Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 12月のアーカイブ

大島 もちつき

2010年 12月 17日

10:25 高松駅前のスーパーマーケットで食材を買い、桟橋に急ぐ。
11:00 まつかぜに乗船。桟橋で顔見知りの記者さんや用事で高松に出てきた入所者の方々と会う。今日は芸術祭後初めて大島を一般公開し、{つながりの家}再開の日。船に乗る直前、一般来場者が来ているかどうか気にかかりふと後ろを振り返ると、体格の良い初老の男性と目が合う。写真家の太田昭生さんだ。私が大島に最初に訪れた際に前事務長から見せられた写真集。それは入所者のポートレートの写真集であった。らい予防法が廃止されて間もない頃に大島を取材し、「入所者の今」を追ったものだ。その写真を撮影したのが太田昭生さんである。太田さんとは芸術祭会期中ギャラリーに立ち寄っていただいた際に少しばかり立ち話をした。写真集を見て一度お会いしたいと思っていたのでその時はとてもうれしかったし、光栄に思った。私は大島に向かうまつかぜの中で太田さんが取材していた当時のことをたずねた。太田さんの話によると約10年前は大島には2つの監房がのこっていたそうだ。1つは厚生省がつくったものでまもなく取り壊された。もう1つの監房、こちらは法務省がつくったものが南の山に放置されており、幸運にもカメラに収めることができたという。もちろん現在は跡形もない。太田さんは「大島は変わってしまって、今は普通の老人ホームだ。撮るべきものは何もない。」とおっしゃる。確かに太田さんが取材で訪れた当時のように強制隔離を如実に示す遺構は残っていない。らい予防法廃止直後のような注目度もないのかもしれない。しかし、私は大島で「古いもの 捨てられないもの」をたずねて歩き、入所者が生きてきた証―それは形をとどめていない記憶―が人々とともに息づいていると確信した。それは何かを示す現物という視点とは異なるものだ。私が見ているものと太田さんが見ているものは微妙に肌合いが違うようだ。太田さんはしかるタイミングで大島を「記録」しようとしたのではないか。いっぽう私は大島を「記憶」したいと思っている。太田さんとお会いした時に議論してみたい。「大島を外から撮ったことはない。でも大島に撮るべきものはまだたくさんあるんです。」とおっしゃる入所者の脇林さんの言葉を思い出す。外の目と内の目。そのコントラストがくっきりと感じられた。

餅をつく野村さんと大智さん

11:25 さて、大島に着くと朝一から取材に来ているテレビ局3社、新聞記者らがまつかぜから降り立つ私たちにカメラを向ける。再開した大島の取り組みを地元のメディアはすぐにでも伝えたいという一心だ。カフェ・シヨルに向かうとすでに人だかりができている。カフェ・シヨル=第二面会人宿泊所の玄関先には石臼が置かれ、その傍らで蒸し器が蒸気をあげている。準備万端、もちをつくのを今か今かと待ちわびていたようだ。私はすぐに荷物を降ろし、さっそく餅をつくことにした。入所者の大智さんが意気揚々と杵をつかんで構えている。私も杵を手に取る。野村さんも出番を控えてじりじりしている。井木が蒸篭からふかしたお米を臼にどっさりと入れる。そこへ先週摘み取り湯がいたよもぎ、サツマイモ少々を混ぜ込む。あたりによもぎの香りが漂う。さぁ、もちつきだ!
「おっりゃー」「はいっ」「ほいやさぁっ」「はいよっ」「よっこいせ」「はいやっ」…
二人で交互につく。手返しはなし。杵がとても軽いのでものすごいハイペース。交代しながら餅をつく。職員さんが集まってくる。通りがかる入所者もにこやかにながめている。すぐに身体がほてってくる。大智さんは汗をかきながら快調についている。
野村さんが入所したころはこのように杵と臼で人が餅をついたそうだ。ところが大智さんが入所した頃には石臼は以前のものを利用しつつも機械でついていたそうだ。つまり今から55年ほど前にはすでに人力による餅つきは途絶えていたことになる。私たちは半世紀を越えてこの大島にもちつきを復活させたことになるのだ。
ついた餅を受けて職員とこえび隊の女性陣が餅箱の上であんこを入れて丸める。手、手、また手。つぎつぎに団子を生み出す掌が咲き乱れる。
なんとわくわくする時間。いっぱいの笑顔で華やいだ空間。心の底から「生きている。」そんな実感を入所者の皆さん、職員の皆さん、一般来場者の皆さんと分かち合う。
準備の手配は当時を良く知っている野村さんがかってでたそうだ。その指示に応えて作業部の皆さんにも手伝っていただいた。そして私がいない間も大島でずっと仕込みや設え準備に備えてくれた井木と泉。皆さんの協力がなければ、このような場は実現できなかった。協力いただいた方たちに労いと感謝の気持ちを贈りたい。
14:30 芸術祭後では2回目となる定例検討会。自治会会議室に集まる。今年度内についての方針、日程は決定しているが、2011年度以降のこと、さらには2013年に開催されるだろう瀬戸内国際芸術祭に向けての体制づくりや方向性はこれからの検討課題だ。今回の検討会は、意見交換の場とする。決定事項はまだない。
15:45 定例検討会終了。
16:15 桟橋から官用船せいしょうを見送る。
18:30 スーパーマーケットで購入した秋田産のはたはたを捌き、鍋物をつくる。井木と泉はカフェでろっぽうやきの仕込み作業。焼き始めたら途中でやめられない。食事は1人で。
今日は発達センターちよだでワークショップを開催しているはずだ。うまくいっただろうか。報告が待ち遠しい。
23:00 就寝。

