Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 3月のアーカイブ

足助 今年度最終の研究会

2010年 3月 12日

午前中に作品「reliance」の取り付け金具を固定する。
11:00 レンタカーを借りに行く。
12:00 プロジェクトルームにメンバー集合。今回の足助行きには名市大の大学院生岡庭さんが同行する。岡庭さんは先日の活動報告会で評価委員を務めた鈴木賢一先生の研究室に師事して、実践研究を重ねている。やさしい美術の活動に興味を持ち、特にメンバー工藤が制作した「カーテンプラン」を観たいと希望があり、今回の同行にいたった。
13:30 研究会の会場となる食堂に荷物を置き、川島と古川が作品のメンテナンスに出かける。私は岡庭さんを連れて院内を見学。内科処置室での古川の作品メンテナンス作業を見せる。光を透過する絵画シリーズ3作目は日光の透け具合、透過しながら見せる色彩の設定、輪郭の処理による絵画空間の際立ち、すべてにおいてレベルアップしている。本人も手応えを感じているに違いない。
14:30 研究会開始。今年度の作品を振り返るとともに今後の研究会のあり方、運営方法、作品案の検討方法などを話し合った。うれしかったのは学生メンバーの確実な成長である。発表がうまくなり、書類も熟れてきて研究会でも余裕が感じられるようになった。私は極力口も手も出さないで、学生に研究会を進行させてきた。時間はかかるけれど、忍耐もいるけれど、学生自身が実感し、手応えを感じることが先決だ。
もう一つうれしかったのは研究会に参加している看護師さんらが「これからは病院からも場所や要望を提案しようと思います。」という声があったこと。「病室での患者さんインタビューはたのしみにしている方もおられます。是非続けていきましょう。」といううれしいお言葉もあった。
足助病院での活動は丸8年である。継続して開拓できたことは数数えきれない。信頼感と目的意識の共有の賜物である。
足助病院は数年後に新しい建物に生まれ変わるとのこと。私には新しいやさしい美術の運営方法の構想がある。より病院利用者に近いところで実践するアート・デザインの活動になるだろう。
前に、前に、一歩一歩進もう。

作品「ユートピアの木」をメンテナンスする現リーダーと旧リーダー

大島焼ワークショップ6日目 ノルマ達成

2010年 3月 11日

8:00 野村ハウスで朝食。すっかり陶芸部とやさしい美術混成メンバーは疑似家族化している。井木、泉とも料理がうまい。野村さんの育てた野菜をふんだんに使ったサンドイッチは最高。スープもおいしかったよ!
9:00 陶芸室で作業開始。制作しなければならないノルマ達成まであと少し。こえび隊の皆さんには午後からカフェ・シヨルの方を手伝ってもらうことにする。
12:30 野村ハウスで昼食。今日はあたたかい日だ。窓を開け放って食事をしているとお隣の棟に住む入所者安長さんがひょっこりと顔を出してくれる。快活な方で、いつもほろ酔いの安長さん。しばらくして入所者の野村さんが縁側から声をかけられる。「たくさんいるのぅ。もう一部屋空けようか。」とおっしゃる。ここ11寮「野村ハウス」は野村さんのご好意でお借りしている。その気持ちだけでもありがたいのに、いつも私たちのことを気にかけてくださる。泉から聞いた話。野村さんが「前の畑の大根食べるといいじゃろ。」とおっしゃったので、泉は畑に行き、お言葉に甘えて大根を引き抜こうと思ったその時、大根が抜きやすいように一度抜いてから再度土に差し込んであることに気がついた。女性の力では大変だと思い、さりげなく抜きやすいようにしておいてくれたのだ。なんてやさしいのだろう。
13:30 こえび隊の皆さんを納骨堂に案内し、風の舞を参拝。そこで山の中で撮影している脇林さんと会う。脇林さんと談笑しながら西の浜へ出る。私たちはここでビーチコーミング。カフェの壁面を装飾するシーグラスや貝殻を拾う。
15:30 ビーチコーミングを終わらせて陶芸室に行くとほぼカフェで使う食器類の制作が完成していた。今後は素焼きをし、釉薬をかけて本焼成する。
16:00 青松園職員の大澤さんが見送りに来てくれる、が、なんと高松便の船の時間が変更になっていて乗り遅れたことが判明。次の庵治便に乗り合わせて帰ることになった。
井木のみ大島に残留。13日までこえび隊の皆さんとカフェの壁面装飾、漆喰塗りに取り組む。
私たちは庵治港に着き、45分ほどバスに揺られる。
高松でこえび隊のお二方と別れる。「また大島に行きます。」この言葉が何よりもうれしい。
19:10 マリンライナーに乗り一路名古屋に向かう。

