Nobuyuki Takahashi’s blog

2009年 9月のアーカイブ

妻有 最後の夜

2009年 9月 10日

足助アサガオは隙間なく咲いている。

足助アサガオは隙間なく咲いている。

私は大学の学務のため、明日、11日(金)に名古屋に帰らなければならない。大地の芸術祭は13日(日)までだけれど。
終盤を迎え、やさしい家にはまだまだたくさんの人がやってくる。
ある精神科の病院で働く看護師さん二人が朝一番にやってくる。院内の展示の様子をお話ししていたら、「こういうものが病院内のいたるところに展示されていると良いですね。」とおっしゃる。玄関まで見送りに行き、ヤサビのイトとリーフレット、えんがわ画廊新聞を手渡し、「ホームページがあるので、見てください。」とお話ししたら「見てますよ。」とほっこりした笑顔が帰ってきた。私たちのうかがい知れぬところで少しずつ広がっているやさしい美術の輪を感じた。
FMとおかまちの佐藤さんが今日は仕事の休みということで、やさしい家に来てくれた。「次の大地の芸術祭でお会いできたら良いですね。」とおっしゃる。えんがわ画廊のアーティストがヒッチハイクしたのが、たまたま佐藤さんの車だった。そこから始まった出会い。偶然と言えば偶然。でも律儀にこうして時間をつくって私たちに会いにきてくれている。縁とはこういうものだろう。とってもうれしい。
居酒屋のマスターが娘さんを連れてやさしい家に来てくれる。今日は娘さんの誕生日。明日からおばあちゃんのところへ泊まりがけで遊びに行くとのこと、フィナーレを迎える前に私たちに会いにきてくれた。「瀬戸内国際芸術祭、行こうと思っています。」とおっしゃる。「その時は連絡下さいよ。島で会いましょう。」この妻有でのつながりはとどまるところを知らない。もちろん、私はこの十日町に来たら、行きたいお店は決まっている。マスターのお店。
近所の方々が観にきてくれる。ひとり一人にごあいさつ。やさしい家には一時期常連の子ども達がMorigamiを折りに毎日来た。私たちはMorigamiガールズと呼んでいた。「子どもたちにやさしく接していただいてありがとうございます。」とおっしゃる。いやいや、とんでもない。子どもたちが来て、このやさしい家は「家」になっていったのです。感謝です。

ジャガイモとささみ肉の炒め物

ジャガイモとささみ肉の炒め物

やさしい家をクローズして間もなく、私は台所で夕食を作っていたが、玄関から声がする。病院の職員さんが3人が顔を出してくれた。病院の作品に接し、ここやさしい家で観る作品はとても新鮮に目に映ったようだ。若手の職員さんがこうして興味を持って観にきてくれることがとてもうれしい。それに、でんでんがヤギの被り物をして一生懸命配った「招待状」の効果なのだ。二倍うれしい。
夕食はジャガイモと鶏肉の炒め物。ジャガイモは短冊状に切って、しゃきしゃき感を残して炒める。鶏のささみは醤油とお酒につけて下味をつけておいて、カリッと炒めておく。最後にお酢と醤油で味を整えてできあがり。
浅野がいただいたゴウヤをスライスしてサラダを作ってくれる。私がカレーパーティーの時に作ったピーナッツのたれをかけてみたら、これがビンゴ!とってもおいしかった。
汁ものは私が大好きなエノキとタマネギのみそ汁。作った自分が言うのもなんだけど鍋から直接飲み干してしまいそうなほどおいしい。ほとんど病気だ。
23:00 卒業生浅井がやってくる。豆をミルにかけてコーヒーを入れてくれる。香りがたってとってもおいしい。
最後の夜はこうして更けて行く。さびしさとほどよい疲労感がおそってくる。
2:30 就寝