展示を再開したGALLERY15

発達センターちよだ クリスマス準備

2010年 12月 15日

昨日のミーティングでちよだでのワークショップについて議論が繰り広げられた。前回のワークショップで子どもたちが制作したオーナメントを次回のワークショップでどのように飾り付けして、楽しむか。子どもたちのお母さんも参加するちょっとしたクリスマスパーティーだ。昨年とはひと味違ったものにしたい。クリスマスの情景を書き割り型に、つまり舞台美術の構成のように設えるということになった。
私は卒業制作をしている学生のフォローの合間にプロジェクトルームをのぞくと、メンバー4人が精力的にツリーや雪車、煙突のある家を制作しているところだった。スタッフ川島も休みを返上して一緒になって制作している。ここまで盛り上がれば私の出る幕ではない。任せてほかの仕事をさせてもらおう。
がんばれっ。ちよだワークショップチーム。子どもたちが待ってるぞー。

小牧市民病院 研究会

2010年 12月 13日

5:30 名古屋駅着。自宅に戻りコーヒーを飲んだあと、すぐに出勤。
16:00 授業を済ませ、スタッフ川島と大学をあとにする。
今日は小牧市民病院にて研究会を開催、作品プラン2点を検討、決定する大事な会合となる。
先週綿密に打ち合わせたうえで、試作品も充実している。S6病棟のディルームに展示する作品プラン「green books」は本型のオブジェ。今年卒業した元メンバーの天野に制作を依頼した。精神科前の廊下についてはデザイナーモリショウコさんの家族のスナップ写真を模した絵画作品を連作で展示予定。プレゼンテーションしたところ、どちらも作品の内容としては好評だ。S6病棟に関しては脳外科にかかる患者さんが多いことから、誤ってさわったり、破損した場合の安全性についてはさらに検討が必要だということになった。大旨了解をいただき、これから本制作にとりかかる。
研究会のあとはスタッフ川島と二人で院内を隅々まで歩く。作品のほこり取りをしながら作品のコンディションをチェックしていく。こまめに作品の状態を把握することにより、安全性についての精度もあがるし、時には通りがかる職員さんや患者さんから感想を聞くことができる。
一通り作業を終え、帰路につく。

