Nobuyuki Takahashi’s blog

2009年 9月 5日のアーカイブ

大島 3日目 いのちの意味を考える

2009年 9月 5日

大島行き3日間のこと。まず最終日から書くことにする。前の2日間を遡っていくのでお許しを。
9月5日 今日も大島は快晴。気持ちよく晴れることがない大島でこの3日間雨にも降られず、天気に恵まれている。

水簸した大島の土

水簸した大島の土

9:00 朝食を済ませ、まず、昨日まで作業した大島焼の土の様子を見に行く。植木鉢を流用して土を濾していく過程に入っているのだが、水分はそう簡単にはとんでくれない。日当りの良いところに出しておく。
面会人宿泊所に戻り、カメラと三脚を持って外に出る。「大切なもの、捨てられないもの、古いもの」を入所者の方々のお宅をめぐって取材し、写真記録におさめる私の制作は少しずつ進んでいる。昨年のように入所者のお宅に行くために事前にアポイントをとるということはしていない。皆さんが私の顔を憶えてくれていたり、親切な職員さんに紹介いただくことが多くなってきている。
大島の東側海岸線を歩いていると、偶然通りがかった入所者自治会副会長の野村さんに会う。野村さんの趣味は盆栽である。さっそく撮影の交渉をして、堤防の上に3つの盆栽を並べて撮影する。一番古いもので35年ほど前から育てている松の木はなんとも美しく、野村さんの思い入れも強いものがある。ここ大島では墓標の松を始め、多くの美しい松がある。それらがモデルになる。野村さんがコーヒーでも飲んで行きなさい、とおっしゃるので缶コーヒーをいただきなが

野村さん自慢の盆栽。根の張り方が美しい

野村さん自慢の盆栽。根の張り方が美しい

ら、野村さんと雑談。大島には古いもの、古い建物が残っていない。野村さんが大島に連れて来られたのは17歳。以降50年以上も大島で暮らしている。当時は700人ほどの入所者がいて、寮が長屋状に並んでいるのは現在と変わらないが、その長屋の真ん中を貫くように土間があってそこにかまどがあって、食事を作っていたそうだ。看護師さん、事務所の職員すべて合わせても30名ほど。とても700人のハンセン病患者を世話することはできない。重篤な患者は少し調子が良い患者が面倒を見た。注射器の煮沸消毒、アンプルから薬品を入れる。血管注射以外はすべて患者自身で行っていたと言う。
野村さんにお礼を言って、取材を続行する。しばらく歩いていると入所者Aさんが声をかけてくる。私から声をかけることが多かったが、最近は入所者の皆さんから声をかけていただくことが多くなった。Aさんは私をご自宅の前に誘い、おもむろに冷蔵庫を開けて「好きなもの食べなさい」とおっしゃる。中には3つ、ぽつりとアイスクリームが入っている。私はあずきアイスを選ぶ。高校野球のことや名古屋のことなど世間話をし、アイスクリームをいただいたお礼を言い、取材を続行する。
しばらく歩いていると、入所者Bさんに会う。Bさんとは初めてお会いして話をするが、私の顔をなんとなく憶えていて、定期的に姿を見るので、何しにきているのか興味を持っていたそうだ。Bさんは写真部の一人で、今もフィルムカメラを持って写真を撮るとのこと。私が使っている6×6のカメラを見せながら写真談義に花が咲く。
そこへ入所者Cさんが通りがかる。Cさんはカートを杖代わりに上半身裸で散歩に精をだしているところだ。Cさんは13歳で大島に強制的に連れて来られた。ハンセン病のため足が曲がってしまい、十数年前までは歩けなかったが、整形手術をしてなんとか歩けるようになったそうだ。ここ数年で体調を崩され、C型肝炎にかかっていることが判り、肝臓に腫瘍ができて手術もした。一時重篤な状態だったがなんとか持ち直して、この3年間は入院することなくきた。しかし現在は視力が急激に低下してほとんど見えない状態。島内の白線だけはぼんやりと見えるのでそれを頼りに健康維持のため歩き続けている。それでも焼酎とワインを欠かさず飲むそうだ。ドクターに止められていても、人生の楽しみ。旅の話も聞くことができた。Cさんがまだぎりぎり目が見えている4、5年前のこと、タイへ旅行に行ったそうだ。そのとき見た風景が忘れられない。各国にハンセン病の療養所があって、タイの療養所をまわったそうだ。私もタイを旅行したことがあると話すと一気に話が盛り上がる。タイの人々は皆やさしかった。Cさんの後ろ姿をそっと見送る。
お昼になり、面会人宿泊所に戻る。職員食堂セイブに行こうかと思っていたら、そとで自転車が走る音がする。入所者Dさんだ。Dさんが霊交荘に行こう、というので、ついて行く。
霊交会という教会が大島にはある。半年ほど前、Dさんから「癩院創世」という本をいただいた。無法地帯だった大島が霊交会の信仰がもととなって自治会が整備されていく、大島の創世期を伝えるものだ。最近、埋もれて見つかっていなかった、当時のメモや発行物が発見されて、霊交会の創成期にどのような活動をしていたのか、その当時の大島の状況、ハンセン病をめぐる世間を伝えてきている。Dさんは現在これらの資料を後世に伝える仕事に着手している。Dさんの信仰心は揺るぎなく厚いものだ。Dさんは偏見と差別の連鎖の中で「差別する側」と「差別される側」は一緒である、と断言する。右か左、正と誤、上と下、美しいと醜い…。二項対立で物事をはかっていては根本的な解決にはならない、生きとし生けるものが同じ地平に立ち、つながっているということが体感できなければ。そうおっしゃる。私はその話を聞きながらも、Dさん自身は10代でハンセン病を発病し、大島に連れて来られ、大変な差別と偏見にさらされてきた、という事実が頭から離れない。Dさんは静かにご自身の幼少時代を語り始めた。Dさんの暮らしていた近所に結核を患った方が居たそうだ。親からもそのお宅の前を通る時は鼻をつまんで息を止めなさい、と教えられていたという。ある日のこと、そのお宅のお嬢さんが自ら命を絶った。Dさんにとって幼い頃とはいえ、心に深く突き刺さる経験だったそうだ。その後、Dさんはハンセン病を発病し、家族からも故郷からも引き離されて大島に連れて来られた。Dさんは頭で考え、言葉で理解するのではなく、言葉になる前の感覚が大事だとおっしゃる。言葉にしたと同時に「比較」の偏りが生まれる。偏りは部分や断片を詳しく知ることになるが、全体を感じ取ることができなくなる、ということだ。Dさんの信仰を礎にした哲学に触れた。Dさんはすべての事物には意味がある、とおっしゃる。私はすべての事物には意味がないと思っている。私たちが思っていることは案外近いのかもしれない、そう感じた。
かれこれ3時間も話し続けただろうか。昼食を摂るのも忘れる。

