Nobuyuki Takahashi’s blog

2009年 3月 2日のアーカイブ

ちょっと思った

2009年 3月 2日

先週たくさんの手を借りて完成したモビールフレームを小牧市民病院に搬入する。同時並行で昨年展示したもので破損した作品を修復して再展示。この忙しい時期に3本も4本も電話がかかってくる。どうにも首がまわらない。本当に首が痛くてまわらない…。
そんな中、車でラジオを聞いていると、スポーツ選手がインタビューを受けていた。その対話を聞きながらぼんやり考える。
スポーツ選手はその成果に対してたくさんの報酬を受ける。スポーツは何かの役に立つわけではない。その意味でアートと似ている。スポーツはわかりやすい。勝ち負け、強い弱い、白黒はっきりとしていて、所属も企業だったり、国だったりで、人々の関心を集めるばかりか、あっちを応援するだの、こっちのファンになるだので、人々の人生の希望が投影される存在となる。さて、アーティストの場合。国際的なアートシーンに君臨するアーティストはいつまでも斬新なコンセプトとだれも見たことのないものを創造し続けなければならない。スポーツと比べると、アートの世界は誰よりも早いとか、誰よりもたくさん得点するとか、そういったわかりやすさはない。しかしアートシーンでは常にマッチョで強く在り続けなければならない、というのはどこか似ている。
私は圧倒的少数の個人の叫びや声が美術作品となって顕われることはとても大切だと思っている。というか、守られるべき領域だと思う。いわば、それはどれだけ封印しようとしても払拭しようとしても消し去ることができない人間らしさの刻印であり、時代を表すカルテのようなものだろう。これらは毒とも薬ともなりうる。それでもなお、存在を認めなければ、私たちは前に進めない。それが、アートの存在感だと思う。
だからといって、すべてのアートはマッチョでなければならないのか。ここはもっと可能性を探る必要がある。
やさしいー美術とは、ミスマッチな取り合わせだ。強いに相対してのやさしい、ではあまりにも二極化した退屈な対比だ。私のイメージではお互いを映し合う鏡、どちらかが光を放つと逆照射されるような関係だ。