大島{つながりの家}再開のために 畑仕事

2010年 12月 12日

6:00 外が少しずつ薄明るくなってくる。午前中は入所者大智さんたちの畑に行くことになっていたので、暗いうちから起き出してくる。
がらりと窓を開けると野村ハウスとなりの10寮に住む入所者の安長さんが洗濯物をバケツに入れて水を張っている。「おはようございます!」「お、来とったんか。」
安長さんは珍しくジャケットを羽織っている。朝日が出る直前の瀬戸内海をながめながら、語らう。お酒の入っていない安長さんの口は重いけれど、話が途切れても、間があっても苦にならない。一緒にいるだけで言葉を交わしているような、不思議な時間。
朝食は野村さんが育てた水菜やレタスをふんだんに使ったオープンサンド。ドレッシングもお手製。食材の風味を殺すことなく、たのしめる食卓を井木はさらりと創り出す。
食後は私と井木、泉の三人で大島北部の畑に行く。もう畑には大智さんがいた。大智さんが植えていたのはそら豆。来年の5月頃にはたくさん実が成るそうだ。風はそれほど強くない。ここで大智さんと東條さんの声の掛け合いを録音したのが今年の2月ごろ。あの時も大島特有の季節風はみごとに薙いでいて、すばらしい音声を記録できた。大智さんといろいろな話をしながら畑作業をしている。私たちの会話の声もここにいるととてもクリヤーに感じられる。通常は散逸して感じ取れないようなざらついた音の手触りが手に取るように感じられる。それは何故か。ネギの周りにある雑草を摘みながら、ふと周りを見渡すとこの畑の地表が大きな凹面を描いているのがわかる。畑が耳のような形状をしていて、周辺の音声を集めているのではないか。そんな仮説を立ててみたくなる。天に突き抜けていくような力強い声。今日も大智さんの声は畑に響く。大智さんは自分の声がこの畑で増幅されているのを直感的に知っているのかもしれない。
大智さんの畑でたくさんのお野菜をいただく。キャベツにほうれん草、みかん…。なかでもうれしかったのは辛み大根。緑色をした小振りの大根は擦り降ろして天ぷらやお刺身に添えて食べる。この独特の辛みが旨い。先日の打ち上げ会のとき、私がこの辛み大根を大量にまぶして頬張っていたのを大智さんが覚えてくれていて「先生、大根とっといたからよかったら食べてください。」とおっしゃる。自宅に戻ったら家族で食べたい。子どもたちにはまだ早いかな。大人の味だ。

使い込まれた鍬は鏡面となっていた

よもぎも摘む。17日にもちつきをする予定だが、そこによもぎを足してよもぎ餅にするためだ。柔らかい新芽だけを丁寧に摘む。土とよもぎの香りが辺りを漂い、なんとも清々しい。芸術祭期間中はなかなかこのような時間を持てなかった。忙しく、慌ただしい日々のなか、余裕がなくなっていたのかもしれない。井木、泉と3人でこうして畑に出ていると、リフレッシュされて心の中までクリヤーになっていく。
畑作業を終えて歩いていると入所者の東條さんと会う。水菜とカブをいただく。東條さんの水菜は噴水のように生がいい。野村さんのつくる水菜とすこし趣が異なる。育てる人によって野菜の育ち方も違うのだ。カブはハンドボールぐらいのサイズ。両手に抱えて歩く東條さんを見て「東條さんが小さく見える!」と井木と泉がはしゃぐ。

再開を待つGALLERY15の再展示

11:00 畑作業を終えたあとはひたすらギャラリーで展示作業。井木と泉はカフェで仕込み作業に集中する。夏とは明らかに違う、低い日差しが元一般寮15寮であるギャラリーに差し込んでくる。その日差しを感じながら1つ1つ展示物を配置していく。うまく表現できないのだが、モノを配置しているというよりは記憶の塊を位置づけていくような感覚。それぞれの展示物がお互いの距離感を保ちながら、領域がせめぎあう緊張感がでてこればしめたもの。モノではかるのではなく存在感をはかるのだ。この臨場感は何度味わっても楽しい。
私はこのところコンスタントに週に1〜3回の作品搬入、搬出に携わっている。冷静に見てすごい頻度。
15:00 設置、ライティングも完了し、掃除にとりかかる。芸術祭が終わったあとに空間をくすませていた埃を拭っていく。GALLERY15は復活を遂げるー。
16:00 荷物をまとめカフェ・シヨルに行くと、先ほどにも増して日が落ちてきて、カフェの空間に金色の光があふれている。そこで井木、泉はあたらしいお菓子を創造していた。最高の仕事を得た充実感に包まれた二人に迷いも陰りもない。二人が入れてくれたお茶がおいしい。
16:15 井木と泉に見送られながらまつかぜが出航。なぜか涙があふれそうになった。
20:10 夜行バスに乗り込み、名古屋へ。