50日経ったのれんは全く色あせていない。

50日経ったのれんは全く色あせていない。

妻有 寒さの到来

2009年 9月 9日

草むしりの後、すっきりしたやさしい家南側

草むしりの後、すっきりしたやさしい家南側

7:00 起床。涼しいを通り越して寒い。妻有の季節の変わり目はなだらかではない。
朝食前にやさしい家の周辺の草むしりをする。昨日はアサガオの周りと庭を丁寧に草むしりした。杉菜の成長が驚くほど早い。
昨日居酒屋のマスターがごちそうしてくれた蟹をつかって浅野のお母様が雑炊を作ってくれる。ベーグルにプロセスチーズとベリーのジャムをつけて食べる。とっても美味。
いつものように、やさしい家オープン。
11:00 十日町病院事務長補佐の泉澤さんがやさしい家に来訪。12日の「健康講座とやさしい美術活動報告会」の会場設営について打ち合わせる。風がやさしい家を吹き抜ける。その風は夏のものではない。秋を通り越して冬を感じる。
15:30 泉がやさしい家を出発。この時間帯でも日は陰っている。日が短くなったのだ。
夕食後、私と浅野、川島でミーティング。泣いても笑ってもあと4日。毎日新しい出会いがある。一度来てくれた方が、再度観にきてくれる。そして、皆さんは口々に「居心地が良いなぁ。」とおっしゃる。
一日一日を大事にして行こうと思う。

妻有 まぼろしのカレー

2009年 9月 8日

絵はがきワークショップに参加いただいた皆さん

絵はがきワークショップに参加いただいた皆さん

6:00 起床。霧雨が時折降る。朝食後は皆でオープンに向けて準備を進める。私はトイレ掃除と板間の雑巾がけ、庭の草むしりをする。2000人を越える人たちがこのやさしい家を通り過ぎたのだ、汚れないはずはない。しっかり清掃。
私たちは、来場者があると、まず、プロジェクトの主旨とやさしい家の位置付けを説明する。窓から見える十日町病院を指差して説明すると、このやさしい家が単なる作品展示でないことが判っていただける。やさしい家は病院と地域の間を取り結ぶ中継地点。来場者はワークショップや参加型作品に参加することで、間接的に病院と関わることになる。
ヒンメリの製作用に藁を提供していただいたAさんが奥さんを連れてやさしい家にいらっしゃった。私はAさんのお宅でいただいた曲がったアスパラガスの味が忘れられない。お住まいのある津南町は新鮮な野菜で有名だ。Aさんは藁細工の研究者にして職人、そして農をこよなく愛する農業者である。Aさんからいただいた藁は金色に輝いている。凛としていて、芯が強い。ヒンメリワークショップはAさんからいただいた藁と十日町病院高橋事務長のお知り合いからいただいた藁があったから実現した。完成したヒンメリをご覧になって、うれしそうなAさんご夫妻。こちらも自然と笑顔がこぼれる。
Aさんは「作品を作る時はイメージしたり、イメージを描いたりするんですか?」と問われ、「イメージできないものはかたちにできませんね。イメージすることは制作する上でとても大切です。」と答えると、Aさんは「農業も同じです。良い野菜がたくさん採れるイメージをして、そのために何をするかを決めていくんですよ。」とおっしゃった。天候にも左右されながらその都度イメージを修正して完成に向かう。1年一回のやり直しのきかない営み。農業の厳しさと楽しさ、尊さをAさんのお話をうかがいながら感じる。

窓辺でアサガオを見る入院患者さん

窓辺でアサガオを見る入院患者さん

13:30 十日町病院に行き、高橋事務長、井澤さん、泉澤さんと大地の芸術祭会期後の搬出や将来的な可能性について話し合う。会期が終わったからと言ってすべての作品を一度に搬出するのではなく、段階を経て作品の特性に合わせて搬出していくことで意見が一致する。一部今後末永く使っていただく作品もある。
15:00 スーパーマーケットに食料の買い出しに行く。いよいよ皆さんお待ちかねのカレーを皆にごちそうするためだ。カレーといっても私の作るカレーはインド人の友達から教えてもらった本格派。市販のルーは一切使わない。香辛料のみで作る。
16:00 仕込み開始。米を研ぐ。タマネギを4玉みじん切り。ニンニクとクミンシードをギーとサラダ油で炒め香り出ししておいてそこへタマネギを加える。このタマネギがカレーのペーストのメインとなる。
鶏の骨付き肉を塩こしょうで下味をつけてカリッと炒めておく。さて、香辛料類はターメリック、コリアンダー、ガラムマサラ、マンゴーチャツネ、唐辛子、ブラックペッパーなどなどをヨーグルトで溶いておく。あらかじめ用意しておいた、タマネギの炒めたペースト、炒めた骨付き肉、茄子を鍋に投げ入れ、香辛料を溶いたものとトマトピューレを加える。

