Nobuyuki Takahashi’s blog

2009年 10月のアーカイブ

妻有お疲れさま会

2009年 10月 17日

世界一のメンチボール

世界一のメンチボール

19:00 メンバー浅野の家族が経営する洋食店に行く。この夏、妻有アートトリエンナーレ2009の関連事業として新潟県立十日町病院での活動と病院と地域をつなぐ中継地点として空き家活用プログラム「やさしい家」を実施した。今日はそのお疲れさま会である。
総勢21名。妻有に関わったほとんどのメンバーが集結した。私は奥さんと二人のこどもたちと同伴。こどもたちも久しぶりの再会でちょっと緊張気味だ。一夏を遊んで過ごしたお兄さん、お姉さんたちだ。すぐ、また、打ち解けるはず。
慧地は一番大好きなスタッフ赤塚の似顔絵を描き始める。メンバー岡村ともやさしい家にいたときのように絵を描いて遊ぶ。慧地にとって、「描く」ことはコミュニケーション。やさしい美術の大切な部分をしっかり受け継いでくれている。美朝はスタッフ泉とスタッフ井口を巻き込んで、テーブルクロスを海の波に見立てて大はしゃぎ。
大地の芸術祭が終わってもう一月が経つ。それでも、この夏に皆で経験した日々が色あせることはない。
「足助病院での温かで神聖とさえ思える取組み」とは創設からずっとやさしい美術に関わって来たスタッフ平松の言葉である。私はディレクターとして、どのような規模の活動になろうとも、この平松の言う取組みを私たちは実行できているか、自問自答してきた。今日のこのお疲れさま会でこれまでの日々を振り返ってみて、創設当時のスピリットが確実に生きている、と感じた。それは受け継ぐというより、感情の心棒の部分が互いに共鳴しているというのに近いかもしれない。人は、バラバラの重ならない感情を生きているわけではない。だからこそ、異分野の協働が可能になったし、私たちの活動を様々な地域の人々が受け入れてくれたのだ。
あたりまえのことを感じられなくなっているからこそ、感じたい。感じていこう。その姿勢が明日のやさしい美術をつくっていく。

曾祖父

2009年 10月 16日

私の父方は名古屋市内の農家だった。父は三菱重工の工場の安全管理の仕事を勤め上げ、12年前退職。
母は私が生まれてから書道の師範をとり、書道教室を自宅で始めた。私は2歳から母の膝の上に座り、筆を走らせていた。母方は今はもうつぶれてしまったが、名古屋市内で昔ながらの酒屋を経営していた。その前の代をたどると三重県四日市。親戚をたぐると田舎の醸造元に行き着く。私のルーツをたどれるのはそこまでだ。
その四日市で曾祖父、つまりわたしのひいおじいさんは出口對石という無名の画家だった。私の兄が生まれて間もなくの頃、曾祖父に会ったらしいが、私が生まれる頃には曾祖父は他界していた。
地元では親しまれた画家で、けっして有名ではなかったが、曾祖父の絵を大事に所蔵しておられる方が今も四日市に何人かみえるそうだ。多くは戦災で焼けて灰になってしまった。
母は曾祖父が大好きだった。幼き頃曾祖父の膝の上によく座っていたという。10年ほど前のこと、母が一枚のぼろぼろの水墨画を出して来て私に渡した。「これを裏打ちして部屋に飾りなさい。」
その絵はすぐに職人さんに頼んで裏打ちした。それを、私は飾りもしないで大切にしまいこんでいた。
ずっとずっとこの絵の事が気になっていた。しまいこんでいる間に慧地が生まれ、美朝が生まれて来た。
昨日、この絵を久しぶりに取り出し、アクリルの額に入れて我が家の壁面に飾った。私の奥さんが「この絵、ハニーが描いた絵みたい。」(※ハニーとは私の家族内での愛称)と言う。確かにこの絵を眺めていると、懐かしいような、くすぐったいような気持ちが湧いてくる。
この絵は曾祖父が全国にある芭蕉塚をたずねて歩き、スケッチして来たうちの一枚である。曾祖父も旅が好きだったようだ。絵が売れるとそのお金で芸者さんを呼び、親しい人と宴の席を設けたというエピソードを聞いた。
今日、じっとこの絵を見ていたら、ふと別の一枚の絵を思い出す。
私が10歳をむかえる時、母から誕生日プレゼントの希望をたずねられた。私は灯台の油絵がほしい、と答えた。灯台の絵は私の母の知人で日曜画家の田中さんが描いてくれた。現地に行って海風にあたりながらその絵を、一生懸命描いてくれた。そう、驚くべきことにその灯台の絵と曾祖父の絵の構図がとてもよく似ているのだ。
こどもたちは日々暮らしながら、この絵を見ている。少なくともわたしの息子と娘は、ルーツを私の曾祖父までたどれるわけだ。よく考えてみたら、これはとても感慨深い事である。
話は大島に移る。ハンセン病を患い、家族からも地域からも引き離されて、強制的に収容された入所者の皆さんは、ルーツをたどることもできない。私のように曾祖父の形見に触れる事なんてできやしなかった。私は入所者の方々をたずねて廻り、「古いもの、捨てられないもの、大切なもの」を記録に撮る作業を始めたが、皆さんの生い立ちを聞けば聞くほどその難しさを感じている。
曾祖父が描いた一枚の絵。それが私たち家族に与えている力は、想像以上に大きい。一度も会った事がないけれど、私は一枚の絵を介して毎日曾祖父に会える。