大島 {つながりの家}再開のために

2010年 12月 11日

11:00 高松発の官用船まつかぜに乗船。先に大島入りしている井木と泉からサツマイモを買ってくるようおつかいを頼まれていて、高松駅のスーパーに寄る。実は、高松に着く前に泉から「朝、野村さんに会って今日、鍋することにしました!」というメールが送られてきた。舞い上がってしまい、肝心なサツマイモを買うのをすっかり忘れてしまった。何たる不覚。
大島に着くと、雨がぱらついてきた。傘がいるほどではないけれど、風もあって寒々しく感じる。芸術祭の頃の賑やかさはなく、ひっそりとした大島。
納骨堂のお参りを済ませ、昼食後に入所者自治会長の山本さんに電話する。お留守のようだ。ひょっとしてと自治会事務所に行ってみると小豆色の見慣れた自転車が停まっている。山本さんだ。自治会室の奥で山本さんは事務仕事をしている。「山本さん、こんにちは。」
山本さんと大島の取り組みについての意見交換をする。二人っきりでゆったりとお話しする。芸術祭期間中にはこうして落ち着いてお話しする機会がなかなか持つことができなかった。率直な意見を聞くことができ、また山本さん個人の念いや考えについてもお話しできた。今後に活かしていきたい。
14:30 GALLERY15に行き、作業を始める。来週に一般公開するため準備を進めておかなければならない。芸術祭期間中に公開した5つの企画展のダイジェスト版でお届けする。日が出ている間に「大智×東條展」で使用したアンプとCDデッキ、スピーカーを設置する。配線は天井裏にはわせてある。
18:00 泉が作業中の私に声をかける。野村さんご夫妻が野村ハウスに見えたそうだ。すぐに作業を中断して野村ハウスに戻る。野村さんが花が咲くような笑顔で迎えてくれる。これだけでうれしい。我が家に戻ってきた感じ。私は高松のスーパーで買って来た、はたはたなどの魚を捌く。野菜は野村さんの畑から採れた大根や白菜だ。調味料はほどんど要らない。だしの利いた汁と野菜から出た風味で十分味わい深い。皆で舌鼓を打つ。泉が奥三河のお酒「鳳来泉」を持参。「野村さんと飲むのを楽しみに、私たちの住んでいる愛知のお酒です!」家族のように1つの鍋を皆でつつく。
20:00 野村さんご夫妻が帰宅される。私は気持ちを入れ替えて、ギャラリーで引き続き展示作業。それでも芸術祭会期中のように一睡もせずに作業をするまでではない。展示のイメージは私の頭の中に完璧にできあがっているので、それを忠実に再現していけば良いのだから。重い什器類に関しては泉と井木にお手伝い願って適所に運び設置した。
23:00 作業終了。
0:30 お風呂に入り就寝。

足助病院 えんがわ画廊展示替え(企画展2回目)

