Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 12月 8日のアーカイブ

流れ

2010年 12月 8日

とある新聞社の記者さんから取材を受けた。
取材は順を追って私の生い立ちから現在の活動までをたずねられるという内容だ。私の人生の歩みのなかでキーポイントになった出来事はこのブログでも端々にちりばめられているが、その1つ1つを丁寧にひも解いていく、そんな取材となった。
約3時間、私は風邪で声がほとんど出ないなかで、ひたすら語り続ける。それは私にとっても自己確認の作業になったと思う。自分に起きている心の動きは自分が一番よくわかっているようで、未整理のまま心の引き出しにしまっていることがままあるものだ。第三者からの探求がその根幹部分に触れたとき、説明のつかない感情の塊が微細な質感を伴って露出する。それを自身が手探りで言語化していく。
それは整理を急ぐ必要はない。一瞬垣間みれたところでそれはまた姿を隠す。「本質」とはそういうものかもしれない。
話を大きく変える。
カイラス山(別名:カンリンポチェ)という山をご存知だろうか。標高7000メートルを越える孤峰であり、ガンジス川の源流。チベットにある聖山で、仏教の須弥山思想にも描かれている実在する山だ。敬虔な仏教徒であるチベットの人たちは一生に一度はこのカイラス山に行き、その周囲をご祈祷しながらまわりたいと言う。すべての旅路を五体投地という行でもって貫き通す人も少なくない。
カイラス山は写真に撮ってはならない。そこに行った人のみがその全貌を心に刻む。カイラス山の頂上は登らない。大地から屹立する峰の周囲を何日もかかって歩いてまわるのだ。
私がチベットを旅したきっかけがこのカイラス山である。20年ほど前になろうか、ネパールを旅した時に知り合ったネパール人の経営しているホテルでカイラス山の写真を初めて見た。当時カイラス山の写真は貴重なものだったろう。実は私が見たのは初めてではなかった。夢の記憶とその写真がばっちり重なったのだ。デジャブといえばそれまでだが…。
私がいまだに心惹かれるのは、この聖山の詳細が見えてこないことだ。水晶の結晶を天に向けて差し出したかのようなカイラス山。チベットの人々は周囲をめぐる行為をひたすら続ける。頂点という答えの1つに辿り着くのではなく、その周りを「流れる」のだ。
私たちは核心の周りを循環する脈なのかもしれない。時折、行為の連続が流れを形成していて、私がその一部だと感じることがある。それはひたすら私という存在を掘り下げていくことで目の前に広がったり、ただ自分の目の前にあることに向き合い乗り越えていくことでふとした瞬間に通り抜けることもある。
歩み、旅、流れ…。