Nobuyuki Takahashi’s blog

2011年 1月のアーカイブ

変わる風景 続編

2011年 1月 6日

<1月2日付けブログの続編>
大島の入所者が語る「故郷(ふるさと)」とはその背景にある過ぎし日々の途方もない長さ、人と人を隔てる受け止め難い障壁の重さ、どれをとっても私が体験してきたどの物差しにも適うものではない。かといってそれをさも理解したかのように「次元がちがう」と別棚に据えるのは大事な何かを放棄する気がしてならない。確かに私はハンセン病の回復者の方々と親密に接する機会を得て、その心情にふれる場に身を置くことができた。しかし、それはほんの3年間であり、大島青松園101年の歴史の末尾。人類にハンセン病が現れた時代は定かではないが、数えきれない年月のほんの一瞬に立ち会っただけである。

私には明らかに何かが欠けている。先述のように私は典型的な現代の日本に生を受けた。私自身を構成する「風景」に不動不変の心情は生まれない。それこそその「風景」が何万年、何千万年を費やして育んだ存在の根拠ごと削り取っていく様をただ目の当たりにしてきた。そこには薄い皮膜のような地表に存在する生きとし生けるものの営みへの尊厳は認められない。私はそれをさして痛みも感じず傍らでぼんやりと眺めてきた。風景との関わりは人との関わりに通ずる。血と肉を分け合うような濃密な「関わり」は物心ついた頃には私の周囲にはなかった。あるいはすでに方々分断され、つながりのなかにある自分を感じることができなかった。自分がまるで密閉された容器のように素っ気なく感じた。
「入所者と私が似ている」というのはいかにもおこがましい。しかし、入所者と接するなかで多くのエピソードにふれ、見聞きしたことを古い地図に投影しながら、次第に鮮明になっていく光景に息をのみ、心がふるふるとうち震え、涙がしとどにあふれた。そのとき私の細胞が 共鳴しているのを確かに感じた。
この感覚は大島にはじまったことではなかった。病院での取り組みの様々な局面に出会い、痛み、苦しみもだえ、憂い、迷い、悩み、突き抜け、よろこび、はればれとし、多くの感覚を抱きしめた。その度に「この感覚が最初で最後かもしれない」と思った。幸いそれは何度も私に訪れた。
取り組みの目的がそこにあるのではないが、私は私自身のために不可視のつながりの糸を恢復してきたのだと思う。 その歩みの先に「大島」があった。

ある入所者がこうおっしゃった。
「私は大島に入所して60年になる。らい予防法が廃止になって入所者は故郷に帰ることがゆるされるようになった。でもね、50年も60年も経って故郷に帰っても、記憶に残っている風景はそこにはないんだよ。知っている人もいない。ましてや親族もいなければ、実家が建っていた跡すらない。大島に閉じ込められてからというもの、故郷への思いはそれはそれは強いもんだった。でも、帰ることのできる故郷はどこにもなかった。故郷はね、心の中にそのまま大事にしまっておくことにしたんだよ。」
ある方はわたしにこうつぶやいた。
「私たちは最後の一人になるまで、終の住処として大島で暮らしたい、そう思っているんだよ。」
法律が廃止されたとて、人の凝り固まった偏見の心がいとも簡単に解きほぐされるとは限らない。経てきた時の流れはもとには戻らないのだ。国のつくった制度に翻弄され、見えない感情の軋轢をかいくぐって生き抜いてこられた入所者が発する その言葉の真意は今の私にはつかみきれていない。でも本人たちにしかわからないとか、きっと大変だったんだろう、などとという感情のなびきでは済まされない、きりきりとした心の軋みを私はずっと感じ続けている。なぜだろう、何なんだろう、この感じは。自分でも焦点が合わないままの感情の焰を携えて私はまた、大島に向かう。

