Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 9月 5日のアーカイブ

感謝の日

2010年 9月 5日

9月5日(日)
6:00 起床。無風で湿気もある。昨日に続き猛暑だと想像がつく。
昨日こえび隊の小坂くんがギャラリーを見たいのだけれど、いつ開いているかわからない、という入所者の声があると聞き、試しに7:00にオープンし18:00にクローズすることにする。脇林さんの写真はがきはテイクフリーにしているが、人気があって自作のラックからは残りわずかになっている。補充するはがきにGALLERY15と{つながりの家}ロゴのスタンプを押す。
あっという間に朝一便の船が着く時間になる。
9:25 桟橋に出迎えに行く。9月に入っても客足はゆるまない。10:30便で帰る組とそれ以降の船に乗る組で別れてガイドツアーを行う。
私はギャラリーに戻って解剖台周囲の草抜きをする。ほどなくしてガイドの来場者の皆さんがやってくる。いつものように説明をするが、解剖台に関しては短い解説では誤解を生む可能性があるので、時間の関係上極力簡潔に説明しつつも、質問に答えられるところは答えるように努力している。
とにかく暑い。暑いという言葉しか浮かばない。ギャラリー前は40度近くになっていると思う。汗が全く乾かない。インドに旅行したときを思い出す。40度を越える猛暑だった。
来場者の皆さんから質問が飛び交う中、午後のワークショップの準備を進める。今日のワークショップは名人講座「大島の松を撮ろう」だ。講師は入所者の脇林清さん。リスペクトする私の先生。
脇林さんの作品をピックアップし、古い大島の写真、解剖台の写真などを台車に乗せてワークショップ会場の自治会会議室に向かう。自治会室にはすでに脇林さんが待機してくれていた。写真を壁面やテーブル上に並べて行くうちに自然に会話が始まる。
13:00 参加者8名全員が自治会会議室に集まり、名人講座開始。つい昼食を食べそびれる。
私から導入としてこの名人講座のねらいをお話しする。作品や成果物を期待するのではなく、入所者と来場者のコミュニケーションを促し、その過程で育まれる共感や臨場感を大事にしたい。
最初に脇林さんが語ったことは現在の脇林さんを知る上で重要な体験談だった。「自分は加害者であり、被害者である。」という発言。脇林さんが少年期に確かに自身の深部に刻まれた「痛み」のことである。脇林さんは近所に住む結核患者だった少女のお宅の前を通る時、親の教えを忠実に守り、鼻をつまみ駆け足で毎日通り過ぎたそうだ。その少女はある日入水自殺で亡くなった。その衝撃。自責の一言ではすまされない痛みを自身に刻んだと言う。その後脇林さんは当時不治の病と言われた癩病(現在のハンセン病)にかかり、今度は自分が差別される側に立つことになる。発病から入所、そして入所してから「どのようであれ生きる場所を与えられた。」と感じながら暮らしてきた日々ー脇林さんは静かに自分史を語り始める。
社会復帰を目指して働き続け、麻痺が進む手がさらに悪化し、それでもなお外で働く希望を持っていたが、あるできごとが脇林さんを悲しい決断に追い込んだ。高松のとある食堂で並んでいたところに「おまえの来るところではない!」と罵声を浴びせながら突き飛ばされた。それも一度や二度ではない。「これにはこたえた。」とおっしゃる脇林さん。このことにより脇林さんは社会復帰をあきらめ、大島で暮らす決意をかためたという。
有機農法に没頭し、鳥を飼ったりで自給自足のユートピアを夢見たこともあった。それも後遺症が進み、手足が不自由になっていくと限界が見えてくる。そこで始めたのが文章を書き、それに写真を添えることだった。10年前、デジタルカメラと出会う。カメラとの出会いが脇林さんの世界観を大きく展開させた。「レンズを通して普段見えないものが見えてくる。」レンズを向ける自然がレンズを意識し、こちらにメッセージを投げかけてくる。それは脇林さんに大きな喜びをもたらした。雲の流れから次に自分が出会える光景をイメージできるようになった脇林さんはその瞬間を捉えるために大島の山をかきわけ、木々にのぼり鳥の視点になって写真を撮る。脇林さんの写真は自身が向き合った充実感とフレッシュな驚き、喜びに満ちている。
