Nobuyuki Takahashi’s blog

2009年 2月 19日のアーカイブ

切り刻まれた

2009年 2月 19日

江東区、女性殺人事件の星島被告の判決が下った。無期懲役。
この裁判の中でひっかかったことがある。それは無期懲役に処せられた理由でもあった。
遺体を切り刻みトイレに流すという、残虐きわまりない事件であるが故に「死刑」という世論の声も少なくなかった。死刑を免れたのは、求刑の対象は「殺人」の部分であって、その後の遺体の扱いではないということだそうだ。私がひっかかったのはまさにそこだ。殺される人と殺された人の違いである。
話は変わるが、肉親が病院で亡くなると(病気やけがなどその原因にも寄るが)亡くなった直後に「解剖をさせてほしい。今後の医学の発展のため研究に役立てたい。」と医師から話がある。私の場合、たった今亡くなった大事な人を切り刻まれるのはとても耐えられなかった。
丁重にお断りした。もちろん、後世のために役立ってほしい、死を無駄にしてほしくない、という気持ちもあった。本人の意志を生前に聞いていれば、その意志を尊重しただろう。
このような感覚は生きている身体と死んでいる身体の境目がない、ということからきている。日本人の多くはこのような感覚を持っていると思われる。死に至らしめられた女性に感ずる「痛み」の感覚は殺されることと遺体がゴミのように捨てられることで分けることは、できない。
やさしい美術プロジェクトを続けて来て、幾度か病院の職員さんから「霊安室の作品を考えてほしい」という要望があがった。誤解のないように言えば、それは生きているもののその先にある死したもののための表現である。けっしてアートのインパクトを世に打ち出すためではなく、軽はずみな挑戦でもない。霊安室も私たち生けるものの空間であると、ただ、受けとめるのである。
霊安室のアートに取組むのはまだ先になるかもしれない。いや、すぐにでもとりかからなければならないのかもしれない。日々やさしい美術を実践しているその傍らに、その場所はある。