Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 5月 14日のアーカイブ

大島 第2回定例検討会

2010年 5月 14日

20:30まで大学で仕事。21:45に帰宅して夕食。22:20に自宅を出発。なかなか慌ただしい。
23:00 卒業生でやさしい美術メンバーの天野と夜行バスに乗り込む。
6:30 高松着。ごひいきのパン屋さんが開いていたのでそこのカフェにて朝食をとる。
官用船の始発に乗り込むために桟橋近くのポートビル待合所で時間をつぶす。カメラを分解して軽くお掃除。昨夜の慌ただしさがうそのようにゆったりと時間が流れる。
9:05 官用船せいしょうに乗船。快晴のうえにべた凪、言うことなしだ。
9:30 大島に着く。桟橋で作業着姿の泉と井木が待っていてくれている。こえび隊のお二方がせいしょう丸から降りてくる。まず、カフェ・シヨル(第二面会人宿泊所)に行き、荷物を置く。こえび隊はボランティア精神で成り立っている。ボランティア精神とは「自らできることを率先してやる」ということ。その意味ではやさしい美術プロジェクトである私たちも同地平で仕事をする。協働という言葉がぴったりだ。一緒に汗をかくと、汗をかいただけ信頼関係が深まる。これは、ほんとうだ。大島での取り組みはこのように準備段階から大島に暮らす入所者の皆さんとの絆、ともに働くボランティアの人々との連帯感を深めていく。全員で納骨堂を参拝し、風の舞に行く。大島で暮らしてきた方達とのごあいさつだ。
カフェ・シヨルの漆喰壁の装飾は終盤を迎えている。あとはトイレを残すのみだ。漆喰を練るもの、塗るもの、漂着物で装飾するものに分担して作業を進めていく。
12:00 お昼になり、野村ハウスで昼食。こえび隊の皆さんとお話しする。「瀬戸内国際芸術祭があり、大島の取り組みがあった。だから大島に来られた。ハンセン病についても興味を持つことができた。」「大島の存在は知っていたけれど、行く機会がなかった。次も行ってみたい場所になった。」との声。とってもうれしい。入所者がここで話を聞いていたらきっと喜んでくれただろう。先日のハンセン病市民学会に参加してきたというお話もあった。大島に来たことによって興味が深まり、自らの問題として捉える人々が増えている。
13:00 昼食後も作業に没頭。
私は一人時間をいただいて、入所者の西内さんのお宅に行く。
青松園職員の大澤さんが清掃作業中にゴミ捨て場で見つけた紙の束。それは
放送劇の台本だった。出演者の名前を辿り、私と大澤さんは発見した台本を持って西内さんのもとを訪れた。西内さんは「放送劇ならテープをとってあるよ。」おっしゃり、タンスの奥からカセットテープ16本と1本のビデオテープを取り出した。なんと言う偶然、なんという幸運。使わなくなったものはすべて廃棄する大島には今もかろうじてこのような遺物が埋もれているのだ。
さて、話は長くなってしまったが、このカセットテープとビデオテープのデジタライズを無事に終え、今日テープの持ち主である西内さんにお返しした。お礼に名古屋のお菓子を包んでいった。お部屋に通していただき少しばかり放送劇の経緯をうかがった。放送劇同好会は介護士、看護士、入所者の集まりで結成された。昭和57年もしくは58年のことである。当時西内さんは北の一般寮で暮らしていたそうだ。つまり、介護士の手を借りず、自活していたから介護士さんとは全く接点がなかったのだという。