ディストーション

2009年 10月 14日

本学は芸術祭が終わり、研修旅行期間にはいった。私はたまった仕事をもくもくとこなす日々。なぜか、このような時期にかぎって電話がひっきりなしにかかってくる。また、仕事が増えて行く…。こんな時、ギターをギャイーン!!とかき鳴らして、シャウトしたくなる。

やさしい家にも持参したぼろギター

やさしい家にも持参したぼろギター

話は変わるが、私はディストーションサウンドが好きだ。もう少し説明すると、60年代後半から台頭して来たハードなロックでよく聞いた、エレキギターをチューブアンプにつないで思いっきり歪ませた音のこと。ストラトキャスターをマーシャルアンプにぶっこんで、オーバードライブさせた、ハウリングすれすれの音は血液が沸騰してくるような高揚感そのものだ。そう、ロックギターの神様、ジミヘンことジミ・ヘンドリックス。
私がちょうど生まれた頃、ジミヘンは1967年の夏モンタレーポップフェスティバルでアメリカで注目を集め、1969年にはあのウッドストックフェスティバルー。リアルタイムで体験したかった、ウッドストック。素っ裸で泥に飛び込んで、ばか騒ぎしたかったー。私は兄の影響で、小学校5年生からディストーションサウンドに夢中だった。今思えば、ませたガキだ。
私は30代後半になって、急にアコースティックギターの音がからだに馴染んでくるのを感じた。最近は5分でも10分でもアコースティックギターを手にするようにしている。私にとって、瞑想に近い営みなのだ。
まだまだ、ディストーションは大好き。でも、アコースティックもいい。

男のホルモン

2009年 10月 13日

兄も含め、私の家系は若くして亡くなっている人が多い。病気に倒れたり、自ら命を絶った者もいる。私は30代前半まで、あっという間に燃え尽きる人生なんだろうな、とずっと思い込んでいた。明日死ぬかもしれないーそんな事ばかり考えていた。
今は違う。心底「生きたいっ!」と思う。「死にたくない!」と叫びたくなる。その時は気がつかなかったけれど、こどもたちが生まれて来て、私の中の何かが、変わった。
その変化は確実に今の自分を突き動かしている。

