Nobuyuki Takahashi’s blog

2009年 3月 15日のアーカイブ

もりがみ

2009年 3月 15日

森をつくる折り紙「Morigami(もりがみ)」

森をつくる折り紙「Morigami(もりがみ)」

3月11日13:00 森をつくる折り紙「Morigami(もりがみ)」を企画・デザインしたゆきこさんが、プロジェクトルームを来訪。彼女は昨年、スタッフとして活動を支えて、就職後もシンポジウム記録誌のデザインを担当、いつの間にかどっぷりとやさしい美術の活動に漬かっている。
作品「Morigami(以下、もりがみ)」は折り紙で木を作りそれらを空間や環境に配置して森を育んで行く、参加型作品である。この作品の重要な点は、デザインされた作品であり、かつ作品を展開する土地柄や文化、空間、環境に合わせてある程度デザイナーの手を離れて一人歩きするところである。だからといって、「もりがみ」の基本的なコンセプトからはずれるような実施方法であってはならない。換言すれば、作品に触れて行くと無理なく作品に馴染んで行き、気がつけば作品のコンセプトに沿って体感できるような周到なデザインでなければならない。その点で「もりがみ」は成功している。
「もりがみ」説明会を開く。作品の実施を担うプロジェクトメンバー間で作品コンセプトをしっかりと受け継ぐためだ。商標登録も取得した「もりがみ」。
一通りの説明と質疑応答のあとの雑談で、日本人の自然観、世界観、「森」の思想についてディスカッションした。日本では手つかずの自然というものはまずもって存在しない。多くの森は人の手がはいっているし、里山は日本人の自然観を代表する原風景だが、その里山の森も人との共存が基本である。「自然」というと、自分自身とはどこかかけ離れた大いなる流れをイメージする。私たちは「私」にとっての「自然=森」と言い続けてきた。つまり森の外に人間存在を置いている。では、自然に内包された自己というものは存在するのだろうか。大いなる自然、その象徴たる森の一部、あるいは全体に内包された個というものがあるとしたら、すでにそこには自己を表す「私」は存在しないかもしれない。「私」が存在しないのならば、物事を思考することすら存在しない。思考しない世界である。
計り知れない何かがちっぽけな私という存在に影響している。ちっぽけな私が壮大な宇宙のダイナミズムに少なからず影響を及ぼしている。私たち人間という存在は、存在するかしないかのゆらぎのただ中にいる。
作品 森をつくる折り紙「Morigami(もりがみ)」には矛盾がたくさんある、と作者は言う。木を育てること、それを森に加えて行くことにより成長と循環を人々に想像させる。一方でその折り紙自体が大切な森林資源から作られた紙を素材としている。できあがった「もりがみ」たちはどこに向かって行くのだろう。本物の自然にある生命の循環に「もりがみ」は喩えることができるだろうか。
アーティフィシャル=人工が携える創造性と矛盾の間で、アーティストやデザイナーの意識は大きく揺らぐのである。