ビーチコーミングは楽しい

大島焼ワークショップ5日目 とんぼがえり

2010年 3月 10日

大島にとんぼがえり。
岡山に新幹線が入って行くとちらほらと雪が残っているのが見える。ホームに出ると、名古屋よりも格段に寒い。高松でも急な冷え込みで人々はまた冬の装いに逆戻りである。
食料を購入し11:00 まつかぜに乗船。まつかぜから降りてきた、陶芸部の伊藤、川田と会う。川田は今日名古屋へ帰る。おつかれさま!伊藤は息抜きに高松散策に出かける。泉と関野は昨日9日にすでに大島を後にしている。いれかわりで大島チーム井木が大島焼週間中の大島滞在をまかなっている。

たおやかなフォルムで私の作ったマグはすぐわかる

11:20 大島に着くとすぐさま陶芸室に向かう。陶芸室では井木と天野、こえび隊のお三方が制作中。こえび隊のお1人は岡山にある長島愛生園のボランティア「ゆいの会」のメンバーで、今回はこえび隊としてお手伝いに来ていただいている。こうした気持ちを持った方がいることで私たちもそしてこの活動も支えられていく。私も一度愛生園を訪れたことがあるが、現在橋がかかったとは言え、岡山から遠く、交通の便も良いとは言えない。大島青松園とも海を介して、深い交友関係にあるが、最近は入所者の高齢化で交流も廃れていると聞く。前回に大島へ訪問した折に亡くなられたある入所者の遺品である、木彫りの彫刻十数体をお預かりしている。一説によれば、長島愛生園の木彫のクラブで制作されたものだという。また愛生園にも行ってみたい。
コーヒーカップ、大皿、小皿は完成している。カップとカフェオレボウルだけでも軽く100個を越えている。今日は少し難易度の高い胴深なアイスコーヒー用のマグカップを制作する。
12:30 職員食堂セイブで昼食。おばちゃんにひさしぶりのごあいさつ。
食後はひたすら制作。
16:00 こえび隊の皆さんは高松へ帰る。陶芸室は暖房がとても効いていてあたたかいが外はすこぶる寒い。寒い中大島まで足を運んでいただけて、本当にありがたい。

愛の深さ?を感じる…

19:00 今日の仕事を終わらせて野村ハウスに戻ると甘辛いかおりが風に乗ってくる。井木が肉うどんを作ってくれていた。ものすんごい大盛り。あまりなくいただく。
21:00 野村ハウスには井木、伊藤、天野が宿泊。私はカフェ・シヨル(第二面会人宿泊所)に行く。
23:00 盲導鈴は鳴っていない。日中の大島しか知らない人にはない体験だ。ここ、カフェ・シヨルのすぐ傍らにある大きな松の木をくぐり抜ける強い風が松葉を揺らす。私は外に出て録音機を持ち寒さに耐えながら松のざわめきを記録する。ヘッドフォンを通して聞こえてくる音場を目を瞑って聞き入る。
なぜだろう、涙がとまらなかった。

足助研究会準備

2010年 3月 9日

教授会、アトリエ、研究室の引っ越しなどに追われる。しばらくプロジェクトルームを空けていたので、スタッフやコアメンバーと打ち合わせる。
学生、スタッフが帰ったあと、2003年に設置した林治徳制作の「reliance」を修理する。固定方法が稚拙でこのままでは作品のコンディションが悪くなるばかり。過去の固定部をすべて取り外して本体にダボを打ち込み頑丈なベニヤ板に固定する。
3月12日に足助病院研究会がある。今年度締めくくりの研究会だ。それまでになんとか修理を終わらせて、病院に再展示したい。