自分で言うのもなんだが、ものすごくうまかった

自分で言うのもなんだが、ものすごくうまかった

人参3本を細切りにきざんでおく。たれはミーナッツの砕いたものとおろしニンニク、ショウガ、砂糖、酢、ごま油、そしてナンプラー。食べる直前に人参にぶっかけてざっくり混ぜ合わせて食べると最高においしい。
ささやかなカレーパーティー。約束がやっと果たせた。でも食べたのは泉と川島だけなので、今度は学校で作って振る舞うからね。
12:00 仲良くなった居酒屋のマスターがお店のお客さん一人を連れてやさしい家に遊びにきてくれる。料理のこと、子どもの頃の遊び、アートのこと、この妻有地域のこと、いっぱい語り合った。マスターが連れてきたお客さんから「アートはどのように観たらいいのですか。」という真っすぐな質問がとんできた。「基本的にはどのように観てもいいんですよ。」という話をした。
妻有に来て、作品を観に行くと地元住民の方々が作家のことを話してくれたり、作品の制作に携わった方から苦労話が聞けたりする。それが、また本当にうれしそうにお話されるのだ。私はその光景を見て、この人たちは作品の最高の理解者だな、と思った。ここではそんな場面がそこここで起きている。
2:30就寝

マスターが蟹を持ってきてくれた!

マスターが蟹を持ってきてくれた!

妻有 終盤へ

2009年 9月 7日

やさしい家の来場者は6日までに2066名。皆さまのおかげです。病院で鑑賞されたものをいれると、何人の方々がやさしい美術の作品に触れたのでしょう。感謝です。
16:00 やさしい家に戻る。一週間前と変わらずやさしい美術とでんでんのメンバーが私を迎えてくれる。「ただいま。」

水も土もないところで咲く花「はなのはなし」

水も土もないところで咲く花「はなのはなし」

えんがわ画廊の展示がファイナルの企画、泉麻衣子の「はなのはなし」。この家の空間をうまく使っている。柱などにこの地域の花について取材したときのインタビューが貼り出されていて、作品に詩情を与えている。
今日で、「きもちのきのみ」と「やさしい家からの招待状」が終了。でんでんのメンバーごくろうさまでした!
「きもちのきのみ」は病院エントランスとやさしい家玄関にてハートの風船を手渡して行き、やさしい気持ちの象徴である風船が街の中に広がっていくことがイメージされている。多い時は50個、60個を手渡したそうだ。病院職員さんの協力があって、大成功。
「やさしい家からの招待状」は閉鎖的になりがちな病院にヤギに扮するポストマンが行き、小児科に来ている子どもたちとその親御さんたちにやさしい家の存在を知らせ、招待状を配るというものだ。すべての方に受け取ってもらえるものではない。けれど、その招待状を持ってやさしい家に来てくれた方々もいる。この「つながり」感がとても心地良い。
食後はミーティングが続く。
やさしい家クローズをどのように迎えるのか、ご近所や病院への挨拶をどうするのか、搬出の方法、時期…。終わり方もとても大事だ。活動報告会を11日、12日に開く。私は学務で現地にいられないが、メンバーとスタッフで対応して行く。
現代GP採択後に少しずつ進めてきたアンケート調査の質問文、尺度の設け方をスタッフ泉と議論する。なかなか手強いが、これも大切なプロセス。
2:30 モビールプラネットを見ながら就寝。

大島 3日目 いのちの意味を考える

2009年 9月 5日

大島行き3日間のこと。まず最終日から書くことにする。前の2日間を遡っていくのでお許しを。
9月5日 今日も大島は快晴。気持ちよく晴れることがない大島でこの3日間雨にも降られず、天気に恵まれている。

