Nobuyuki Takahashi’s blog

2009年 10月 30日のアーカイブ

大島 全うするということ

2009年 10月 30日

カフェの内装イメージのモデルになった電車

カフェの内装イメージのモデルになった電車

7:15 名古屋駅で川島、泉と待ち合わせる。予定通り7:30発ののぞみに乗り込む。
岡山を経由してマリンライナーに乗り、10:30には高松に着く。現地は晴天、瀬戸内ではからっと晴れた日はあまり巡り会わない。この地方独特の薄くもやのかかった空気は島々をシルエットに変え、とても趣がある。
スーパーで明日の食材を買い、桟橋に向かう。
11:10 官用船まつかぜに乗り、大島へ。青松園稲田事務長に挨拶に行き、宿泊する面会人宿泊所に荷物を置きに行く。
納骨堂でお線香を上げるとすでにお昼だ。職員食堂に行くが、施設職員でごったがえしていて、おばちゃんは余裕がない様子。少し時間をおいてから来ることにする。
13:00 猛スピードで食事を済ませ、入所者自治会の会議室に行くと、入所者の皆さん、事務サイドの職員さんがすでに集まっている。さっそく企画検討会を始める。
11月に行う予定の「名人講座」は入所者が講師となって様々な講座を開き、大島の文化に触れる機会をつくる企画である。東京のシブヤ大学が定期的に行っている「ツーリズム」は私たちの計画している名人講座とコンセプトが重なるもので、多くの講座をこれまでに開いて来た。当初は6月に行う予定であった大島での「ツーリズム」はインフルエンザの流行で取りやめになったが、その後企画を復活させたい、との話がもちあがった。私たちの取り組みもその間に進み、瀬戸内国際芸術祭のキックオフ・イベントも行われ、瀬戸内では如実に機運が高まっている。そうした進みつつある状況を考慮して、今回はイニシアチブをシブヤ大学から地元である高松に本拠地を構えたNPOアーキペラゴが中心を移し、「ツーリズム」を行う。ツーリズムの確認をしたあと、今後の芸術祭までのスケジュール、行っていく作業について説明する。私たちが大島に整備しようとしている、カフェとギャラリーは「大島が表現する」ことに深く関わるものであり、大島とその外の世界とのつながりを創り出していく「つながりの家」構想の根幹を成している。だからこそ、カフェもギャラリーも大島にある施設をそのまま活用し、入所者の皆さんが立ち寄れるようなものにしなければならない。問題点を話し合い、現場での検討も進めていく。
会議の後、入所者自治会会長の森さんとカフェに整備する予定の第二面会人宿泊所とギャラリーにする予定の15寮を視察。問題点の洗い出しは現場で話し合うとてきぱきと進むものだ。

一人一人に合わせて作られる義足

一人一人に合わせて作られる義足

リハビリテーションの施設内に陶芸室がある。そこで大島焼のワークショップを行っているが、そのすぐとなりの部屋で入所者ひとり一人に合わせて義足やスプーンのステーなど、入所者の生活に欠かせない雑多な道具を製作している工房がある。私はギャラリーから大島の生活を表現する展示を考えていたので、何か重要なヒントが取材できるのでは、とわくわくする。職員さんが目の前で見事に入所者用のスプーンを製作する。入所者のほとんどが、末梢神経が麻痺しており、手先は硬く縮んでしまっている。ペンを持つのさえ、困難な方も少なくない。そうした人々が無理なく食事を口に運べるように工夫するには技術と経験、そして試行錯誤を繰り返してより良いものを創り出していく情熱が必要だ。私はこの工房で作られて来たさまざまな器具類を展示することに心を決めた。職員さんに展示の協力をあおぎ、工房を後にする。
面会人宿泊所に戻る。今回の大島行きには取材をしている記者さんが同行している。その記者さんが事前にアポイントをとっていた入所者のお二人にお話をうかがうと聞き、私たちも同席させていただくことにした。
17:00 入所者お二方が面会人宿泊所にみえる。お1人は盲人会に所属する方で、介護職員の手に引かれてきた。
お酒と乾きものや練りものなどのおつまみを持参していただいたので、さっそくビールで乾杯。インタビューというよりは宴会だ。そこでお二人にたくさんのお話をうかがったので、その一部を紹介したい。
入所者Aさんも例に漏れず、差別と偏見の目にさらされながら、大変苦労された。そのお話の中で、私が印象に残ったのはAさんのおばあさまの言葉だった。「ぜったい自分で死を選んじゃだめだ。寿命は全うしなさい。悲惨な人生でもきっと一度は良いことがあるんだ。もし、おまえが自殺したら、その後も生きていくものたちはそれを背負って生きていかねばならない。何の解決にもならない。だから、どんなに辛くても苦しくても生きなさい。」Aさんはこの言葉を胸に、ずっとずっと生きて来た。生き抜いて来たのだ。

不自由者棟の傍らで満開の花は昨年も見た。

不自由者棟の傍らで満開の花は昨年も見た。

Aさんのこのエピソードには認識しておかなければならないことがある。ハンセン病は昔はライ病と呼ばれていた。ライ病は顔や手足などの容姿を大きく変えてしまうという点において、人々に忌み嫌われることになった。前世に悪いことをした、その業を背負う「業病」と世間では認識されていたのだ。そこには宗教の力も加わっている。Aさんのおばあさまの言葉には当時血縁者が背負わなければならない業病としてのライ病のイメージが見え隠れしている。
Bさんは盲人会の会長。ハンセン病によって失明した。Bさんはどんなに辛いことも、戦時中、戦後の悲惨な暮らしに比べれば、それほどでもない、とおっしゃる。入所者は高齢化が進み、今後の施設の運営、職員の配置など、島で最後まで過ごしたい皆さんにとって不安の材料はたくさんある。加えて、入所者全員が体験して来た、差別と偏見、過酷な療養所生活があっただけに、その不安は想像を絶するものだ。そうした不安の中でもBさんは今後起きることのすべて受け入れる覚悟ができていると言う。
Aさんはおっしゃる。「苦労しなさい。苦労した人は、人の痛みがわかる。だからやさしくなれる。」底知れぬ重みのなかに光が差すようなやさしい語りかけにただただ聞き入る。
お二人にやさしい美術プロジェクトが進めていく「つながりの家」構想を説明する。すると、お二人とも「100年続いて来た大島青松園が始めて経験するイベントです。高齢化が進む入所者にとって、最後のチャンスかもしれない。私たちのできることは協力します。」とご支援の言葉をいただいた。この取り組みにあたって私に不安がないわけではない、迷いもたくさんある。毎日毎日自分に問いかける日々。そこで、受けたお二人の言葉はどれだけの力になることか。背中をぐいと押されたような気がした。
19:00 職員食堂に行く。のれんをくぐったとたんにおばちゃんに叱られる。「遅いよ。来ないかと思ったでしょ。あんたたちに食べさせるものは何もないよ。」でも、文句言いながらもご飯を作ってくれた。ちょっぴり怖いけど、ほんとはやさしいんだ。ふぐの肝のお吸い物が出て来た。「あんたたちのために作っといたんだよ。」曽我野さんから酒をつがれる。「飲まないのか、飲まないなら帰れ。」高知出身の男はなんとも男気があって、やっぱりちょっと怖い。でも、私は全く嫌な気がしない。たぶん、こんなにごつい爺さんに会うのは一生のうちでそう何回もあるもんじゃない。
ほろ酔い気分で面会人宿泊所に戻る。
23:00 就寝

目の前で製作を実演する職員さん。

目の前で製作を実演する職員さん。

完成した入所者用のフォーク

完成した入所者用のフォーク