ダボの打ち込み作業

大島焼ワークショップ 3日目

2010年 3月 8日

関わる手、手、手

大島焼の制作ペースがつかめてきた3日目、こえび隊のサポートに2度目あるいは3度目の大島の方も増えてきた。「また大島に来たい。」と思っていただくのが私たちはうれしいし、入所者の皆さんにとってもうれしいことだ。たとえ効率が良くなくても、できるかぎり多くの人の手、それも心のこもった手が関わることがこの大島での取り組み「つながりの家」構想の大切なところだ。
陶芸室の4人は役割がうまく連携している。彼女らの話では陶芸部では各々が好きな時に好きなだけ制作しているそうで、今回のように期間限定、制作数(ノルマ)が決まっていて合宿のように泊まり込んでの製作経験は初めて。1日の製作数も自己記録を更新していると言う。波に乗ったという感じだ。こえび隊の皆さんへの製作指導もなかなかうまい。ポイントを確実に伝えて、自由な発想の部分を残してのびのびと製作してもらう。
泉がお昼前によもぎ餅をもらってきた。昔は入所者が臼と杵でお餅をついていたそうだが、入所者の皆さんご高齢となり、餅つき器にかえた。ちなみに杵でついた最後の日はたった1人野村さんが参加したそう

最後のよもぎ餅

だ。そのよもぎ餅、今日が最後なのだ。お餅を準備していた世話人である職員さんが退職を機に終止符を打つとのこと。泉は最後のお餅を大事に私たちに持ってきてくれた。私たちはこれからも受け継がれてきた大島での習慣が断たれていく場面に何度も立ち会うことになるだろう。私たちが期間限定でそれを復活させることもあるだろう。一つひとつしっかりと私たちの記憶に焼き付けていこう。
野村さんが陶芸室にぶらりと見にきた。カフェで使うカップが量産されているのを見て「わしはお酒が飲みたい。」とおっしゃった。もちろん冗談なのだが、私は野村さん専用の徳利とおちょこをつくることにする。陶芸部の関野に「先生のつくっている手はやさしいですね。」と褒められて、ちょっぴりうれしい。
16:00 私は明日の教授会、やさしい美術の業務のため一旦大島を後にする。陶芸部には泉がついているし、入所者の皆さんとも仲良くなったので安心だ。
16:15 官用船せいしょうに乗って高松へ。
21:30 帰宅