水簸した大島の土

水簸した大島の土

9:00 朝食を済ませ、まず、昨日まで作業した大島焼の土の様子を見に行く。植木鉢を流用して土を濾していく過程に入っているのだが、水分はそう簡単にはとんでくれない。日当りの良いところに出しておく。
面会人宿泊所に戻り、カメラと三脚を持って外に出る。「大切なもの、捨てられないもの、古いもの」を入所者の方々のお宅をめぐって取材し、写真記録におさめる私の制作は少しずつ進んでいる。昨年のように入所者のお宅に行くために事前にアポイントをとるということはしていない。皆さんが私の顔を憶えてくれていたり、親切な職員さんに紹介いただくことが多くなってきている。
大島の東側海岸線を歩いていると、偶然通りがかった入所者自治会副会長の野村さんに会う。野村さんの趣味は盆栽である。さっそく撮影の交渉をして、堤防の上に3つの盆栽を並べて撮影する。一番古いもので35年ほど前から育てている松の木はなんとも美しく、野村さんの思い入れも強いものがある。ここ大島では墓標の松を始め、多くの美しい松がある。それらがモデルになる。野村さんがコーヒーでも飲んで行きなさい、とおっしゃるので缶コーヒーをいただきなが

野村さん自慢の盆栽。根の張り方が美しい

野村さん自慢の盆栽。根の張り方が美しい

ら、野村さんと雑談。大島には古いもの、古い建物が残っていない。野村さんが大島に連れて来られたのは17歳。以降50年以上も大島で暮らしている。当時は700人ほどの入所者がいて、寮が長屋状に並んでいるのは現在と変わらないが、その長屋の真ん中を貫くように土間があってそこにかまどがあって、食事を作っていたそうだ。看護師さん、事務所の職員すべて合わせても30名ほど。とても700人のハンセン病患者を世話することはできない。重篤な患者は少し調子が良い患者が面倒を見た。注射器の煮沸消毒、アンプルから薬品を入れる。血管注射以外はすべて患者自身で行っていたと言う。
野村さんにお礼を言って、取材を続行する。しばらく歩いていると入所者Aさんが声をかけてくる。私から声をかけることが多かったが、最近は入所者の皆さんから声をかけていただくことが多くなった。Aさんは私をご自宅の前に誘い、おもむろに冷蔵庫を開けて「好きなもの食べなさい」とおっしゃる。中には3つ、ぽつりとアイスクリームが入っている。私はあずきアイスを選ぶ。高校野球のことや名古屋のことなど世間話をし、アイスクリームをいただいたお礼を言い、取材を続行する。
しばらく歩いていると、入所者Bさんに会う。Bさんとは初めてお会いして話をするが、私の顔をなんとなく憶えていて、定期的に姿を見るので、何しにきているのか興味を持っていたそうだ。Bさんは写真部の一人で、今もフィルムカメラを持って写真を撮るとのこと。私が使っている6×6のカメラを見せながら写真談義に花が咲く。
そこへ入所者Cさんが通りがかる。Cさんはカートを杖代わりに上半身裸で散歩に精をだしているところだ。Cさんは13歳で大島に強制的に連れて来られた。ハンセン病のため足が曲がってしまい、十数年前までは歩けなかったが、整形手術をしてなんとか歩けるようになったそうだ。ここ数年で体調を崩され、C型肝炎にかかっていることが判り、肝臓に腫瘍ができて手術もした。一時重篤な状態だったがなんとか持ち直して、この3年間は入院することなくきた。しかし現在は視力が急激に低下してほとんど見えない状態。島内の白線だけはぼんやりと見えるのでそれを頼りに健康維持のため歩き続けている。それでも焼酎とワインを欠かさず飲むそうだ。ドクターに止められていても、人生の楽しみ。旅の話も聞くことができた。Cさんがまだぎりぎり目が見えている4、5年前のこと、タイへ旅行に行ったそうだ。そのとき見た風景が忘れられない。各国にハンセン病の療養所があって、タイの療養所をまわったそうだ。私もタイを旅行したことがあると話すと一気に話が盛り上がる。タイの人々は皆やさしかった。Cさんの後ろ姿をそっと見送る。
お昼になり、面会人宿泊所に戻る。職員食堂セイブに行こうかと思っていたら、そとで自転車が走る音がする。入所者Dさんだ。Dさんが霊交荘に行こう、というので、ついて行く。
霊交会という教会が大島にはある。半年ほど前、Dさんから「癩院創世」という本をいただいた。無法地帯だった大島が霊交会の信仰がもととなって自治会が整備されていく、大島の創世期を伝えるものだ。最近、埋もれて見つかっていなかった、当時のメモや発行物が発見されて、霊交会の創成期にどのような活動をしていたのか、その当時の大島の状況、ハンセン病をめぐる世間を伝えてきている。Dさんは現在これらの資料を後世に伝える仕事に着手している。Dさんの信仰心は揺るぎなく厚いものだ。Dさんは偏見と差別の連鎖の中で「差別する側」と「差別される側」は一緒である、と断言する。右か左、正と誤、上と下、美しいと醜い…。二項対立で物事をはかっていては根本的な解決にはならない、生きとし生けるものが同じ地平に立ち、つながっているということが体感できなければ。そうおっしゃる。私はその話を聞きながらも、Dさん自身は10代でハンセン病を発病し、大島に連れて来られ、大変な差別と偏見にさらされてきた、という事実が頭から離れない。Dさんは静かにご自身の幼少時代を語り始めた。Dさんの暮らしていた近所に結核を患った方が居たそうだ。親からもそのお宅の前を通る時は鼻をつまんで息を止めなさい、と教えられていたという。ある日のこと、そのお宅のお嬢さんが自ら命を絶った。Dさんにとって幼い頃とはいえ、心に深く突き刺さる経験だったそうだ。その後、Dさんはハンセン病を発病し、家族からも故郷からも引き離されて大島に連れて来られた。Dさんは頭で考え、言葉で理解するのではなく、言葉になる前の感覚が大事だとおっしゃる。言葉にしたと同時に「比較」の偏りが生まれる。偏りは部分や断片を詳しく知ることになるが、全体を感じ取ることができなくなる、ということだ。Dさんの信仰を礎にした哲学に触れた。Dさんはすべての事物には意味がある、とおっしゃる。私はすべての事物には意味がないと思っている。私たちが思っていることは案外近いのかもしれない、そう感じた。
かれこれ3時間も話し続けただろうか。昼食を摂るのも忘れる。

