Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 3月 7日のアーカイブ

大島焼ワークショップ2日目

2010年 3月 7日

8:00 野村ハウス(11寮)に集合。朝食だ。プロセスチーズと大島柑橘のピールを混ぜたものをパンにつけて食べる。これが香りがたって美味。かんきつ祭(2月7日に実施した、大島で育てられた柑橘類フルーツを収穫してカフェのメニューとなるジャムやピールをつくるワークショップ)の試食会で入所者の皆さんにお墨付きをもらっている。天気は昨日と変わらずさえないが、食事でモチベーションアップ。9:00 北の畑に行く。畑名人の大智さんが畑を耕している。入所者の大智さんは今年2月から自治会副会長で会長の山本さんを支えている。ここのところオフィス仕事が多く、大好きな畑仕事ができないでいた。やはり土と格闘している大智さんはいきいきとしている。かっこいい。
9:30 高松から来たこえび隊の皆さんを桟橋でお出迎え。「こえび隊」と一括りにするのは失礼かもしれない。せっかく大島に来てくれたのだから、ひょっとしたらまた大島に来てくれるのならできる限りお名前を覚えるよう努めようと思う。
陶芸室に行き、昨日試験的に製作したカップを見て、驚く。乾燥して口縁が白くなりはじめている。乾燥が驚くほど早い。カップには適度なかたさに乾燥したところに取っ手をつけなければならない。昨日製作したカップは大きいものが多かったので、すでに乾燥が進んでしまったものは取っ手のつかないカフェオレボールにする。
土味、粘り、乾燥の早さがつかめたので、今日の作業は手際よく進むだろう。ハイペースで製作は進む。
昼食も泉が美味しいランチをつくってくれた。大島焼チームの大きな力になる。
13:00 私は脇林さん宅でお会いする約束があるので、脇林さんの住む通称センター(不自由者棟)に行く。脇林さんは部屋を広く片付けて、部屋の隅に発見された古い写真をパネルにしたものをずらりと並べていた。私だけでなく、今回大島に来た学生たちにも見せたかったのかもしれない。脇林さんは大島に来てすでに60年を過ぎている。しかし並んでいる写真の中には戦時中、戦前の脇林さんが知らない大島を写したものもある。戦時中の管理棟(事務室)の写真を見てすぐに目にとまるのは鉄条網である。大人ののど元ぐらいの高さであろう、その囲いはハンセン病患者である入所者とそれを管理、治療する職員を隔てるものである。不可視の心の壁をイメージする現代、これは、まさに見えない心の壁、制度の壁である。ぎゅんと胸がしめつけられる。次に目に入ってきたのは豚舎が写った写真だ。入所者の方々から「昔は豚を飼っとった。」「豚に残飯を食わせた。」「盆と正月は豚肉が食べれるのでたのしみじゃった。」「すき焼きで豚を食べた。」というお話をいくつも聞いた。木造の立派な豚舎が当時の活気を物語っている。小豆島から買い付けに来る人もいたという。「高橋さん、この豚舎、どこにあったと思いますか。今の「風の舞」のところですよ!」「えーっ。」そうか、あの平地は豚を飼っていた名残だったとは。
脇林さんはめったに自分のことを話さない方だ。いつもは世相の見方、世界について、作品論を2時間でも3時間でも語り合っている。不思議だが、生々しい古い写真を前に脇林さんはご自分のことを話し始めた。
機械に強い脇林さんは戦時中工場で戦闘機の部品などをつくる工員だった。そのころからお腹のあたりに斑紋があらわれ、それはハンセン病の発症の前兆だった。戦後すぐにお姉さんとその子どもたちの世話をしていた。お姉さんの旦那さんは戦死して、食べるのもおぼつかないほど大変な生活だった。そのころ脇林さんはハンセン病の症状が悪化していた。手足全体に発症し、当時の書物で自分はハンセン病(当時はらい病と呼ばれるのが一般的だった)だと判った。
脇林さんの手は曲がってしまい、指もほとんどないぐらいに縮んでしまっている。四肢にはまったく熱い、痛いといった感覚がない。末梢神経がまひしているのだ。夏にはその四肢を補うように頭、顔、胸、背中に浴びるほどの汗をかく。その脇林さんが毎日写真を撮るため、山に入る。けがも絶えない。脇林さんの曲がった手は自然を愛し、働き者で、過酷な時間をくぐってきた手だ。私はその手を見るたびに尊敬の念が深まっていく。
脇林さんは社会復帰を目指したこともある。大島では電気機器などの修理から事務の仕事まで、なんでも器用にこなし、職員にも呼ばれて洗濯機を直しにいったこともあるほど活動的だった。脇林さんは東京の映像関係の専門学校に入学。学校では誰も脇林さんの不自由な手について質問する人はいなかった。脇林さんは「東京のような都会ならなんとかやっていけるかもしれん。」と思ったそうだ。学校を卒業するも、やはり手足の不自由さが足枷になって仕事は思うように見つからない。東京で毎日のように通った食堂のおばちゃんが、最後に脇林さんの手足について訊ねた。脇林さんはとっさに言葉がでなかった。東京で脇林さんが身上について訊ねられたのはこの一回のみである。他人に干渉しない都会の心の壁を見る思いがした。
私は一番大島に近い、高松や庵治の人々が大島をどのように見てきたかを知りたかった。思い切って脇林さんに訊ねてみた。「高松の人は大島のことを良く知っている。ハンセンの人間を見て、大島さん、とよくわかっていた。」脇林さんが大島で暮らしていくことを決定づけたのは高松だったそうだ。ある日高松で部品を購入したのち昼食をとろうと食堂で順番を待っていると「お前の来るところじゃない。」と追い出された。これには相当堪えた。2回目に追い出された時、「もうダメだ。もう私は大島の外では暮らさない。」と心に決めた。(※50年以上前のお話であり、現在は入所者の皆さんが高松に出てもこのようなことはありません。)
私は大島の古い写真に囲まれながら、脇林さんを介して大島で暮らしてきた人々の叫びを聞く思いがした。
脇林さんはけっして差別をした人々を悪く言うことはない。「被害者は同時に加害者である。」とおっしゃる。「ハンセン病に罹患した人々がもし、逆の立場であったら、差別をしなかったと誰が言えようか…。」脇林さんは自分の胸に手をおいて問い続けた。「根本的に解決していないのです。人間は数千年も前から同じことをずっと繰り返してきたんだと思います。」
古い写真に話を戻そう。これらの古い写真には背景に必ずといってよいほど松の木が入っている。松の木は大島の営みをずっと見つめ続けてきた。亡くなれば火葬の薪に使われる。1人の人を火葬するのに28巻薪が必要だったそうだ。私は脇林さんの写真、古い写真、井木のドローイング、森さんと野村さんの盆栽で「松展」を企画している。脇林さんからは早々と出品作品のデータをいただいている。
14:30 陶芸室に戻るとあっという間に器が増えている。この調子でいけば、目標の個数はクリヤーできそうだ。
18:30 作業を終える。私もいくつかカフェオーレボウルとカップを製作する。
野村ハウスに戻るといいにおいが風に乗ってくる。泉が鶏肉のトマトソース煮をつくってくれたのだ。柔らかな鶏肉は肉が苦手な人も難なく食べられるだろう。
21:00 私はカフェ・シヨル(第二面会人宿泊所)に戻り、お風呂に行く。
1:30 就寝。