一つひとつ形が違う、カフェ・シヨルのカップたち

野村さんのためにつくった酒器

食べなさい、と野村さんからキャベツをわけていただいた

大島焼ワークショップ2日目

2010年 3月 7日

8:00 野村ハウス(11寮)に集合。朝食だ。プロセスチーズと大島柑橘のピールを混ぜたものをパンにつけて食べる。これが香りがたって美味。かんきつ祭(2月7日に実施した、大島で育てられた柑橘類フルーツを収穫してカフェのメニューとなるジャムやピールをつくるワークショップ)の試食会で入所者の皆さんにお墨付きをもらっている。天気は昨日と変わらずさえないが、食事でモチベーションアップ。9:00 北の畑に行く。畑名人の大智さんが畑を耕している。入所者の大智さんは今年2月から自治会副会長で会長の山本さんを支えている。ここのところオフィス仕事が多く、大好きな畑仕事ができないでいた。やはり土と格闘している大智さんはいきいきとしている。かっこいい。
9:30 高松から来たこえび隊の皆さんを桟橋でお出迎え。「こえび隊」と一括りにするのは失礼かもしれない。せっかく大島に来てくれたのだから、ひょっとしたらまた大島に来てくれるのならできる限りお名前を覚えるよう努めようと思う。
陶芸室に行き、昨日試験的に製作したカップを見て、驚く。乾燥して口縁が白くなりはじめている。乾燥が驚くほど早い。カップには適度なかたさに乾燥したところに取っ手をつけなければならない。昨日製作したカップは大きいものが多かったので、すでに乾燥が進んでしまったものは取っ手のつかないカフェオレボールにする。
土味、粘り、乾燥の早さがつかめたので、今日の作業は手際よく進むだろう。ハイペースで製作は進む。
昼食も泉が美味しいランチをつくってくれた。大島焼チームの大きな力になる。
13:00 私は脇林さん宅でお会いする約束があるので、脇林さんの住む通称センター(不自由者棟)に行く。脇林さんは部屋を広く片付けて、部屋の隅に発見された古い写真をパネルにしたものをずらりと並べていた。私だけでなく、今回大島に来た学生たちにも見せたかったのかもしれない。脇林さんは大島に来てすでに60年を過ぎている。しかし並んでいる写真の中には戦時中、戦前の脇林さんが知らない大島を写したものもある。戦時中の管理棟(事務室)の写真を見てすぐに目にとまるのは鉄条網である。大人ののど元ぐらいの高さであろう、その囲いはハンセン病患者である入所者とそれを管理、治療する職員を隔てるものである。不可視の心の壁をイメージする現代、これは、まさに見えない心の壁、制度の壁である。ぎゅんと胸がしめつけられる。次に目に入ってきたのは豚舎が写った写真だ。入所者の方々から「昔は豚を飼っとった。」「豚に残飯を食わせた。」「盆と正月は豚肉が食べれるのでたのしみじゃった。」「すき焼きで豚を食べた。」というお話をいくつも聞いた。木造の立派な豚舎が当時の活気を物語っている。小豆島から買い付けに来る人もいたという。「高橋さん、この豚舎、どこにあったと思いますか。今の「風の舞」のところですよ!」「えーっ。」そうか、あの平地は豚を飼っていた名残だったとは。
脇林さんはめったに自分のことを話さない方だ。いつもは世相の見方、世界について、作品論を2時間でも3時間でも語り合っている。不思議だが、生々しい古い写真を前に脇林さんはご自分のことを話し始めた。
機械に強い脇林さんは戦時中工場で戦闘機の部品などをつくる工員だった。そのころからお腹のあたりに斑紋があらわれ、それはハンセン病の発症の前兆だった。戦後すぐにお姉さんとその子どもたちの世話をしていた。お姉さんの旦那さんは戦死して、食べるのもおぼつかないほど大変な生活だった。そのころ脇林さんはハンセン病の症状が悪化していた。手足全体に発症し、当時の書物で自分はハンセン病(当時はらい病と呼ばれるのが一般的だった)だと判った。
脇林さんの手は曲がってしまい、指もほとんどないぐらいに縮んでしまっている。四肢にはまったく熱い、痛いといった感覚がない。末梢神経がまひしているのだ。夏にはその四肢を補うように頭、顔、胸、背中に浴びるほどの汗をかく。その脇林さんが毎日写真を撮るため、山に入る。けがも絶えない。脇林さんの曲がった手は自然を愛し、働き者で、過酷な時間をくぐってきた手だ。私はその手を見るたびに尊敬の念が深まっていく。
脇林さんは社会復帰を目指したこともある。大島では電気機器などの修理から事務の仕事まで、なんでも器用にこなし、職員にも呼ばれて洗濯機を直しにいったこともあるほど活動的だった。脇林さんは東京の映像関係の専門学校に入学。学校では誰も脇林さんの不自由な手について質問する人はいなかった。脇林さんは「東京のような都会ならなんとかやっていけるかもしれん。」と思ったそうだ。学校を卒業するも、やはり手足の不自由さが足枷になって仕事は思うように見つからない。東京で毎日のように通った食堂のおばちゃんが、最後に脇林さんの手足について訊ねた。脇林さんはとっさに言葉がでなかった。東京で脇林さんが身上について訊ねられたのはこの一回のみである。他人に干渉しない都会の心の壁を見る思いがした。
私は一番大島に近い、高松や庵治の人々が大島をどのように見てきたかを知りたかった。思い切って脇林さんに訊ねてみた。「高松の人は大島のことを良く知っている。ハンセンの人間を見て、大島さん、とよくわかっていた。」脇林さんが大島で暮らしていくことを決定づけたのは高松だったそうだ。ある日高松で部品を購入したのち昼食をとろうと食堂で順番を待っていると「お前の来るところじゃない。」と追い出された。これには相当堪えた。2回目に追い出された時、「もうダメだ。もう私は大島の外では暮らさない。」と心に決めた。(※50年以上前のお話であり、現在は入所者の皆さんが高松に出てもこのようなことはありません。)
私は大島の古い写真に囲まれながら、脇林さんを介して大島で暮らしてきた人々の叫びを聞く思いがした。
脇林さんはけっして差別をした人々を悪く言うことはない。「被害者は同時に加害者である。」とおっしゃる。「ハンセン病に罹患した人々がもし、逆の立場であったら、差別をしなかったと誰が言えようか…。」脇林さんは自分の胸に手をおいて問い続けた。「根本的に解決していないのです。人間は数千年も前から同じことをずっと繰り返してきたんだと思います。」
古い写真に話を戻そう。これらの古い写真には背景に必ずといってよいほど松の木が入っている。松の木は大島の営みをずっと見つめ続けてきた。亡くなれば火葬の薪に使われる。1人の人を火葬するのに28巻薪が必要だったそうだ。私は脇林さんの写真、古い写真、井木のドローイング、森さんと野村さんの盆栽で「松展」を企画している。脇林さんからは早々と出品作品のデータをいただいている。
14:30 陶芸室に戻るとあっという間に器が増えている。この調子でいけば、目標の個数はクリヤーできそうだ。
18:30 作業を終える。私もいくつかカフェオーレボウルとカップを製作する。
野村ハウスに戻るといいにおいが風に乗ってくる。泉が鶏肉のトマトソース煮をつくってくれたのだ。柔らかな鶏肉は肉が苦手な人も難なく食べられるだろう。
21:00 私はカフェ・シヨル(第二面会人宿泊所)に戻り、お風呂に行く。
1:30 就寝。