書道教室は月に一回行われる。

書道教室は月に一回行われる。

面会人宿泊所に戻ると菅と職員のEさんが台所で話しているところだった。Eさんが月に一回の書道教室が開かれているので、行ってみてはどうかと勧められる。自治会横の建物で3名の入所者の方々が思い思いに筆をとっている。靴を履いていると気がつかないが畳にあがるとわかる。義足の方も多い。職員Eさんに入所者Fさんを紹介していただく。川柳名人のFさんは19歳の時に発病して大島に連れて来られた。入所者の皆さんはご子息を残すことが許されなかった。堕胎させられ、断種させられ、人間扱いをされなかったのだ。Fさんはご自身のおなかに7ヶ月に育った男の子を堕ろすことを余儀なくされた。Fさんは涙を流しながらその体験を語った。
あまりにもひどい話だ。入所者が堕胎させられた子ども達の一部はホルマリン漬けにされて発見された。その目的も意義も全く解明できていない。Fさんに私たちやさしい美術プロジェクトがどのような活動かをお話しさせていただいた。大島での取り組みは大島を知ってもらい、感じてもらい、それを忘れないために行うという主旨をお話ししたら、「いずれ消えてなくなってしまう島です。私たちのことを少しでも知っておいて欲しい。」とFさんはおっしゃった。
16:30 職員Eさんに見送られながら、大島を後にする。今回の大島訪問で、入所者の皆さんからたくさんのお話を聞くことができた。それはまぎれもなく本当に起きたことで、私の目の前にいらっしゃる入所者の方々が体験してきたことだ。そして、私たちが暮らすこの日本でのことである。
名古屋に帰る道で、今日聞いたお話を頭の中で繰り返し再生する。
私はどうしてこの世に生を受けたのか。それはわからない。意味は、あるかもしれないし、ないかもしれない、その両方かも。でも、私は今、私の両親に感謝の気持ちで一杯だ。
ありがとう、母さん、父さん。
今日9月5日は私の誕生日。何かの始まりを告げる一日だった。