私が芸大を目指し、浪人生だった18歳の夏。先述の山賊峠にブルドーザーが入り、灌木林はすべてこそぎとられた。山賊峠の緩やかなカーブを描いた軌跡は土砂のカオスのうちにかき消され跡形もない。方向性を持たないキャタピラの轍が巨大なドローイングを描いていた。表土ごと剥がされた植物のない大地は、やはり砂漠を思わせた。造成前には見通せなかった風景が褐色の砂漠の向こうに立ち現れる。折り重なる屋根のシルエットが人の営みを感じさせ、それが実際の距離よりもずっと遠くに感じられる。
私は当時の仲間4〜5人をそそのかし、このむき出しになった大地で作品を制作しようと声をかけた。月曜日から土曜日までは土木作業員以外は立ち入り禁止。平日は例のごとくブルドーザーの単調な排気音が轟き、土砂粉塵が渦巻いていた。私たちは土曜日の夕方、作業員が仕事を終え、人がいなくなったのを見計らって額にタオルを巻き、スコップ、つるはし片手に造成地に侵入した。
私たちが実行したのは、大地に方形の池を作り、そこに水を満たす、というミッションだった。 夜中おなかがすくと、造成地のはずれにある私の実家に行き、母が握ったおにぎりをほおばった。全身どろどろだった。夜を徹して作業し、翌日の日曜日を迎える。日中も休みなくひたすら掘り続けた。休めばそのまま動けなくなるような気がした。後日談だが、母の話では「造成地になぞの若者たちが現れ何か良からぬことをしている。」という噂が立っていたという。母は知らないふりをした。近所付き合いのある警察官のお宅は、うすうす私のしていることを知っていたようだが…。今思えばこういう大人に血気盛んな若者は人知れず助けられているのである。
さて、方形の池の掘削作業である。難しいのは水で満たすために水平をとらなければならない。当時の私には水糸をはるなどという知恵も技術もなかった。目測、つまり勘を頼りにとにかく掘り進めるしかなかった。一睡もせず、何から何まで体力任せ。日曜日も日が暮れて夜に突入する。掘る手は思うようにはかどらない、気持ちは萎えてないのだが体がついてこない。翌朝までに本当に完成するだろうか。夜があければ、私たちは造成地から立ち去らなければならない。残ったメンバーは私と近藤歩、鈴木敦の3名。
夜明け前、とうとう完成を迎える。明かりのない場所では空が一番明るく感じられる。それとは対照的に大地は深く黒い闇に近づく。その漆黒の内に10メートル×15メートルほどのしっかりとした辺で切り取られた空が現れた。わずかに明度を持った空が掘った水たまりに映り込んでいる。私たちの二晩を徹した営みは仄かで儚いけれど、その光景は想像していたよりもずっとダイナミックに感じられた。膨大な作業の集積がそこに感じられないのが、またいい。私たちは夜明けの刻々と明るさを増す様子と同調するかのようにただ無心に眺め続けた。
肉体を酷使し大地と関わった充実感で満たされたあのとき。私はほんの一瞬ご褒美をもらったようなあの感覚を、青春の宝物として今も心に抱いている。

まもなく夜は明け、キャタピラの轍が影を落とし、存在感を放ち始める。一時的に満たされた静謐な空気は徐々に日常の彼方に吸い込まれていった。

ビデオも撮ったはずだが…数少ない残っているカット


おーまいがっ!

2011年 1月 5日

12月26日づけのブログにて、我が家でのワークショップの様子を書いた。さてその続編。
天白川で採取してきた粘土をさらに練り込んで、「にゅるん」としたものを作ろうということになった。その「にゅるん」感は半端ではつまらない。周囲が映り込むほど磨くことにした。
まず、徹底的ににゅるんっとしたフォルムをつくる。コツは「かたちが向こうからこっちにむかってくるようにイメージ」してつくること。口々に「にゅるん、にゅるん!」と呪文を唱えてつくるのも効果的。(ほんとですって。)
私と慧地が作っている間、美朝は「あー、う××。う××!ひゃははは。」を連発。ま、確かに…。
かたちづくるのが完成したら、しばらく乾燥させる。
生乾きの状態で今度はスプーンでひたすら磨く。粘土は乾いてくると乾く前より若干濃い色になってくる。乾きすぎると今度は白くなり、固まってしまうのでその直前のタイミングを逃さないようにする。磨いていくとみるみるうちに光沢が増してくる粘土の様子に慧地も夢中。
「ぴかぴか」ではまだまだ。「みかみか」になるまで磨く。(わかるかなぁ、この違い…)
私が仕事をしている間、奥さん、慧地、美朝でドーナツを作ってくれる。絵本に出てくる主人公がおいしそうなドーナツを山のように揚げているのを見て、作ることになったらしい。型抜きして輪状のドーナツを量産。奥さんが「どんな形のものも作っていいんだよ。」とアドバイスして、慧地はソフトクリーム型を作ることにした。
揚げたてのドーナツを、先日陶芸家で友人の加藤圭史氏よりゆずってもらった織部のお皿に盛る。次の瞬間悲鳴が。
「おーまいがっ。」
色も、ココアが練り込んであるのでまんま、あれです。
織部のお皿はほんとにすてき!我が家ではこんな使い方になってしまったけれど許してぇ!

左が私、右が慧地作

土とは思えない!