大島焼ワークショップ初日

2010年 3月 6日

予定は半年前に立てていたものの、あっという間にこの日を迎える事になった。9月に大島の土を掘り、精製して大島土をつくった。今度はその土を使って陶器をつくる。
「大島焼ワークショップ週間」と名付けて、約一週間、大島焼をつくりまくる。もちろんそれらの陶器は瀬戸内国際芸術祭会期中に運営する「カフェ・シヨル」で使う食器類だ。学内の陶芸部に声をかけ、4名の精鋭で大島焼チームを編成。ろくろを使用せず、ひも作りと玉つくり、たたらによる手間も時間もかかる方法で製作する。
7:15 名古屋駅新幹線口に集合。陶芸部の川田、伊藤、関野、天野 そしてやさしい美術大島メンバーの高橋、泉6名で高松に向けて出発。
10:25 高松着。お昼のお弁当、自炊用の食料、朝のパンを手分けして買い出しに行く。
11:00 まつかぜに乗船。2つのテレビ局取材のクルー、こえび隊の皆さんが3名同行する。
11:20 大島着。桟橋で入所者脇林さんが待っていてくれた。見せたい写真があるのだと言う。脇林さんが前日に撮影した写真をプリントアウトして持ってきてくれていた。
かつて島の小学生が「大島案内ひきうけ会社」を結成し、大島を訪れる人々を案内していた。まず、大島に入り説明するのは「墓標の松」。源平の合戦で流れ着き亡くなった武者を松の根元に葬り人骨と刀剣が出土している、と説明を繰り返してきたが、実物を見た人も在処も知っている人はいない。脇林さんはその在処を突き止め、その全貌を写真に撮ったのだ。一目であごの骨、頭骨の一部、歯が確認できる。刀剣は錆び付いた鉄片となっているが、おぼろげながらその成りを想像することができる。古い写真もどんどん見つかっているようだ。後日脇林さんと写真について相談する事になった。
荷物を野村ハウス(11寮)に置く。昼食を「カフェ・シヨル」(第二面会人宿泊所)で摂り、昼からの労働に備える。昼食後、全員で納骨堂に行く。挨拶は欠かせない。
陶芸室に行くと入所者の山本さんがやってきた。総勢9名のにぎやかな顔ぶれを見て山本さんもうれしそうだ。使う土、道具類を確認して早速作業にとりかかる。
一番手間のかかる取っ手付きのカップの制作にまずとりかかる。サイズを確認し合い、まずは個々で制作してみる事にした。形は不揃いの方がかえって手作りのあたたかみがあり、カップの選択も楽しさの一つとなる。
ぐいぐいと手早い作業。あっという間に20個を越えるカップを手びねりで製作する。土の厚さ、高台について相談しながら、より効率の良い作業工程に改善していく。この一週間で150〜160点もの器を完成せねばならない。1日の目標を立てて、確実に実行しなければ遂行できないだろう。
17:30 旅の疲れもあり、作業を終了する。

「野村ハウス」の名前は入所者の間でも知れ渡っている!