大島 土づくりワークショップ 2日目

2009年 9月 4日

大島から見た朝日

大島から見た朝日

5:30 起床。朝日を写真に撮ろうと東側の砂浜に行く。雲が少し出ていて、すでに空はかなり明るい。しばらくすると太陽が島の上にひょっこりと顔をのぞかせた。実はまともに朝日を撮ることができたのが初めて。ひょっとして日の入りも撮影できるかも。むろん宿泊しなければ大島からの朝日も夕日も拝めない。
面会人宿泊所に戻ると、皆めいめい浜辺にビーチコーミングに向かう。ガラスの破片、流れ着いた容器、貝殻、丸くなった石を拾ってきている。
9:00 朝食の後まずは入所者自治会に行く。まだ誰も来ていない。作業の流れは昨日でつかんでいるので、福祉室作業部のガレージに行き、作業の続きを始める。洗った粘土の塊を砕き、それに水を加えて撹拌器でかき混ぜて泥升を作る。それを篩にかける。
作業を分担する。上記の荒い篩にかけられた泥升をさらに細かい篩にかけてゆく。きめ細かく選別された泥を布で濾して粘土の精製作業は一段落。その後は土練機にかけられて作業に適した粘土になるまで寝かしておく。
篩の作業を入所者山本さんに手ほどきを受けながら、楽しくこなして行く。

天日干しされる前の段階

天日干しされる前の段階

午前中にはすべての粘土を泥升にして篩にかけることができた。午後は残りの細かい番数で篩にかける作業を進める。
14:30 まずは今回の目標である土練機にかける前の段階まで作業は完了する。全身どろんこ、作業着は着替えていないので相当汗臭い。面会人宿泊所に行き全員着替える。女性陣はシャワーを浴びる。
15:00 大島会館に行く。自治会事務所の真向かいにある、集会所、公会堂、会議室を兼ねた公共施設で、週に一回のみしかも15:00〜16:30だけ喫茶室が開設されている。私たちは入所者の皆さんと交流を深めるため、この臨時喫茶室に行く。会議室はちょっとしたテーブルクロスで喫茶室に様変わり。青松園の職員さんが切り盛りしている。一番奥の席には昨日夕食が一緒だった曽我野さんがどっしりと座っている。早速コーヒーをいただくと同時に隣のテーブルからはビールがまわってくる。ここで山本さんと合流してしばらく談笑。こうしたひとときがとても大事だと感じる。私たちは大島にカフェを作ろうと考えているが、きっと入所者の皆さんは喜んでくれる。

かき氷いちごをうれしそうに食べる山本さん

かき氷いちごをうれしそうに食べる山本さん

山本さんから昔の大島の話をうかがった。私は東の浜辺にある船小屋のことをたずねた。昔は船を出して釣りや素潜りによる漁をよくしたそうだ。島周辺には潮の流れが早く、危険なところも多いと聞く。そこへわざわざ潜りに行くのだ。自暴自棄になって自身の運命をのろい、「もう、どうなってもいい。」と思っている自分と「ここで海に入ると危険だ。」と冷静な自分がいたそうだ。いつ死んでもいい。それほど辛い日々を過ごしながら、それでも「生」への反応が自分の中に芽生える。そういう自分をまた、発見する。大島という現実から少し離れること。それは、数奇の運命(それも法律により人為的に翻弄されたといってもよい)を客観視することだったかもしれない。いや、きっと何人かは向こう岸に行った人もいるかもしれない。向こう岸にも行かず、大島にも戻らず、永遠の船出に漕ぎ出した人もきっといたはず。そんな想像も単なる想像であって、今お話ししている入所者の方々がまぎれもなく体験してきたことである。
16:20 井木と川原が名古屋に向けて大島を出発する。取材同行していた若林さんともここで別れる。
菅は浜辺にビーチコーミングに行くという。私は朝の期待を胸に日の入りを撮影に行く。
朝とは反対側西側の浜辺に三脚を立てて撮影。思った通り夕日を撮ることに成功。
18:00 職員食堂セイブに行くと、小さな宴席が設けられている。そこには見慣れた顔があった。官用船せいしょう丸の船長、曽我野さん、セイブのおばちゃん、福祉室の西嶋さんらだ。そこに曽我野さんが40年来の付き合いだという大阪からみえたAさん親子がいらっしゃった。大島のこの数十年の変遷をご飯を食べながら、聞く。
船長は私と同い年であることが判明。曽我野さんは昨日よりもずっと楽しげだった。
面会人宿泊所に戻り、今日あったことを菅と話す。いきなり何の予備知識もないまま、大島にやってきた菅はようやく自分の今いる島の状況が見えてきたようだ。
0:00 就寝。

