Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 3月 6日のアーカイブ

大島焼ワークショップ初日

2010年 3月 6日

予定は半年前に立てていたものの、あっという間にこの日を迎える事になった。9月に大島の土を掘り、精製して大島土をつくった。今度はその土を使って陶器をつくる。
「大島焼ワークショップ週間」と名付けて、約一週間、大島焼をつくりまくる。もちろんそれらの陶器は瀬戸内国際芸術祭会期中に運営する「カフェ・シヨル」で使う食器類だ。学内の陶芸部に声をかけ、4名の精鋭で大島焼チームを編成。ろくろを使用せず、ひも作りと玉つくり、たたらによる手間も時間もかかる方法で製作する。
7:15 名古屋駅新幹線口に集合。陶芸部の川田、伊藤、関野、天野 そしてやさしい美術大島メンバーの高橋、泉6名で高松に向けて出発。
10:25 高松着。お昼のお弁当、自炊用の食料、朝のパンを手分けして買い出しに行く。
11:00 まつかぜに乗船。2つのテレビ局取材のクルー、こえび隊の皆さんが3名同行する。
11:20 大島着。桟橋で入所者脇林さんが待っていてくれた。見せたい写真があるのだと言う。脇林さんが前日に撮影した写真をプリントアウトして持ってきてくれていた。
かつて島の小学生が「大島案内ひきうけ会社」を結成し、大島を訪れる人々を案内していた。まず、大島に入り説明するのは「墓標の松」。源平の合戦で流れ着き亡くなった武者を松の根元に葬り人骨と刀剣が出土している、と説明を繰り返してきたが、実物を見た人も在処も知っている人はいない。脇林さんはその在処を突き止め、その全貌を写真に撮ったのだ。一目であごの骨、頭骨の一部、歯が確認できる。刀剣は錆び付いた鉄片となっているが、おぼろげながらその成りを想像することができる。古い写真もどんどん見つかっているようだ。後日脇林さんと写真について相談する事になった。
荷物を野村ハウス(11寮)に置く。昼食を「カフェ・シヨル」(第二面会人宿泊所)で摂り、昼からの労働に備える。昼食後、全員で納骨堂に行く。挨拶は欠かせない。
陶芸室に行くと入所者の山本さんがやってきた。総勢9名のにぎやかな顔ぶれを見て山本さんもうれしそうだ。使う土、道具類を確認して早速作業にとりかかる。
一番手間のかかる取っ手付きのカップの制作にまずとりかかる。サイズを確認し合い、まずは個々で制作してみる事にした。形は不揃いの方がかえって手作りのあたたかみがあり、カップの選択も楽しさの一つとなる。
ぐいぐいと手早い作業。あっという間に20個を越えるカップを手びねりで製作する。土の厚さ、高台について相談しながら、より効率の良い作業工程に改善していく。この一週間で150〜160点もの器を完成せねばならない。1日の目標を立てて、確実に実行しなければ遂行できないだろう。
17:30 旅の疲れもあり、作業を終了する。

「野村ハウス」の名前は入所者の間でも知れ渡っている!

18:30 野村ハウスに行き、夕食。泉が食事を準備してくれた。だし汁で食べるうどん。野村さんの畑にある水菜を拝借してメニューの一品に加える。質素だけれど、最高においしい。
陶芸部の4名は大島に来るのが初めて。その初めての環境で陶芸の作業をして、宿泊する。疲れないはずはない。どこからともなく陶芸部員から「ここ、落ち着きますね。」との声が聞かれる。さあ、これから数日、疑似家族状態が始まる。同じ屋根の下で同じ釜の飯を食う。何においても一緒に食事をすることは大切。コミュニケーションは食から始まると言っても良い。
あ、この感じ。何かに似ている。そう、昨年の越後妻有アートトリエンナーレに参加し、空き家活用プログラム「やさしい家」で滞在した日々を思い出した。
9:00 お風呂に入りに行く。大島ではそれぞれの住まいにお風呂はない。不思議に思うが、100年の大島の歴史の名残でもある。共同風呂一つで大島の入所者の暮らしが成り立っているのだ。また、私たちが自然にお風呂を使う事もとても大切だ。熊本のアイレディース宮殿黒川温泉ホテルが元ハンセン病患者である人々の宿泊を拒否した事件は記憶に新しい。日本に巣食う偏見と差別が露呈され、その事件をきっかけに入所者の皆さんは全国から心ないファックスや手紙を送りつけられ深く傷つけられた。陶芸部の4名にもハンセン病問題を理解してもらうため話した。
せっかく私たちは大島の生活の場を使わせていただいているのだから、できる限り「シャワーが付いているから使うといい。」という入所者の皆さんのお言葉に甘えてありがたく使わせていただくべきだ。
私以外は野村ハウスに戻る。私は「カフェ・シヨル」(第二面会人宿泊所)に戻り、寝袋にもぐり込む。