末永くお幸せに

2009年 10月 11日

今日は朝から体調がすぐれない。子どもたちは待ったなしなので、自転車で近所の公園に行って遊ぶ。長男慧地にはボールの蹴り方を教える。長女美朝は叫びながらずっと走り回っている。天真爛漫な彼女を観ているだけで幸せな気分。本当に太陽のようだ。

ウェディングケーキ

ウェディングケーキ

夕方に国際センターのレストランに行く。加藤徳治と伊藤文の結婚式の二次会に誘われたためだ。スピーチを頼まれたのだが、どのタイミングで、どのような立場で話すかなど何も打ち合わせがなかったので、その場に合わせて話そうとゆるく構えていた。
会場では懐かしい顔がいっぱい。それもそのはず、結婚する二人は私が10年前、名古屋造形大学(当時:名古屋造形芸術短期大学)に勤め始めた時に短大の2年生で最初の教え子だった。その同級生が集まっているのだから。
二人はやさしい美術プロジェクト創設時に参加してくれた卒業生だった。ユニークな提案によって病院の硬い認識を溶いて行った張本人達だ。スピーチではそのあたりの逸話を話させてもらった。
集まっている卒業生達は皆、社会に出て活躍している。学生時代の夢をそのまま実現している強者もいて頼もしい。
伝説のあほあほバンド「zippers(ジッパーズ)」も演奏。何を隠そう私もバンドの一員だったが、音楽性の違いで脱退(ウソ)。zippersは股間にあるジッパーを上げ下げ(これを私たちは「ジッパリング」と称している)してノイズを発生させピックアップで増幅し、脳髄を直撃する衝撃のサウンド発信するロックバンドだ。新郎の加藤徳治の思いつきから始まった、zippers。よかったら皆さんチェックしてみて下さい。

華麗なジッパリングを披露するzippers

華麗なジッパリングを披露するzippers

魔法の手

2009年 10月 10日

入試直前説明会で終日大学にいる。同時に芸術祭が開かれている。私のコース女子が「ソーセージ女学園」というなにやらあやしい名前のお店を出している。セーラー服姿で私を誘いにくるので、周囲から冷たい視線が…。お店に行ったら、3人の店員に歓迎される。ホットドッグをいただく。
バスに乗り込み、自宅へ。
私の住むマンションの駐車場でボールを蹴る音がする。すでに暗くなっていてボールなんて見えたもんじゃない。それでも力一杯蹴る音。長男の慧地だ。
私は慧地にインステップキックのフォームを教える。踏み込む足は深く、からだは前傾してボールに体重を乗せる…。
慧地の身体をつかみながら、蹴り方を教えていると、「ばあちゃんは魔法の手なんだよ。習字がうまく書けない時に後ろからばあちゃんが僕の手をつかんで書いてくれるの。そしたら、ふしぎでね、次書くとばあちゃんみたいにうまく書けるんだよ。」
背中を見せて、時には呼吸と筆の運びをからだでおぼえさせる。私の母は偉大だ。
もちろん、私のからだも母の手から直に伝えられたリズムをおぼえている。

デザインの間ディスプレイプロジェクト プレゼン

2009年 10月 9日

夜のディスプレイの現場を視察

夜のディスプレイの現場を視察

やさしい美術プロジェクトの事を記すブログだが、「プロジェクト」という括りで、私のいくつか取り組むうちの1つであるデザインの間ディスプレイプロジェクトのことを少しだけ報告している。10月26日の搬入に向けて鋭意制作中で、50センチ角のアクリルボックス45個に展示するものである。コンセプトの検討から試作検討に入り、デザインの間の母体である中部電力の社員、運営を行っている東急エージェンシーの社員が本学まで制作状況を視察に来ていただいている。今回はその試作検討の2回目だ。
何を準備すべきで、どこまで進めておくべきか、まだ学生が主体で進める事はできない。私からイメージスケッチと様々な準備物を指示し、私自身も素材の収集やシュミレーションのためのボックスなどを制作する。
今回は学生が芸術祭前という中、よく頑張って予定通りの内容を準備し、中部電力の社員さんに観ていただいた。前回私が叱ったプレゼンテーション時の態度もとても良くなり、自主的にメモを取る姿もみられた。
展示物も態度も進歩したね。
気を緩めず、搬入まで突っ走ろう。