2010年 12月 10日

冬空で澄んだ空気。
16:00 メンバー原嶋と自家用車に乗り込み足助病院に向けて出発。スタッフ川島、メンバー古川、卒業生加藤は先発ですでに足助病院にて展示作業中。
澄んだ空気のため、夕日はそれほど赤くは染まらない。雲がやわらかな寒色の影絵を描き出している。
17:00 足助病院到着。日はとっぷりと暮れている。まず足助病院中庭に行くと、クリスマスイルミネーションの設置作業中の先発の3人と施設課の職員さんに会う。イルミネーションは川島に任せ、原嶋と古川でえんがわ画廊の展示作業を進めることにする。前回の企画展で展示していたメンバー小川の「もじ文字動物」はすでに撤去されている。B棟病棟はお年寄りの患者さんが2〜3ヶ月の長期にわたり入院されている場所。小川の作品は動物のポーズが病室のナンバーを示しているもので、心和ますイラストレーションであると同時に表示の機能を果たすものだ。一見見ただけではわからないが、しばらくながめていると数字が浮かび上がる。それが長期入院している患者さんにはほのかな刺激と楽しみをもたらし、好評とのことだ。看護師さんから惜しむ声も多く寄せられ、約1ヶ月の展示期間の間、愛された作品だったようだ。こうした反響は自分の作品でなくともうれしくなる。そう、やさしい美術プロジェクトの「やってよかった。」という醍醐味はこうした場面で実感する。次は是非搬入作業だけでなく、搬出作業も作者自身で関わってほしいと思う。エネルギーを充填する瞬間だ。
古川が今回えんがわ画廊のために制作した「ぬいぐるみの休日」はすでに8カ所展示を完了している。古川は経験者として初めて病院に展示する原嶋をリードして二人でてきぱきと展示作業をこなしていく。
メンバー原嶋の作品は正方形のキャンバスに油彩で花を描いた「一輪の花」という絵画作品。各病室に花のオーナメントを設えたようで廊下に文字通り花を添えた。
小さな作品、小さな提案。しかしえんがわ画廊の役割は重い。患者さんが一番長い時間を過ごす病棟に作品を置くことは、良くも悪くも患者さんへの直接的な影響を念頭に入れておかなければならない。また、えんがわ画廊が病棟に設置できたのは何年もかけて病院と協働してきたからこその信頼関係の上に成り立っていることを忘れてはならない。今年度から関わっているメンバーの小川、原嶋。二人には初めての病院での展示の舞台を創り出してきた先輩への感謝の気持ちを忘れないでほしい。受け入れてくれている病院職員さんの患者さんへの念いもキャッチしておいてほしい。せっかく良いスタートが切れたのだから。
えんがわ画廊の設置作業が一段落し、中庭のクリスマスイルミネーション設置作業を全員で取り組む。スタッフ川島は在学中毎年施設課の職員さんからクリスマスの時期に頼まれていた仕事だったが、タイミングが合わず今日になってしまった。昨年は私と工藤の二人で設えをつくった。日がすっかり短くなった今日この頃。山間にある足助は暗くなるのも早い。イルミネーションのあたたかい光が足助病院を照らす。

流れ

2010年 12月 8日

とある新聞社の記者さんから取材を受けた。
取材は順を追って私の生い立ちから現在の活動までをたずねられるという内容だ。私の人生の歩みのなかでキーポイントになった出来事はこのブログでも端々にちりばめられているが、その1つ1つを丁寧にひも解いていく、そんな取材となった。
約3時間、私は風邪で声がほとんど出ないなかで、ひたすら語り続ける。それは私にとっても自己確認の作業になったと思う。自分に起きている心の動きは自分が一番よくわかっているようで、未整理のまま心の引き出しにしまっていることがままあるものだ。第三者からの探求がその根幹部分に触れたとき、説明のつかない感情の塊が微細な質感を伴って露出する。それを自身が手探りで言語化していく。
それは整理を急ぐ必要はない。一瞬垣間みれたところでそれはまた姿を隠す。「本質」とはそういうものかもしれない。
話を大きく変える。
カイラス山(別名:カンリンポチェ)という山をご存知だろうか。標高7000メートルを越える孤峰であり、ガンジス川の源流。チベットにある聖山で、仏教の須弥山思想にも描かれている実在する山だ。敬虔な仏教徒であるチベットの人たちは一生に一度はこのカイラス山に行き、その周囲をご祈祷しながらまわりたいと言う。すべての旅路を五体投地という行でもって貫き通す人も少なくない。
カイラス山は写真に撮ってはならない。そこに行った人のみがその全貌を心に刻む。カイラス山の頂上は登らない。大地から屹立する峰の周囲を何日もかかって歩いてまわるのだ。
私がチベットを旅したきっかけがこのカイラス山である。20年ほど前になろうか、ネパールを旅した時に知り合ったネパール人の経営しているホテルでカイラス山の写真を初めて見た。当時カイラス山の写真は貴重なものだったろう。実は私が見たのは初めてではなかった。夢の記憶とその写真がばっちり重なったのだ。デジャブといえばそれまでだが…。
私がいまだに心惹かれるのは、この聖山の詳細が見えてこないことだ。水晶の結晶を天に向けて差し出したかのようなカイラス山。チベットの人々は周囲をめぐる行為をひたすら続ける。頂点という答えの1つに辿り着くのではなく、その周りを「流れる」のだ。
私たちは核心の周りを循環する脈なのかもしれない。時折、行為の連続が流れを形成していて、私がその一部だと感じることがある。それはひたすら私という存在を掘り下げていくことで目の前に広がったり、ただ自分の目の前にあることに向き合い乗り越えていくことでふとした瞬間に通り抜けることもある。
歩み、旅、流れ…。