さらに昭和30年代、20年代まで遡ると、青松園職員と入所者との間には明らかに大きな溝があった。職員寮のある南の山で花見(当時は桜はなく、山ツツジで花見をしていた)をする時はわざわざ伝馬船で海伝いに山に行ったそうだ。入所者は職員の領域を通ることを許されなかったのだ。「有毒線」といって鉄条網で区切られていた時代もあった。それほどまでに心の溝は深かった。この放送劇のように入所者と職員の混成で1つのものを作り上げていくというのは、その見えない溝を埋めることでもあった。職員の金重さんが脚本を選び、入所者の森川さん(森川さんは大島に存在した歌舞伎座の俳優でもあった)が中心となって演技をつけた。過去のことを払拭し突破口を開いていく職員さんの存在はとても大きい。
私は放送劇をすべて完聴した。時代劇、現代劇、色恋あり、アクションあり、笑いあり、涙あり…。出勤時の車の中で放送劇を耳にし、感動のあまり私は何度も涙を流した。地層の狭間に見つけた玉のような輝き。「放送劇は全部聴きました。うれしくてたまりませんでした。」と西内さんにお話しすると、西内さんはうっすらと涙を浮かべて「ありがとう。そんなふうに聴いてもらえてうれしいわ。」とおっしゃった。「もう一度、放送劇を大島で流しませんか。盲人の皆さんにもよろこんでもらえると思います。」
14:00 西内さんに放送劇の放送の了解を得て、カフェ・シヨルに戻る。
14:30 香川県庁の宮本さん、今瀧さん、こえび隊代表甘利さん、AFGの高坂さん、原さん、アーティストの田島さんとで入所者自治会会議室に行く。まもなく青松園福祉室室長、副室長、官用船船長、副園長、看護婦長らが集まり定例検討会を始める。議論の中心は大島をどのように外部に開いていくか。前向きな検討が続く。
16:00 定例検討会終了。
すぐさまカフェ・シヨルに寄るが、誰もいない。そうだ、井木たちは庵治第二小学校に行き、小学校の机や椅子をカフェに貸し出してもらえないか交渉に行っているのだ。高松便最終の官用船出航の時間に井木たちが桟橋に戻ってくる。高松に帰るこえび隊の皆さんを見送り、その後は脇林さん宅に行く。脇林さんは大島の写真家で、対象は大島の人、自然、暮らし、諸々全てだ。脇林さんにGALLERY15で展示する写真作品の出品を依頼し、額装を含め作品は完成している。大きなものでA2、主にA3にプリントした作品約20点あまりを受け取りにいく。脇林さんは最近膝を痛めたそうだ。入所者の多くは強制労働により重い後遺症に悩まされている。脇林さんは膝の手術をしているが、義足の方も少なくない。脇林さんは大島の山に入り撮影するのが日課。はやく良くなるといいのだけれど。
18:00 久しぶりに職員食堂に行く。野村ハウス(11寮)で寝泊まりするこのごろは少し足が遠のいていた。常連の入所者曽我野さん、めずらしく入所者の大野さんも一杯やっている。曽我野さんが私たちの席に入ってきて、一升瓶で酒をつがれる。
予科練時代に発病し、大島に強制収容されて62年。62年である。零戦パイロットだった曽我野さんはハンセン病に罹患しなければ靖国神社に入っていた運命だ。「よかったのか、わるかったのかー。」
私は小原村に住んでいた頃村の寄り合いに出たときに、ある方から仲間が皆沖縄で命を絶った、という話を聞いた。「あと一日でも戦争が続いていたら、死んでいた。」私は失礼かどうかもわからずその方に思い切って聞いてみた。「生きていてよかったですか。」
その方も曽我野さんと同じ返答だった。「良かったのか悪かったのか。」
曽我野さんはハンセン病国家賠償訴訟で全国原告団協議会会長を務めた方だ。教科書にも載っている人である。当時の小泉首相に控訴断念を迫り、勝訴した話はあまりにも有名だ。その時の様子を生々しくお話しいただいた。
小泉首相とお話ししたのは15分ほど。首相官邸を出て10分ほどして曽我野さんの携帯電話がなる。”たった今政府は控訴しないと発表がありました!!”曽我野さんは人目をはばからず「万歳」を連呼し飛び上がったという。
21:30 職員食堂を出る。
大島の夜は更けてゆく。