小牧市民病院 モビールプランの検討

2009年 10月 5日

9月30日に私と泉とで小牧市民病院に行き、研究会を行った。
作品プランの検討、新しく設置する作品の報告、小児科病棟で行うお話会やアンケート調査の検討など盛りだくさん。
その中でも、病室のベッド上、天井装飾を進める「モビールプラン」の検討を慎重に行った。現在使われていない病室で試作品を天井から吊るし、視覚的効果を調べ、設置した場合の落下の危険性、カーテンや点滴棒などとの接触の可能性、室内灯との関係性などをじっくりと検討した。
新潟県立十日町病院での取り組みは病院のすぐ傍らにある空き家「やさしい家」で活動を公開し、病院ーやさしい家ー地域をつないぐハブとしての役割を果たした。今回の小牧市民病院で展示するモビールは実験的に「やさしい家」の企画展で「モビールプラネット」として展示したものがベースになる。
さて、モビールプランのミーティングだ。小牧市民病院での現場検討の結果を今回制作を依頼している溝田さん、井口(moca/スタッフ)に伝える。色の組み合わせ、両者の作品のコラボレーションについても検討した。
最後の決め手になるものを得るために、やはり皆で小牧市民病院に行き現場で試作検討すべき、ということになった。
自然な流れだ。

大島 交わす言葉

2009年 10月 4日

ガラスは天然のサンドブラストがかかっている。

ガラスは天然のサンドブラストがかかっている。

7:00起床 いい天気で今日も鳥のさえずりで目が覚める。朝日を見るには遅すぎた。
朝食前に浜辺に行き、徹底的にビーチコーミング。プラスチックの容器を10個ほどとかなりの量のガラスの破片を拾い集める。ガラスは長い時間海砂にもまれてマットな肌合いに変貌している。長石と陶片も集めている。集めたものは大島から発信する作品やワークショップの素材になる予定だ。
途中から泉もビーチコーミングに参加。
気がつけば、8:30。面会人宿泊所に戻り、トーストを食べる。
午前中は何人かの入所者の方々に会えるかなと考えて、島内を隈無く歩き回る。
小学校は島の南部にある。グランドにはヘリコプターの着陸のサインが描かれている。子どもたちの声が聞こえない学校ほど寂しいものはない。重い気持ちを引きづりながら小学校を後にする。
しばらく歩いて行くと教会の前で入所者の脇林さんに会う。今度はマクロレンズをつけたカメラで昆虫を撮っていた。生活=写真 という構図が頭に浮かぶ。脇林さんは写真を「撮る」ことにより世界と向き合っている。
丘の上にある入所者自治会長の森さん宅を訪ねる。森さんはちょうど引っ越しの荷物整理の真っただ中だった。それでも私たちを見かけると待ってましたとばかりに話に花が咲く。
山の中腹まで畑があったこと。今では畑の面倒をみる人は3、4名だと聞く。立派な松の木が島全体を覆っていたが、今は松食い虫にやられてめっきりすくなくなってしまったそうだ。この10月中に新しく立てられた住居棟に移るそうだが、自慢の盆栽を置く場所がない。いくつかは山に返すとのこと。
盆栽を見せてもらう。半分ほどは預かった盆栽だそうだ。100年経っているものもある。私は森さんの盆栽を接写で撮りまくった。ファインダーにカマキリやバッタが入ってくる。夢中にシャッターを切る。
森さんのお隣に住む入所者の方ともお話しする。畑にニンニクを植えて帰ってきたそうだ。収穫は来年の6月。今頃から植えるとは知らなかった。
12:00 あっという間にお昼。昨日と同じようにうどんを茹でて食べる。毎日食べてもいける。冷凍麺を茹でるだけだが、地元住民の間でもポピュラーな食べ方だそうだ。

