーに乗り込むとすぐに冷たい雨が降り始める。一人も予想していなかったが、この雨は現地まで続く。
長野県までの道中は紅葉を楽しんだ。新潟県にはいると、風景は錆色に転じる。枯れた風景はもう冬の入り口。雪が降る前のつかの間の色彩だ。
16:00十日町病院にて研究会開催。十日町病院の医師、看護師、事務職員、15名ほどと、十日町市職員、アートフロントギャラリーからも参加。前回プレゼンテーションした作品のより詳細にわたる検討、試作検討に入る。お互いの信頼のもとに様々な角度から議論する。私からは映像が病院とやさしい家(空き家樋口家の活用プログラム)が往復するプランイメージをプレゼンテーションする。特に病院サイドから出た意見として重要だったのは病院から映像が発信された場合にそこに映る個人のプライバシー、肖像権についてだ。実際の装置付けに近い状況を作って検討する必要がある。映像に限らなくても良い、発信はむしろ病院側からよりやさしい家からではないか、と私の考えも前に進んでいく。
18:30〜恒例の懇親会。いつもおいしい料理においしいお酒を私たちのために用意していてくれるので、今回は私たちからお返し。奥三河の「蓬莱泉」吟(ぎん)を持参する。足助病院での研究会の帰り道で学生とスタッフで買ってきた「蓬莱泉」(しぼりたて)も合わせて贈る。
米どころ、酒どころの新潟人もうならせる、「蓬莱泉」。奥三河の棚田で育んだ芳醇な味と妻有の棚田から生まれたすっきりとしたのどごし味の響宴。
午前1:00ほろ酔い気分で女性陣はホテルへ。私とリーダー川島はプロジェクターとPCを持って空き家「やさしい家」へ。映像をやさしい家の南側の窓に投影するテストをするためだ。想像以上に効果的だと確認。この南向きの窓は十日町病院病棟からも観ることができる。やさしい家からの発信の1つとなる予定だ。
翌日6日(土)9:00空き家「やさしい家」に着く。家主さんの樋口さんも立ち寄っていただき、荷物整理についていくつか指示をいただく。午前中にほぼ荷物整理は完了する。部屋の写真を丁寧に撮影し、今後のプランにつなげる。次回妻有に訪れた際には具体的にやさしい家の整備、展示の計画などに向けて準備を進める段階にはいる。
寒い中皆よくがんばった。女性陣が多い今回の空き家整備。重い荷物が多かったので「おい、男たちはどうした??」とか頭中でつっこみを入れながらの作業だ。
14:00温泉千年の湯に行く。露天風呂に入っていると地元の方に話しかけられる。私はなぜかどこに行っても年配の方からよく声をかけられる。名古屋から来た、芸術祭関連で、と話すとうれしそうに世間話に花を咲かせる。こういう交流からこの地域の空気を濃密に感じ取ることができる。来てみて初めて実感できることだ。
次回妻有に行くときは、雪の妻有だ。雪掘り(雪かき)も待っている。もう少し体力つけなきゃね。

シンポジウム ひとり、考える

2008年 12月 3日

シンポジウムが終わり、一息つく間もなく今週は新潟妻有へ。来週は大島に行く。
シンポジウムはおかげさまで、好評を得た。パネラーや基調講演者、スタッフ、学生、職員に恵まれ、満を持してかっちりと開催できた。不満はない。それでもなお、考えさせられたこともあった。
あるきっかけで友人が私に強く抗議した。それは私にとって思いもよらない反応だったが、今は大変重要な指摘をしてくれたと感謝している。
シンポジウム、特にディスカッションが内も外もなく「開かれたものであったか」
私は社会的な場としてシンポジウムを実施した。それは自ずと「迎える側」と「迎えられる側」、「おもてなしする側」と「おもてなしされる側」、「開催者」と「観客」という関係になる。今回私は質疑応答をできる限り「外」の人が話せるよう、あるいは話せるような空気を演出するように試みた。それは成功していると思う。もちろん間違いでもない。
しかし、落とし穴もある。時間、空間、コストの制約の中で、予定調和的な内輪話のお披露目会に終始しまわないか。この方法で参加者全員が同じ土俵で議論し、内と外の関係を越えて新しい知己を得ることに結びつくだろうか。
最近、演出されていない、ある種無防備なシンポジウムを見かける。主催者は特におもてなしの姿勢は見せず、広報もろくにせず、客人を迎えるそぶりさえ見せない場だ。会場には椅子さえ用意されていない場合もある。このようなシンポジウムは時間の制限を設けず、ノンストップで議論を重ねる場合が多い。私たちが行なったシンポジウムとは真逆な姿勢。この姿勢のあり方も今はなるほど理解できる。(やる気がない、というだらしなさの場合は論外だが)「参加する人は参加すれば良いし、帰りたい人、気が乗らない人は議論に加わらなければ良い」ということだ。最初から内と外を設けないということである。これも落とし穴がある。来場者にそのあり様が了解されていない場合、失礼だと感じたり、だれに向けられた議論の場か判断がつかないケースもある。いつまでたっても当事者の発言に行き当たらないのだ。
話は変わる。村でのことだ。
私の住んでいた小原村の「寄り合い」に行くと、いろいろな話をお年寄りから聞いた。昔は多数決という習慣は無かったそうだ。何を決めるにも全員一致。そのための「ねまわし」「長老のお話」などを経て長引くときは一月もかけてずっと議論したそうだ。信じがたいが、全く途切れずにだ。途中に農作業のある人は家に帰る、残れる人で議論を続ける。いつ議論に戻ってきても良い。話はリレーされ、了解されていくー。すべてが「内」なわけだから、そもそも「外」「身内でない」ということは存在しない。
こんなことは現代では不可能だ。社会の構造とスピード感があまりにも違いすぎる。
極端な想像をしてみよう。
全世界の人々に「シンポジウム」の参加を周知する。一人残らずだ。そして、話し合うテーマと話し合う場が完全に開かれていて、誰もが参加できる。この際、個人的な用事、経済的問題等はすべて解決した上で、だ。
いよいよ「全世界シンポジウム」を開催する。偉いと言われている人も、国が違う人も、こどもも、おとなも、男性も女性も男性らしい女性も、女性らしい男性も、どんな人も発言し、それに反応し、共感し、反発し、果てしなく議論を繰り返す。
こんなめちゃくちゃなディスカッションはむろん存在しない。でも、開催できたら、きっと最も根源的で、普遍的な何かをぼんやりと全員が共有できるのではないか。そんな想像をしてみる。ほとんどの事は解決する知恵が編み出せるだろうし、すべての問題は解決するだろう。
現実はそれどころでない。問題は山積みだ。全世界の人々全員に声をかけること、たった1つさえ、私たちは全うできないのだ。
私たちの生きる社会は生き急ぎすぎているのかもしれない。まるで、バグだらけのコンピュータソフト。すべての問題が解決する前に新しいソフトが発売されるかのように。
そんなことを、ひとり、考える。

これには、かなわない

2008年 12月 2日

心を表すって、すごいことだね。
これには勝てないっす。

ちなみに
かっか=おかあさん
せいかつはっぴょうかい=今週開かれる学芸会
のこと。