18:30 野村ハウスに行き、夕食。泉が食事を準備してくれた。だし汁で食べるうどん。野村さんの畑にある水菜を拝借してメニューの一品に加える。質素だけれど、最高においしい。
陶芸部の4名は大島に来るのが初めて。その初めての環境で陶芸の作業をして、宿泊する。疲れないはずはない。どこからともなく陶芸部員から「ここ、落ち着きますね。」との声が聞かれる。さあ、これから数日、疑似家族状態が始まる。同じ屋根の下で同じ釜の飯を食う。何においても一緒に食事をすることは大切。コミュニケーションは食から始まると言っても良い。
あ、この感じ。何かに似ている。そう、昨年の越後妻有アートトリエンナーレに参加し、空き家活用プログラム「やさしい家」で滞在した日々を思い出した。
9:00 お風呂に入りに行く。大島ではそれぞれの住まいにお風呂はない。不思議に思うが、100年の大島の歴史の名残でもある。共同風呂一つで大島の入所者の暮らしが成り立っているのだ。また、私たちが自然にお風呂を使う事もとても大切だ。熊本のアイレディース宮殿黒川温泉ホテルが元ハンセン病患者である人々の宿泊を拒否した事件は記憶に新しい。日本に巣食う偏見と差別が露呈され、その事件をきっかけに入所者の皆さんは全国から心ないファックスや手紙を送りつけられ深く傷つけられた。陶芸部の4名にもハンセン病問題を理解してもらうため話した。
せっかく私たちは大島の生活の場を使わせていただいているのだから、できる限り「シャワーが付いているから使うといい。」という入所者の皆さんのお言葉に甘えてありがたく使わせていただくべきだ。
私以外は野村ハウスに戻る。私は「カフェ・シヨル」(第二面会人宿泊所)に戻り、寝袋にもぐり込む。

一冊の本をつくる

2010年 3月 5日

今日は研究室、アトリエの引っ越し作業、大島青松園との連絡調整、デザインの間プロジェクト企画ミーティング、そして報告書最終校正など目白押しだ。学内は卒展が終わり、教員は一番大学にいない季節だ。やさしい美術のプロジェクトルームだけはいつもと変わらず活気がある。報告会の原稿作成、研究会の準備、病院への連絡業務、ヤサビのイト編集作業で学生が入れ替わり立ち替わりやってくる。私はこの空気感が好きだ。この勢いを止めたくない。
17:00 印刷所の担当者とスタッフ井口が最後の原稿チェックをする。私も最後まで念入りにチェックする。
19:00 最終入稿を終える。
一冊の本をつくる。特に今回は文字情報が多いため、校正作業は難航した。一般的にどのように読むことができるのか。初めてやさしい美術の報告書を開いた人がやさしい美術プロジェクトの空気感が感じ取れる本でなければならない。そこ一点に集中して制作してきたつもりだ。スタッフ井口と達成感を味わいつつも反省会。私たちだけではない。職員村田、小牧スタッフ泉は勤務を終えた後時間をつくって校正作業を手伝ってくれた。関係者からの寄稿や協力、スタッフ井口、赤塚、佐々木の連日の徹夜作業でここまでこぎつけた。まさに入魂の一冊となるはずだ。
今日は残りの仕事を自宅で進めるとして早めに大学を出て帰路へ。
21:30 帰宅。明日から大島に行くので子どもたちが起きている間に自宅に着きたかった。子どもたちがお風呂からタオル一枚にくるまって出てくる。食後に絵本の朗読をせがまれる。子どもたちの顔を見ながらじらすのだけれど、実はうれしいリクエスト。情感たっぷりに一冊読み切る。子どもたちを膝の上に乗せて至福の一時。