ひっぱられながら立っている電信柱

ひっぱられながら立っている電信柱

13:30 面会人宿泊所を出て、今度は北側を練り歩く。泉と川島が入所者の一人とお話が弾んでいるようだ。私は入所者自治会副会長の野村さんと出会い、お話する。

野村さんの話ではこの長屋づくりの寮の構成は昔から変わっていないのだそうだ。最初は12人ほどの共同部屋だったそうだが、それが建て替えられるごとに5、6人、2、3人と細かく別れ、独身寮、夫婦寮ができるころ、現在の形におちついたようだ。15寮をギャラリーにして行く時に、空間の使い方を迷っていたのだが、入所者の皆さんからうかがった話から心が決まった。青松園ができて今年が100年。その100年を示す古い遺構や資料はこの小さな離島では残すすべがなかった。しかし、現存する入所者の皆さんが暮らしているこの環境こそ、100年の積み重ねの現れなのだ。私たちはもし15寮がギャラリースペースとして使うことが叶うならば、この大島の暮らしが映し出される寮の空間を極力活かした活用にしたい。
野村さんとゆっくりとお話ができたのがうれしかった。帰りがけに「今度はいっしょに一杯やろうか。」とお誘いをいただいた。心の壁が一枚ずつ溶け行くような開放感。やさしい美術の活動はこの小さな積み重ねによろこびを見出す活動だ。
面会人宿泊所にもどり身支度をする。福祉室に挨拶をして、官用船まつかぜに乗ろうと桟橋に向かうと、なんと、船がまさに出航しているではないか!私は何度も時刻表を確認したが、どうも冬仕様の時刻表に変更したようだ。

庵治に向かう船から夕日を見る。

庵治に向かう船から夕日を見る。

高松行きは最終が行ってしまったため、庵治行きの船に乗ることにする。
大島の職員さんがたくさん乗ってくる。これに比べて高松行きの寂しいこと。私たちのみという日も少なくない。
真っ赤な夕日を拝みながら庵治町へ。
20分ほどで庵治の船着場に到着する。庵治町での説明会で来たことがあるが、大島側から来たことはなかったので新鮮だった。
18:00 バスで40分高松駅に向かう。途中であまりにもお腹が空き、商店街のうどん屋さんに向かう。
19:40 高松駅から名古屋に向かう。
大島から高松に戻ると、「降り立つ」という感覚がする。同地平に大島があるとは思えない。海を渡ることによって得られる不思議な感覚だ。この感覚をいつまでも色あせないものとしたい。そんなことをぼんやりと思った。

寮を結ぶ長大な廊下。

寮を結ぶ長大な廊下。

大島 けずり

2009年 10月 3日

早朝の波打ち際

早朝の波打ち際

5:30 起床。朝日を見ようとカメラと三脚を担いで東側の浜辺に出る。すると大きな望遠レンズ片手に堤防の影でシャッターチャンスをうかがっている人がいる。入所者の脇林さんだ。少し雲が出ているため朝日が登る瞬間は捉えられない。脇林さんは早々にカメラを持って引き上げる。毎日見ている雲行き、どのような写真が撮れるか、予測ができるのだろうか。軽く挨拶を交わす。
面会人宿泊所に戻ると、泉の靴がない。作品制作のために草花を摘みに行ったのだろう。川島はまだ寝ている。
8:00 朝食。トースターでパンを焼く。
9:00 昨日器部分を作った陶器の高台を作りに行く。
陶芸室にはまだ誰もいない。私たちは昨日制作したものを取り出して来て乾燥の具合を見る。底についている余分な土をけずり、へらで傷をつけてそこにドベを塗り、しっかりと高台を作り付ける。器も彫刻と一緒。地面からの立ち上げ部分の高台は全体感に影響する。しばらくして入所者山本さんがいらっしゃった。相変わらず川島をベタほめ。調子に乗った川島は「陶芸っておもしろいですね。」とのたまう。とんでもない。陶の仕事の中で「つくり」はほんの部分だ。土づくりからつくり、窯入れ、素焼き、施釉、本焼き、窯だし…。どれも大変な作業である。