大島から見た夕日

大島から見た夕日

大島 土づくりワークショップ1日目

2009年 9月 3日

高橋、井木、菅、川原の4人で大島に向かう。
7:37発 のぞみに乗り、9:34発 マリンライナーに乗り換えて高松まで。
10:35 高松駅に到着。ここで食料などを買っておく。
官用船まつかぜに乗るため桟橋へ。ここで今回の土づくりワークショップに同行して取材するマルモ出版の尾内さん、フォトグラファーの若林さん、香川県庁の宮本さんと合流する。
11:10発 まつかぜにいつものように乗り込む。今日は風があるためか、少し揺れる。
11:30 大島着。面会人宿泊所に荷物を置いて、まずは全員で納骨堂に手を合わせ、風の舞をめぐる。
職員食堂セイブで昼食。何気ない野菜炒めが美味しかった。
13:00 作業着に着替えて入所者自治会会議室に集合。入所者山本さんをはじめ、福祉室の皆さんが集まる。作業の流れを簡単に打ち合わせて、早速現場に向かう。
13:30 軽トラックの荷台に皆で乗り込む。大島の山の中腹の地層が露出しているところがあるが、その辺りから耐火度のある粘土が採れる。福祉課の職員さんの一人がユンボ(ショベルカー)で地面を掘って行く。辺り一面粘土が採れるわけではない。粘土の層を掘り当てられるかどうかがカギだ。私は土の仕事を学生時代に経験していたおかげで、土砂と粘土の見分けがはっきりついた。掘り出した粘土を片っ端からトラックに投げ込む。発掘作業は楽しさの極みだ。
14:30 掘り出した粘土を福祉室の作業場までトラックで運ぶ。小型のコンクリートミキサーに粘土の塊を投げ込み、水を加えてシェイクする。泥水をしこたま浴びる。でも楽しい!
芋洗いのように粘土を洗い、砂利や木の根っこ、ゴミなどを取り除く。
洗った粘土の塊を今度はハンマーで砕く。粘土の純度が高いほど硬くて割りにくい。この時点で大方の粘土が選別できている。
砕いた粘土を大きなポリバケツに入れて水を加え、撹拌器でひたすらかき混ぜる。砕かれた粘土が溶かし、泥升を作る。どろどろの粘土のジュースと言った様相。入所者の山本さんが様子を見にくる。私たちの楽しそうな様子を温かく見守ってくれている。
泥升ができたらそれを篩にかける。この作業で砂利がかなり取り除ける。きめ細かな粘土を作るには欠かせないプロセスだ。
17:00 今日の作業終了。90リッターの大きなポリバケツに1杯の泥升ができる。残りは明日にまわすことにする。
18:00 夕食のため職員食堂セイブに行く。そこで入所者の曽我野さんに会う。曽我野さんに呼ばれて一緒に食卓を囲む。曽我野さんは大島に62年暮らしている。18歳のときに海軍の予科練に入り、出撃手前で終戦。20歳の時に発病して大島青松園に送還された。
曽我野さんは全国原告団協議会会長だった人で教科書にも載る方である。私たちは曽我野さんからお酒を注がれるが、私がお酌をしようとすると、断られた。手酌でお酒を飲む親分、と言った感じである。とても82歳とは思えない、威厳と力強さを感じる。
昭和22年から24年頃、アメリカから特効薬プロミンがはいってきて、当時膿と腫で包帯でぐるぐる巻きだった人々が次々と治癒していったとのこと。直る感染症と判ってずっと偏見と差別が無くならなかったということを私たちはしかと心に留めておかなければならない。
熊本地裁でのハンセン病訴訟の話、国の控訴を直談判しに行った話など、武勇伝は1つや2つではない。「人間回復を果たす」闘争の修羅場をくぐり抜けてきた曽我野さんは現在、少しはやすらぎのある日々を送っていらっしゃるようだ。瀬戸内国際芸術祭について、そしてやさしい美術プロジェクトについてもお話を聞いていただいた。
面会人宿泊所に戻る。今日起きたこと、聞いたお話を思い出しながら、しばしディスカッションをする。今も生きていて、やがては消えてしまう歴史に触れている、という実感がじわりと湧いてきた。

