Nobuyuki Takahashi’s blog

2009年 5月 3日のアーカイブ

入院

2009年 5月 3日

私は腰の傷がひどかったため、うつ伏せの状態。入院して4日間ほど、腸の精密検査の結果が出るまでは食事はなし。看護師さんがやってきてふと目をやろうと思ったら気を失った。気がつくと看護師さんが私の手を握ってくれていた。その掌のあたたかかったこと。眼差しのやさしかったこと。この時から私にとって掌は特別の意味を持つようになった。
入院して5日目ぐらいだったろうか、付き添いのおばちゃんがつくことになった。その頃はまだ付添婦制度の廃止前で、私の場合、事故を起こした運送会社の計らいでついてもらうことになった。というのも、私はしばらくうつ伏せのまま動けないので下の世話は自分で済ますことが全くできなかった。私は赤子同然だった。
全身打撲で激痛が走る中、いきむ。おばちゃんはいつも「もうすこしだよ。」とやさしく声をかけてくれた。ドレーン(傷口が大きく深いため血腫がたまらないように外部までパイプを通すこと)が肛門近くなのでばい菌が入りやすい。少しでも汚れると私の替わりに看護師さんを呼んでくれた。一人にしてほしいときはそっと席をはずしてくれた。ストレスで当たり散らしたこともある。そんなときはやさしく嗜められ、落ち着いて話が聞けるようになると、びしっと叱られた。3週間ほど寝食を共にするのだ、打ち解けてきておばちゃんの身の上話を聞いた。
おばちゃんは10代で家出。クラブで働くようになり、いつしか高級クラブのママになった。やくざにビール瓶で殴られたこともあるそうだ。血だらけのまま一歩も引かず、店の外に出したのだそうだ。それ以来街では一目置かれるようになった。ママになった頃、家出した実家に帰り、お父さんと飲んだそうだ。お父さんは涙を流して喜んだという。それからほどなくしてお父さんは亡くなった。最後の親孝行だったのだろう。ある日のこと、おばちゃんは車を運転中にハンドルを誤って電信柱に激突してしまう。一週間意識不明の重体だったそうだが、なんとか命をとりとめた。入院中の生活がその後のおばちゃんの人生を大きく変えることになる。入院中に病院で付添婦が入院中の人々のお世話をしていることを初めて知った。退院してから付添婦になることを決心する。クラブのママからの転身である。
私の甘えた根性をおばちゃんにたたき直されたといっていい。私から出てきたうんこを受け取って「よかったね。」と言ってくれる人を私は忘れることができない。
それだけではない。私の並外れた回復力とおばちゃんの介護のおかげで、ドレーンが差しっぱなしになっている腰の部分は再度手術する予定だったが、その必要がなくなった。3ヶ月ほどの入院になる予定が、1〜2ヶ月に短縮された。
入院中にいろいろな人にあった。土建屋のお兄さんは現場で足を骨折。暇なのでよく私の病室に遊びにきた。交通事故でむち打ちのお兄さんは保険を解約したその日に事故。自分のついてなさを毎日愚痴って行く。マンガ「寄生獣」を貸してくれたおじさんなどなど…。そこにはやんわりとしたコミュニティーがあったように思う。
自分で這いずって病室トイレまで行き用が足せたときは本当にうれしかった。すべてに感謝だった。おばちゃんも自分のことのように喜んでくれた。がちがちに固まってしまった身体をほぐし、まずは歩行器を使って病院内廊下をゆっくりと歩く。生きてて良かったと思った。そして私よりももっと大変な状況におかれている人々がたくさんいることを知った。
看護師さんとも随分仲良くなった。打ち解けてから聞いた話だが、私はスキンヘッドで体格も良かったので、「怖い人」と思われ、ひそかにジャンケンをして私の病室に行く係を決めていたらしい…。「人の身体をなんだと思ってるんだ!」という扱いの看護師さんがいたことも事実だが、とってもやさしい笑顔の看護師さんに会えるのは、さりげなく私の支えになっていた。
事故のことは時折人に話すことがあったが、こうして文章に書きおこすことは初めてだ。起きたことは良くないことだが、今の私を構成する大切な体験の一つであることは間違いない。