黙々とけずりの作業

黙々とけずりの作業

私は昨日に加えて、祭祀に使うような造形の器をいくつか制作した。大島のざっくりとした土味に触発されたかたちだ。あっという間にお昼になる。
12:00 3人でサンドイッチを作る。トマトとアボカドとハム、チーズをはさんでほおばる。うまいっ。
13:00 食後は福祉室に行き、第二面会人宿泊所と15寮の鍵を借りる。第二面宿は現在ほとんど使われていない。経年変化が随所に見られるものの、部屋は清潔感があって、まだまだ現役といった趣である。私たちはここをカフェとして活用しようと考えている。綿密に写真で記録に撮り、どのように使って行くかイメージを膨らませる。
14:30 15寮に向かう。住んでいた入所者の方々が亡くなられたり、病棟や不自由者棟などに移り、使われなくなった居住者棟だ。こうした使われなくなった建物は大島ではすぐに取り壊される。私たちはそこに「待った」をかけた格好である。5人の方が暮らしていた15寮は長屋づくりで部屋の間取りはすべて統一されている。荷物がそのまま部屋に残っているので、部屋にあがると生々しい息づかいが強く訴えかけてくる。ここを私たちはギャラリースペースとして活用したいと考えている。「ハンセン病問題に関する基本法」が今年4月から施行され、ハンセン病療養所の有効活用がうたわれているが、大島は離島であるために、流用したり、他の地域と連携することが難しい。役割を見出せないものはすぐに取り壊し廃棄せざるをえない。私たちの提案は離島にある療養所の将来に可能性をひらくかもしれないと期待されている。
さて、取材後は北の山の方に行く。蜘蛛の巣がひどく多い。1mおきにあるといっても過言ではない。輪をかけて蚊にも悩まされる。海を眺めていると、不思議な感覚だ。潮が流れているのが見てとれるのだ。直線的でない川のようにも感じる。小さな無人島がそこかしこにちりばめられていて美しい。山から俯瞰するとまるで神が気まぐれに粘土細工を瀬戸内海に配置したかのようだ。ぐるりと一週すると日は落ちて来ていた。

私が刻んだネギ。見よ、このグラデーション。

私が刻んだネギ。見よ、このグラデーション。

面会人宿泊所にもどり、3人でうどんを作る。ネギをきざんでおき、冷凍麺をゆでる。どんぶりにつけたと同時に卵とネギ、つゆをかけてよくかき混ぜる。お好みで天かすやエビの天ぷらをトッピング。最高にうまいっ。
食後は今日のリサーチ内容とメモをテーブルの上に持ち出して来て、来年の瀬戸内国際芸術祭会期中のビジョンを描いてみる。泉は採集して来た草花で早速制作を始める。
昨日の雨と打って変わって今日は晴天。3人で夜の海を見に行く。東側の海岸に立つと向こう岸に高松の町並みがのぞめる。きらきらと輝く街の灯りは遠いような近いような。まるで向こう岸が異次元のように感じる。海のうねりは実にこわい。寄せては返す波とは異なり、穏やかだけれど、うねりの中に底知れぬ悲しさ、怒りを持っているかのように感じるのだ。ぐいと引っ張り込まれるかのような錯覚をおぼえる。1:00 お風呂のあと就寝。

第二面会人宿泊所

第二面会人宿泊所

15寮。寮のつくりは昔と変わっていないと言う。

15寮。寮のつくりは昔と変わっていないと言う。