たとえ絶えても、絶やさない

2010年 12月 6日

位牌のリストを遡り、ルーツをたどる

父方の高橋家は事情があり絶えることになった。
私の父は次男で本家を出てごく一般的なサラリーマンの家庭を築いた。高度成長期にもまれながら典型的な核家族だった我が家。平凡に暮らしてきた私が初めて知った事実がある。
それは私の先祖のこと。絶えることになった高橋家には代々手を合わせてきた仏壇がある。その仏壇の面倒を見る人がいなくなったので仏壇に入っていたすべての位牌をお寺に預けることになった。父方の親戚一同知らなかったのだが、その位牌は今からさかのぼること200年。断っておくがけっして由緒ある家柄ではない、代々お百姓さんの家である高橋家。その血が私にも流れている。
位牌の記録を読んでいくと戦死した人がいる。飢饉があったのだろうか、つぎつぎと人が亡くなった時期がある。「家」が絶える危機は何度もあっただろうと想像する。
「家」を継ぐ、「家」が絶える、本家、分家という感覚は正直私にとって「時代遅れ」の響きしかなかったが、父から聞く幼少からの記憶と親族間の出来事が、私に結するということ、そして連綿と連なる命のつながりを意識せざるを得ない。むしろこのように辿ることができるルーツがあることに深く感謝すべきである。先祖に手を合わせて自分がここにいることに感謝する。私がここにあることは「あたりまえ」ではない、のだから。
やがて1人もいなくなるハンセン病回復者。入所者の皆さんはそのことをよく理解している。ある入所者が「わたしらがいなくなったら誰が納骨堂の世話をするのだろう。」と話されたのをよく思い出す。絶える高橋家、つながりを断たれた大島の納骨堂。
人はどこからやってきて、そしてどこに行くのだろう。
私の旅は続く。

CAS W-Door展

2010年 12月 4日

オープニングで披露された料理はふなだかよの作品の一部

大阪難波にあるCAS(Contemporary Art and Spirit)で我がプラスギャラリープロジェクト代表の平松伸之が企画に携わり、W-Door という展覧会を開いている。+Galleryを運営している2002年から続いている韓国のアーティストとの交流。今回は企画コーディネートをCASの笹岡敬さんと平松が日本の作家、そして韓国の作家はチョン・ジミンが担当してセレクト。先行して日本ではCASで展示し、翌年2月に韓国ではソウルのsalon de Hというスペースで同じアーティストによる展示を行う予定。
W-Doorは女性だけの展覧会。男性はあまり男性ということを意識しないでいる。それは現在の社会構造が男性の原理で動いていることに他ならない。ひさしぶりに会ったジミンとウニョン。彼女たちからは私が知り合った女性のアーティストが次々と結婚したという報告を受けた。ジミンと一緒に展覧会に出品した、平松の奥さん里奈さんは元やさしい美術プロジェクトのスタッフ。彼女は今年生まれた息子の育児に奮闘中とのこと。一般的に見て女性を巡る状況は現実として物理的に体験していくことが多いように思う。「女は実体、男は現象」とは免疫学者多田富雄さんのことば。
日韓交流展は幾度となく企画に参加してきたが、その度に浮かび上がる私たちを支えるモノ、コト。愚直なまでに私が私であることにこだわるアーティストの営みは美しく、そしてずきんと痛い。

こういう時に使うのね

2010年 12月 3日

私の8歳になる長男の宿題を何気なく見た。なんか、少し違う気がするけど―。

先生が引いた赤線に苦悶の跡が…。