小牧市民病院 モビールプラネット再び

2010年 3月 4日

9:30 すでにアトリエ、研究室の引っ越し作業が始まっている。業者の段取り、荷物の扱い、見事だ。親方はまだ若い青年だがなかなかしっかりしている。いくつか荷物の指示をのこし、今日の小牧市民病院への搬入準備に取りかかる。
10:30 荷物をスタッフ泉の車に積み込み大学を出発。今回搬入する作品の作者であるスタッフ井口が徹夜で病院に合わせた配色の新作を制作してプロジェクトルームに届けてくれた。間に合ってよかった。
11:00 小牧市民病院に到着。メンバー川島と待ち合わせる。
病棟4階に行きデイルームに作品、道具、脚立を持ち込む。デイルームには入院している病院利用者のご家族が休んでいたり、時には手術後の痛々しい姿で点滴棒片手の方も見受ける。そうした動いている病院の日常に乗り込んで行き作品を設置する、これがやさしい美術プロジェクトの搬入だ。
まず、現場をしっかりと把握する。今回の作品は天井付近にワイヤーを通し、そこにモビールを結わえて行くプランだ。基礎となるワイヤーをどこを基点に張るか。線的に配置する当初の予定を変更し、空間に広がりを持たせる配置プランに変更する。ワイヤーを掛ける場所も吟味しなければならない。離脱して落ちてくるということになれば紙でできたモビールなれど、けがをする人がでるかもしれない。絶対離脱しないという確信が持てる部位を見つけられるかがポイントとなる。
ワイヤーをバランスよく張り終えたところで昼食。
昼食後は休憩を一度もとらず、作業に没頭する。

モビールプラネット設置作業

今回のモビールは2人の作者の共演である。先述した井口とデザイナーの溝田さん。2人の制作したプロトタイプのモビールはやさしい家の企画展で発表した。日本家屋である「やさしい家」ではハイトーンの配色が木の天井に良く映えた。しかし、病院内に合わせると以外にもビビッドな配色でかつコントラストの高いものが惹きたつ。現場に持って来なければけっして判断できないことであり、こうした予定調和が壊れていくのが現場設置の醍醐味でもある。
中心となるモビールを配置していき、その周囲を引き立てるようにほかのモビールを配置していく。道行く病院利用者の方々から「あら、きれい。」「すてきなアイデアですね。」と声をかけられる。私たちの作業の様子をじっと見守っている人もいる。幾度となく立ち会ってきた搬入設置の場面だが、こうした反応をいただけるのは本当にうれしい。毎回新鮮だ。
14:00 小児科病棟処置室、外来の装飾を今年手がけている、森さんが小牧市民病院に到着。看板屋さんのお仕事に都合をつけて来ていただいた。
15:00 モビールの大枠の配置が見えてくる。「やさしい家」での展示に近い印象になりそうだ。
16:00 小児科外来の展示する時間になり、森さんとスタッフ泉が作品を持参して向かう。
私と川島はひたすらモビールの設置に精を出す。

処置室浮遊感いっぱいになった

17:30 外来の展示作業を無事終わらせて今度は病棟の処置室天井に作品を設置する。森さんが制作した絵本の登場人物が色とりどりの紙飛行機に乗って処置室の空間を飛び回る。なんともゆかいな世界だ。処置室は子どもたちが恐れる場所。「怖くて恐ろしい場所」を「来て得した場所」にかえる。
内科処置室とデイルームの設置作業が同時並行で進む。メンバー川島には空間設置の作品を制作する上でのポイントを伝えていく。立体や空間を造形していくにはまずフットワークが必要だ。とにかく足を使って様々な角度から作品を見つめるよう川島に指示する。
18:30 デイルーム展示、処置室の展示が完了する。通行する病院利用者から励ましの言葉や作品の感想をいただく。本当にうれしい。
20:00 4階病棟の設置を終え、破損した作品の再設置、新たに作品の出品をお願いしたayakoさんの消しゴム版画による多色作品の設置に向かう。
ayakoさんの作品設置を試みたが、ワイヤー金具の不備や設置方法の問題が起きて、次回の設置作業の宿題とする。
20:30 小牧市民病院を出発。本学にもどる。

やさしいっぽい

2010年 3月 3日

「やばいっぽいものはいらない」という日記を以前書いた。やさしい美術プロジェクトはもちろん、「やさしいっぽいもの」を目指しているのではない。「やさしい」という言葉はとても耳ざわりが良いが、「やさしい」ということを深く追求していくと、それは一体どういうことか、全く一言では語り尽くせるものではないと気付く。まず、「やさしい」ということがあるのではなく人と人が交わる瞬間、関わりの場に表れる一瞬の輝きのようなもの、かもしれない。うまく言えないが、表面的な「やさしい感じ」ではないのだ。パステルカラーに依存したり、真綿で全てをくるむようなこととは異なる、いのちを持つものが一瞬見せる全体感、と言ったら良いか…。
私は「やさしい美術」というジャンルを作りたいのではない。ある時、ある場所に接する時の体の芯から発火するような衝動を、私は大切にして行きたい。