Nobuyuki Takahashi’s blog

2009年 12月 5日のアーカイブ

アートミーツケア学会 初日

2009年 12月 5日

アートミーツケア学会の総会に行く。
今日12月5日(土)、6日(日)の二日間で講演、プレゼンテーション、分科会、ディスカッションなどが行われる。ベタなコンテンポラリーアートとは少し毛色の違う研究領域がここにある。私は2年前の学会が始まったばかりの頃、実践報告をした。ちょうどその時に同じように実践報告をした慶応義塾大学の研究者たちが今回の総会をバックアップしている。

学会会場となった慶応義塾大学東門

学会会場となった慶応義塾大学東門

13:00 品川まで新幹線、田町でJRを降りて慶応義塾大学へ。メイン会場となるのは慶応大の東門の6階。その他慶応大が進めている近隣のコミュニティースペース3つが分科会、ワークショップの会場となっている。
会場に着くと、事務局の森下さんに久しぶりに会う。「いつもレポート見せてもらってますよ。」続いて森口ゆたかさんにも会う。大阪でホスピタルアートを最初に紹介したアーティストとしてその名を知られている。全く奇遇だ、ホスピタルアートを関東圏で紹介した林容子さんにもばったり。昨年に開催したシンポジウムで基調講演をお願いしたアートマネージメントの専門家だ。
13:30 写真家石内都さんの基調講演が始まる。お母さんのやけどの傷跡、遺品の下着や衣服を撮った「Mother’s」はあまりにも有名。ベネツィアビエンナーレにも出品している、日本を代表する写真家の一人だ。
自身の作品を紹介しながら、生まれ育った横須賀の街、6畳間ばかりを撮ったアパートのシリーズ、40歳の女性の手と足を撮影したシリーズ、そしてMother’s…。対象は時代とともに推移しながらも一貫して記憶、負の場所、通り過ぎて見過ごすことのできない何か、を撮り続けている。その系譜は臭い立つような石内さんの体臭さえ感じる。そしてご本人も話していたが、石内さんが女性であることも密接に関係している。写真を撮り、様々な事象と向き合うことで自らの女性性に気づいていったと言う。
石内さんは現在「広島」をテーマに仕事をしているそうだ。その撮影の様子も紹介された。私も大島を中心に写真を撮っているが、石内さんの話のなかで参考になる言葉、共感する言葉があったので紹介しておきたい。「写真はすべてが写っているわけではない。その人が切り取り、見たものが写っている。」「写真は主観的にしか撮ることができない。」「いかに記録としないか。創作する、イメージする記憶を私は撮りたい。」

分科会会場となった「芝の家」

分科会会場となった「芝の家」

15:45 石内さんの講演が終わり、分科会に分かれてワークショップやディスカッションが行われる。私は慶応大が運営する「芝の家」に行くことにした。
外に出るとびっくり、雨が相当降っている。足早に芝の家に行く。歩いて10分弱だろうか、大学からほど近い場所、住宅が並ぶ路地の一角に芝の家はある。
本分科会は、大学が積極的に社会活動やコミュニティーに参加している取組みについてディスカッションするという内容。先生だけでなく学生がプレゼンテーション、ディスカッションするとのこと、我がプロジェクトのことを想起して親しみを感じる。宇都宮大学、大正大学、そして慶応義塾大学でそれぞれ取組んでいる内容は私たちのように医療や福祉にダイレクトに関わるものではなく、様々なスタンスでコミュニティーの一員となって子どもたちやお年寄りと関わっていくものだった。宇都宮大学はカフェを日替わりで運営する「ソノヨコ」「ソノツギ」。毎日全く異なるカフェが現れるなんて、かなりユニーク。大正大学は「大正さろん」という学外にコミュニティースペースを置いた試みだ。慶応義塾大学、芝の家は地域再発見事業として港区と包括協定をむすび、運営しているコミュニティースペースである。ここでは慶応義塾大学の芝の家をとりあげたい。大学からごく近いということもあり学生スタッフが常駐し、子どもたちの遊び場の提供、縁側などをつくり、昭和30年代の近所付き合いを再現している。コミュニティー喫茶、親子向けワークショップ、コミュニティーイベント、環境整備などを隙間なく行っていて、手堅い。

「芝の家」で行われたディスカッションに学生も加わる。

「芝の家」で行われたディスカッションに学生も加わる。

それぞれのプレゼンテーションの後に担当教員、学生の実践メンバーがパネリストとなってディスカッションが始まった。学生が話したことで、私たちの活動にも響くものがあったのでここで紹介しておく。
「「家」を運営することで、友達とも、家族とも違う安心できる横のつながりを得た。」
「「家」は昭和をイメージして懐かしい雰囲気を出しているけれど、それだけでなく個人の記憶とは異なる、人が脈々と受け継いで来た感覚なのでは。」
「「家」の運営を通して、他者への許容が広がった。個が具体的にイメージできるようになった。」
共通した悩みも噴出した。つぎに紹介する言葉はやさ美のメンバーもうなずくに違いない。
「自発的に、自主的にやっていくことがむずかしい。活動をしている本人たちは充実感を感じているけれど、それがまわりに伝わらない。」
「モチベーションを維持することが難しい。」
「継続、リクルーティングが難しい。」
「問題を共有していかに興味を持ってもらうか。そこがないと人が離れていってしまう時代。」
こんな議論もあった。
「表現と義務は違う。表現は自分が結果をひきうけて「うれしい」と感じる。義務はやらなければならないことで達成しなくてはならないこと。」
なるほど。この区別が学生にはなかなかできない。「表現」は気ままな制作になってしまい、「義務」は出席票と単位取得一辺倒になりがちだ。優先順位でどちらかを削らなければならないときもある。では、大学とは義務だけを学生に要求する存在??私はそうは思わない!
オーディエンス側からするどい質問も投げかけられた。
「活動している本人たちの満足度はわかる。ではそれらの成果を客観的に知る数値的データ、評価はどうなるか?」といった質問だ。
これは簡単に解決できる問題ではない。なぜなら、すべて現場で起きていて、そこに居る人が感じていることであり、具体的な数値に置き換えられないからだ。私たちやさしい美術もこれに悩んだ。むしろ、私たちの場合、医療=サイエンスとの関わりだから悩みはさらに深い。存在理由に関わることなのだ。今回壇上にあがった取組みは持続するモデルを作ることにいずれも苦労している。だから、資金についてもほとんど大学が負担して大学の責任において行っている。やさしい美術プロジェクトはさらに差し迫った問題として、存在価値にまで言及されることが容易に想像できるため、私なりに対策をとって、アンケート調査を外部有識者の協力を仰いで進めて来た。そうした中で、慶応義塾大の取組みは行政と連携した好例であり、裏を返せば、成果をわかりやすく第三者に渡す責任が生じていて、それはそれで大変だと想像する。なかなか悩ましい現実だが、1ついえるのは良い、悪い、必要、要らないといった議論ではなくて、どのように必要で、どのように感じられているかを丁寧にひも解いていくことが問われる局面になっているということだ。この問題については持ち帰って考えることにする。