Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 5月 30日のアーカイブ

大島 勉強会ー古い写真ー

2010年 5月 30日

6:00 となりの女子部屋がにぎやかだ。かなり早くから今日の勉強会のためにクッキーを焼いている。
7:30 朝食。張と天野が用意してくれた。井木と泉はカフェでのクッキーづくりに追われているようだ。先に失礼して朝食を済ます。
8:00 カフェ・シヨル(第二面会人宿泊所)に行き、簡単に掃除を済ませる。
9:30 勉強会参加者が桟橋に着き、AFG高坂さんに連れられて一行がカフェにやってくる。やさしい美術の5名を含め21名の参加。瀬戸内国際芸術祭で大島に一般来場者を招き、大島を全身で感じていただくためにガイドツアーを行う。カフェの専属スタッフとし食材の仕込みから接客までを行う。やさしい美術プロジェクト大島での取り組み{つながりの家}は周辺地域の人々の協力なしでは実現しない。大島が外の世界とつながっていくためのしくみは立派な建物や最新式の設備ではなく、ソフト、つまり人々の「やれることから着実にやっていこう。」という気持ちが交わり重なり合うことが前提なのだ。「大島ファンクラブの集いへようこそ!」と私が最初に皆さんに呼びかけたのはまんざら冗談でもないのである。

納骨堂の前で野村さんの話を聞く

カフェ・シヨルに荷物を置き、納骨堂へ行く。お線香をあげ、全員で手を合わせているとふと入所者野村さんがやってきた。「納骨堂を開けるかね。」とおっしゃい、私に納骨堂の鍵を渡された。私は鍵を開け、納骨堂の扉を開ける。勉強会参加者全員息をのむ。ここにおさめられているお骨は昭和11年から亡くなられた方たちのものだ。「戦時中の年代を見なさい。たくさんの方が亡くなられとるじゃろ。」一同固唾をのんで見つめる。圧倒的な現実感。戦時中の厳しい時期は一日に5人も6人も亡くなったそうだ。棺桶の木材が足らず、一枚おきに張り付け、隙間からご遺体が見えたそうだ。あまりにも過酷な暮らし。出口のない苦しみ。私たちは今、大島で生き抜き、最後の時を迎えた人々と対面している。八角柱の堂内それぞれの面にガラス張りのケースに鎮座するお骨…。ぐるりと目を渡すと、入り口近くの最後の面だけがぽっかりと空いている。「ここが残っているわしらの入るところじゃ。」野村さんの声が重く響く。
その後、「風の舞」へ。庵治の石工とボランティアによって建てられた魂のモニュメント。ここに火葬された方の残骨が埋葬されている。ここから眺める瀬戸内海は美しい。まるで自分の庭のように近く感じられる多島海の眺め。
カフェに戻り、やさしい美術プロジェクトの活動についてレクチャーする。今年3月に発行した「やさしい美術プロジェクト活動報告書平成19年度ー21年度」を勉強会参加者に配布し、これまでの沿革と活動の根幹が見渡せるよう解説する。やさしい美術が行ってきた主に病院で行ってきた取り組みはこの大島での取り組みにつながるものだ。大島は病院ではない。逆に言えば私たちやさしい美術は「病院アート」というジャンルの括りではなく、取り組みの場に医療福祉施設を選んだという話なのだ。人と関わることはその人のバックグラウンドになる地域と関わることになる。病院も人全体と関わると意識した時に、病院〜地域に開く〜という発想が出てきたのだろう。昨年の越後妻有アートトリエンナーレで取り組んだ十日町病院とやさしい家。空き家活用プログラム「やさしい家」は{つながりの家}に着実に受け継がれている。
12:00 勉強会参加者は各々持参したお弁当などで昼食をとる。私はメンバーがつくってくれたうどんをいただく。食べている間も質問がどんどん舞い込んでくる。積極性が感じられて大島ファンクラブ会長としてはこの上ない喜び。
12:30 入所者の脇林さん宅に行く。脇林さんが収集を続ける古い写真をお借りするためだ。午後は何名かの入所者にお願いしてお話を聞く機会を設けている。お話を伺う際に大島にかろうじて残っている古い写真を見ながら記憶を鮮明にし、大島の生活者として語っていただこうと思ったのだ。すさまじい写真パネルの数だ。カフェ中央に並べた長机に並べてみたが、隙間なく置いてもとても並びきらない。

