Nobuyuki Takahashi’s blog

2009年 10月 16日のアーカイブ

曾祖父

2009年 10月 16日

私の父方は名古屋市内の農家だった。父は三菱重工の工場の安全管理の仕事を勤め上げ、12年前退職。
母は私が生まれてから書道の師範をとり、書道教室を自宅で始めた。私は2歳から母の膝の上に座り、筆を走らせていた。母方は今はもうつぶれてしまったが、名古屋市内で昔ながらの酒屋を経営していた。その前の代をたどると三重県四日市。親戚をたぐると田舎の醸造元に行き着く。私のルーツをたどれるのはそこまでだ。
その四日市で曾祖父、つまりわたしのひいおじいさんは出口對石という無名の画家だった。私の兄が生まれて間もなくの頃、曾祖父に会ったらしいが、私が生まれる頃には曾祖父は他界していた。
地元では親しまれた画家で、けっして有名ではなかったが、曾祖父の絵を大事に所蔵しておられる方が今も四日市に何人かみえるそうだ。多くは戦災で焼けて灰になってしまった。
母は曾祖父が大好きだった。幼き頃曾祖父の膝の上によく座っていたという。10年ほど前のこと、母が一枚のぼろぼろの水墨画を出して来て私に渡した。「これを裏打ちして部屋に飾りなさい。」
その絵はすぐに職人さんに頼んで裏打ちした。それを、私は飾りもしないで大切にしまいこんでいた。
ずっとずっとこの絵の事が気になっていた。しまいこんでいる間に慧地が生まれ、美朝が生まれて来た。
昨日、この絵を久しぶりに取り出し、アクリルの額に入れて我が家の壁面に飾った。私の奥さんが「この絵、ハニーが描いた絵みたい。」(※ハニーとは私の家族内での愛称)と言う。確かにこの絵を眺めていると、懐かしいような、くすぐったいような気持ちが湧いてくる。
この絵は曾祖父が全国にある芭蕉塚をたずねて歩き、スケッチして来たうちの一枚である。曾祖父も旅が好きだったようだ。絵が売れるとそのお金で芸者さんを呼び、親しい人と宴の席を設けたというエピソードを聞いた。
今日、じっとこの絵を見ていたら、ふと別の一枚の絵を思い出す。
私が10歳をむかえる時、母から誕生日プレゼントの希望をたずねられた。私は灯台の油絵がほしい、と答えた。灯台の絵は私の母の知人で日曜画家の田中さんが描いてくれた。現地に行って海風にあたりながらその絵を、一生懸命描いてくれた。そう、驚くべきことにその灯台の絵と曾祖父の絵の構図がとてもよく似ているのだ。
こどもたちは日々暮らしながら、この絵を見ている。少なくともわたしの息子と娘は、ルーツを私の曾祖父までたどれるわけだ。よく考えてみたら、これはとても感慨深い事である。
話は大島に移る。ハンセン病を患い、家族からも地域からも引き離されて、強制的に収容された入所者の皆さんは、ルーツをたどることもできない。私のように曾祖父の形見に触れる事なんてできやしなかった。私は入所者の方々をたずねて廻り、「古いもの、捨てられないもの、大切なもの」を記録に撮る作業を始めたが、皆さんの生い立ちを聞けば聞くほどその難しさを感じている。
曾祖父が描いた一枚の絵。それが私たち家族に与えている力は、想像以上に大きい。一度も会った事がないけれど、私は一枚の絵を介して毎日曾祖父に会える。