土の中から粘土を掘り出す。

土の中から粘土を掘り出す。

ミキサーで掘り出してきた土を洗う。

ミキサーで掘り出してきた土を洗う。

洗った土。これをハンマーなどで細かく砕く。

洗った土。これをハンマーなどで細かく砕く。

撹拌器で土をどろどろに溶かす。

撹拌器で土をどろどろに溶かす。

どろどろにした粘土を篩で濾す。

どろどろにした粘土を篩で濾す。

卒業生のモチベーション

2009年 9月 2日

福井奈々恵の作品

福井奈々恵の作品

やさしい美術のメンバーは在学生のみではない。というか、卒業生の活躍が在学生を牽引しているほどに、パワーがある。
例をあげれば、十日町病院に今回「雪下駄オーナメント」を制作した、福井。前回の大地の芸術祭では絵はがきを職員さんに描いてもらい、それを病室内の患者さんたちに手渡すワークショップを企画した。福井は昨年4月に就職しており、仕事を抱えながらの参加である。プレゼンテーションの資料準備もツボをおさえてあって、作品の質感も高い。在学生は大いに刺激を受けたのではないか。
菅はえんがわ画廊の参加アーティストとしてペインティングを制作。菅もすでに数年前に卒業している。初めて足助病院に向かう車中で「実は私、お年寄りとお話しするのが苦手なんです」と告白されたのを思い出す。ところが、その後、毎月足助病院で長期に入院されている方のいる病棟に通い、そこで患者さん達と語らいながら絵を描く、ということを約一年半繰り返した。アーティストが日常に入っていく斬新な試みだ。菅は仕事をしながらも、いざという時に手伝いにきてくれる。明日から行く大島の土づくりワークショップにもいち早く手を挙げてくれた。
浅井は今日、プロジェクトルームに来てくれている。本学を卒業後、名市大の大学院に入り、デザインの勉強を続けた。卒業後は静岡のある店舗を任せられる店長を務めている。静岡から来ているにも関わらず疲れた顔もせずにディサービスちよだの造形ワークショップのミーティングに参加している。
学生には学生の事情がある。単位取得が至上目標であるが故に、私たちのような相手のある社会活動としてのプロジェクトではスケジュール調整が困難を極める。基本は先方の予定に合わせるべきところが、なかなかそうもいかないのだ。また、個々のモチベーションの高さにおいても在学生に比べ、卒業生の方が総じて高い。なぜならば、時間も生活も学生時代より厳しい状況にありながら、「自分が何と向き合い、何をすべきか、何をやりたいのか。」というテーマに対して貪欲なのだ。チャンスがあれば、すぐに飛びつく。やってみる。そうした若者の特権のような行動力は在学中は「次に」「めんどくさい」「予定入るかもしれないから」などとなんとなく甘えてしまう。卒業して自分で働き、生活してみてわかる。チャンスに「次」はないのだ。体力も潜在的には学生時代の方があるに決まっている。にもかかわらず健康管理は学生の方がずさんで、ドタキャンも多い。自分がチームワークの中でプライドを持って仕事して行けば、自分が土壇場で抜けてしまったら、どのような事態になるのか「想像」することができる。学生にはその責任がない、ないはずはないが、感じられないのかも。
大学には今、モチベーションを高める教育プログラムが求められている。やさしい美術が現代GPに選定されているのは、このモチベーションを高める、そして地域活性化の貢献が主な選定理由だ。私たちの取り組みには大学院生がいないが、卒業生やスタッフの活躍が学生の力を引き出す大きな力となっている。頼もしい限りだ。