書道教室は月に一回行われる。

書道教室は月に一回行われる。

面会人宿泊所に戻ると菅と職員のEさんが台所で話しているところだった。Eさんが月に一回の書道教室が開かれているので、行ってみてはどうかと勧められる。自治会横の建物で3名の入所者の方々が思い思いに筆をとっている。靴を履いていると気がつかないが畳にあがるとわかる。義足の方も多い。職員Eさんに入所者Fさんを紹介していただく。川柳名人のFさんは19歳の時に発病して大島に連れて来られた。入所者の皆さんはご子息を残すことが許されなかった。堕胎させられ、断種させられ、人間扱いをされなかったのだ。Fさんはご自身のおなかに7ヶ月に育った男の子を堕ろすことを余儀なくされた。Fさんは涙を流しながらその体験を語った。
あまりにもひどい話だ。入所者が堕胎させられた子ども達の一部はホルマリン漬けにされて発見された。その目的も意義も全く解明できていない。Fさんに私たちやさしい美術プロジェクトがどのような活動かをお話しさせていただいた。大島での取り組みは大島を知ってもらい、感じてもらい、それを忘れないために行うという主旨をお話ししたら、「いずれ消えてなくなってしまう島です。私たちのことを少しでも知っておいて欲しい。」とFさんはおっしゃった。
16:30 職員Eさんに見送られながら、大島を後にする。今回の大島訪問で、入所者の皆さんからたくさんのお話を聞くことができた。それはまぎれもなく本当に起きたことで、私の目の前にいらっしゃる入所者の方々が体験してきたことだ。そして、私たちが暮らすこの日本でのことである。
名古屋に帰る道で、今日聞いたお話を頭の中で繰り返し再生する。
私はどうしてこの世に生を受けたのか。それはわからない。意味は、あるかもしれないし、ないかもしれない、その両方かも。でも、私は今、私の両親に感謝の気持ちで一杯だ。
ありがとう、母さん、父さん。
今日9月5日は私の誕生日。何かの始まりを告げる一日だった。