変わる風景

2011年 1月 2日

私が生まれたとき、私の父母と幼い兄は小牧空港(現、名古屋空港)近くのアパートで暮らしていた。低空飛行に入った機影がぼろアパートの上をかすめるたびに木製のサッシがびりびりと音を立てていたという。ほどなくして私を加えた家族は名古屋市郊外の分譲住宅に引っ越した。鉄筋コンクリート5棟ほどが連なった建物でそれぞれ南側に小さな庭がついていた。庭はちょっとした自慢だったが、それから随分と経ってその庭の大部分は浄化槽が陣取っていたことを知った。下水道が整備されていなかったのだ。父は真っ先に植え込みがない庭へ幼い息子たちのために小さな砂場をつくった。夏はそこでいつも素っ裸で砂と戯れた。門構えの鋼材を組み合わせただけの簡素な格子扉は、父が錆び止めのペンキをしつこく塗り重ねたために妙にエッジが甘くなっていた。玄関を出て、庭を横切り、格子扉を押しあけて自宅南の通りに出る。自家用車がやっと一台通ることのできる道路は未舗装で、車が通ると土煙があがる。次第に轍が育ち、所々がこぶのように盛り上がっている。雨が降ると光景は一変する。くぼみに水たまりができて、まるで怪獣の足跡のようだ。そんな日は長靴をはいて歓喜の声をあげながら水たまりに何度も身を投じた。自宅前の未舗装道路のさらに南は宅地造成された空き地だ。そこに入るのは子どもたちぐらいで、人通りのある自宅前の道に比べ平たく感じた。空き地を突っ切りさらに南に行くと今度は車が往来できるほどの通りが現れる。家は通り沿いにぽつぽつと建っているのみで、その他はすべて空き地。そこから先は緩やかな雑木林になっていた。この雑木林は名のついた山として意識することはなかったが、いつもそっと背景にあって支えてくれるような頼もしさがあった。その雑木林は私たちが暮らす宅地の延長上にあり、私が小学校にあがる頃に開発の手が入った。私はブルドーザーが灌木をなぎ倒していくのをぼんやりとながめていた。ブルドーザーの排気音が瞑想にふけりそうなほど単調でやるせない響きだった。土地が削られる前の木々のない丸裸の地表の起伏は私が想像していたよりもずっと穏やかだった。その小さな落胆がまた小さな喪失感を生み、私の中に居座っている。私は平らにならされた空き地の背の低い雑草が織りなす絨毯の上を駆け回り、虫かご片手に毎日バッタを追った。

私の原風景をたどり描くとこのようなものだ。故郷(ふるさと)というには何かが足りなく、気恥ずかしい感じもする。私の「故郷」というものに対する勝手な思い込みかもしれないが、私とその土地との切っても切れない何かは存在しないように思う。故郷と問われれば、私は自然に「名古屋」と答え、名古屋に土地勘のある人には名古屋市南の郊外「天白区」と返した。無味乾燥な地名には私の血縁も地縁も感じられない。場所のポイントを差しているにすぎなかった。近所付き合いに楽しい思い出は残っているが、この新興住宅街に移り住んだ人々はどこから来たのか、それ以前はどんな生活だったのか知る由もなかった。
もし自分に「帰るところ」を問うたならば、郷愁たっぷりに、人々が集い暮らすその土地を呼ぶことはまずもって、ない。私には故郷はないのかもしれない。
だから、私にとって「故郷」というのはいつも心の片隅で常に進行形のテーマとなって横たわっている。
「帰るところ」がない、というのではもちろん、ない。「故郷」を持ち得ない私は「帰るところ」が場所を示す一言で言い表されるものでなく、明晰な感触を持った質感の断片を寄せ集めたものとなる。整理がつかず、もやっと膨らんだり、しわしわにしぼんだりを私の中で繰り返している心情の塊。

元旦、私の両親が住む実家に行く。自家用車を15分も走らせれば着く距離だ。私は亡くなった兄が暮らしていた築30年を超えるマンションに暮らしていて、かつて住んでいた分譲住宅から北東2、3キロの所だ。一方実家はというと、私の原風景の大部分を占めるかの分譲住宅の南1キロ、雑木林があった小高い丘の一戸建てに移った。そう、かつてブルドーザーが 灌木をなぎ倒していた、その辺りだ。この十数年ほどというもの絶え間なく工事が続き、地面は巨大な重機で、根こそぎ平滑に造形され、「環状2号」なる幹線道路が私たち家族が住む場所から実家近くを直線的に結ぶように伸びている。自家用車を実家に向けて走らせながら幹線道路の工事の規模の大きさを思う。

(私の心の支えになっていた)あの雑木林をさらに南に歩を進めると小高い丘を越え、地層が露出している斜面が現れる。それを横に見ながら峠道にはいる。その道は尾根伝いをトレースしていて大蛇のように曲がりくねり、新しい時代のものではないと誰もが気づく。その峠道は「山賊峠」と呼ばれていた。私の想像が及ばない時代のエピソードが所以になっている地名であることは明らかだった。当然、私たちの時代には山賊は存在しなかったけれど、私はこの峠道だけは暗くなってから通るのはよそうと固く心に決めていた。
その山賊峠は今は陰も形もなく、それどころか尾根がまるごと失われている。人間の都合によって平らにならされ、そこには巨大な幹線道路が穿たれている。
幹線道路を車が走る。
「慧地、この辺りに山賊峠という山道があったんだよ。」と息子に語りかける。かつてあったたおやかな起伏の地面を想像に浮かべる。そこを鋭利なナイフで裂いて進んでいくような気持ちにかられ、痛い。

「故郷」の全体像は簡単には描けないけれど、今日その断片の一つを拾った。

あけましておめでとうございます。

2011年 1月 1日

あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

大島の野村さんが育てている松の盆栽