14:00 一旦休憩をとり、自治会会議室を出て、松の撮影にはいる。
北部の山に向かう。風の舞に向かうルートをそのまま通り抜けて「相愛の道」を行く。大島はひょうたん型をした島だ。北部と南部の山が砂浜でつながってやがて陸地になった。その低地部分に入所者は暮らしている。大島神社近くから南に目をやると大島の様相が捉えられる。
脇林さんは突然道から薮に入って行く。一同唖然。でも名人に着いて行く決意をかため、いざ山に入って行く。脇林さんは山に入ると俄然足が速くなる。後遺症で細くなってしまった足では考えつかないほどのスピード。一同驚きを隠せない。薮をかき分けて進む。昔は松が生い茂り、その足下には雑草や灌木はなかった。だから松の木の間を走り抜けることができたのだそうだ。現在は松が松食い虫で軒並み枯れてしまい、ジャングル状態である。
ここ20分ほど歩いただろうか、北部の山の頂上近くで脇林さんは足をとめる。指差すむこうを見ると大きな山桃の木にはしごがかかっている。一同言葉が出ない。脇林さんはここまではしごを担いできたのだ。
交代ではしごに登る。はしごのてっぺんからさらに木の枝に足をかけ、伸び上がると突然視界が開ける。山桃のうっそうとした葉から頭を出す格好だ。ふと鳶が目の前を通り過ぎる。「ここだ!」ここが鳥の視点になれる場所なのだ。なんとも言えない浮遊感。開放感。目下にひょうたん型の大島が横たえる。雲上のように感じられる、樹上世界。参加者ははしごに登り感嘆の声をあげる。一同汗まみれ、それでも表情はすがすがしい。皆さん口々に「脇林さんはほんとに名人だー。」とつぶやく。脇林さんも自分の隠れ家に新しい仲間を連れてきた少年のようにうれしそうだ。大島を感じる。耳を澄ますと下界=大島の生活の音が風に乗って山の頂上に集まってくる。脇林さんは南の山に登ると「対岸の庵治町の人々の会話まで聞こえてくる」と言う。納得だ。
山を下る。危ない枝や足下の悪いところは隊列の後ろの人に伝言しながら進んで行く。不思議な連帯感が一同をわくわくさせる。名人講座はこの時点で探検隊講座になってしまった。
15:00 自治会会議室にもどる。そこで今日の講座の感想を語り合う。
「人生の転機が写真だった。そこに共感した。」
「小さな島が大きく感じられた。」
「加害者と被害者は表裏一体だという話に共感した。自分自身に照らし合わせて前向きに生きて行ける気がした。」
参加者の皆さんが語る言葉にじっと聞き入る脇林さん。
「喜びと悲しみ。現実はどれだけ逃げてもついてまわる。それを受けとめて関わることが大切。」という脇林さんの言葉で締めくくられる。
16:30 桟橋まで名人講座参加者を見送る。昨日コンサートを行った田島征三さんと奥さん、スタッフの皆さんも船に乗り込む。いつものように手を振る。踵を返す船のなかの人々の振る手がくっきりと見える。
ふと思い返すと脇林さんと山に登り、樹上に顔を出したまさにその時刻14:30の43年前、私は生まれた。こえび隊の皆さん、スタッフの皆さん、やさしい美術のメンバーたちが「誕生日おめでとう!」と声をかけてくれた。なんか、すごくうれしい。
夕食もカフェの営業で疲れているのに泉、井木、天野で作ってくれた。ケーキに数本のろうそくを立てて皆でhappy birthdayの合唱。ありがとう!
今日はNHK教育テレビ「日曜美術館」の瀬戸内国際芸術祭特集でやさしい美術プロジェクトが紹介された。私は忙しくて放送を見ることができなかったけれど、たくさんの人々からメールや電話をいただいた。思えば今日はいろいろなことが重なっていた。不思議な日である。
私は私に関わるすべてに感謝しなければならない。祝福される日は生を受けたことに感謝する日なのだから。脇林さんの今日の言葉が頭の中で繰り返される。「どんなところであれ、私は生きる場所を与えられた。」
21:30 家族から電話がある。奥さんと息子の慧地、娘の美朝の3人で「happy birthday」を合唱してくれた。かれこれ一ヵ月会っていない家族を、想像の中でぎゅっと抱きしめる。