古い写真を見ながらお話を聞く

13:00 入所者の山本さん、脇林さん、野村さん、森さんがカフェにやってくる。施設見学に出ようとも考えたが、むしろゆっくりと歓談したほうが交流が深まる。勉強会参加者も質問する時間がとれてよいのではと判断し、カフェ・シヨルのみでの勉強会となった。写真とは過去の時間を切り取るものだ。入所者が忘れかけていたことが写真を介して鮮明に蘇ってくる。古い写真に写っていた無機質な建物が解剖室だとわかったのは、森さんが昔の地図を持ってきて写真と照らし合わせたからである。「入所者は自分が死んだ時に解剖してください、という承諾書に無理矢理判を押させられた。」という話も出てきた。ハンセン病療養施設は解剖天国と言われるほど、ずさんな解剖が行われていたそうだ。入所者が人間として扱われなかった事実を示すエピソードだ。野村さんらが入所したころは入所者が700名を越え、看護士ら医療従事者は20名に満たなかったと聞く。症状の比較的軽い患者が病棟に泊まり込み、昼夜問わず5名ほどの重篤な患者の面倒を看ていたという。療養所という名の収容所である。
山本さんは療養所の生活がようやく落ち着き、ケアがしっかりと施されるようになったころ、自分の生きがいが掴めない苦しみ、これが地獄のような苦しみだったとおっしゃる。仕事をして社会の役に立とうにも後遺症が重く何もできない。社会復帰を考えるには歳をとりすぎた。ただ、時間だけが目前に横たわっている。何をやっても「どうせ、何にもならん。」という自暴自棄に陥る。そんな時に陶芸と出会った。自分の技術、心の揺れがそのまま土に現れ、自分にはね返ってくる。それが心地よかった。その「向き合い」の時間を持つことで山本さんは次第に平静さを取り戻していった。表現の原点とは何かを考えさせられるお話だ。

大島焼のカップでいただくお茶は格別だ

仕上がったばかりの大島焼のカップでお茶をいただきながら、泉、井木が焼いたクッキーを食す。辛口の山本さんが「このカップ、かたちは良くないけど、飲み口がいい。口当たりが良いな。」とさりげなくお褒めの一言が響く。円座になって食べる。これが最高のコミュニケーションだ。
16:00 入所者と交流しながらのお話は尽きないが、ここで時間切れ。総まとめとして入所者の皆さんから瀬戸内国際芸術祭に対する期待の言葉で締めくくる。「大島のことを多くの人に知ってもらいたい。皆で大島のことを考えてもらいたい。」
大島ファンになる第一歩は大島で起きていることは自分の問題だと感じること。自分を救済するために大島に踏み込んでいく。語弊があるかもしれないが、「大島のことを、入所者のことを自分のこととして捉える」のである。
16:30 全員でせいしょうに乗り込む。勉強会には初めて大島を訪れたこえび隊もいた。どのように大島のことが伝わったのだろうか。割り切れない気持ちを抱いてもう一度大島を訪れてほしい。気にかかる何かから興味が生まれるのだ。
17:30 駐車場に停めておいたレンタカーに乗り、高松を出発。
終電終バスに乗ることができる時間帯に名古屋には着けない。今回のそれぞれのメンバーの自宅近くまで送り届けながら今回の大島行きは幕を閉じる。
0:30 私の自宅前に着く。泉、井木が豊田までレンタカーを戻してくれる。気をつけて帰ってね。