Nobuyuki Takahashi’s blog

2011年 1月 2日のアーカイブ

変わる風景

2011年 1月 2日

私が生まれたとき、私の父母と幼い兄は小牧空港(現、名古屋空港)近くのアパートで暮らしていた。低空飛行に入った機影がぼろアパートの上をかすめるたびに木製のサッシがびりびりと音を立てていたという。ほどなくして私を加えた家族は名古屋市郊外の分譲住宅に引っ越した。鉄筋コンクリート5棟ほどが連なった建物でそれぞれ南側に小さな庭がついていた。庭はちょっとした自慢だったが、それから随分と経ってその庭の大部分は浄化槽が陣取っていたことを知った。下水道が整備されていなかったのだ。父は真っ先に植え込みがない庭へ幼い息子たちのために小さな砂場をつくった。夏はそこでいつも素っ裸で砂と戯れた。門構えの鋼材を組み合わせただけの簡素な格子扉は、父が錆び止めのペンキをしつこく塗り重ねたために妙にエッジが甘くなっていた。玄関を出て、庭を横切り、格子扉を押しあけて自宅南の通りに出る。自家用車がやっと一台通ることのできる道路は未舗装で、車が通ると土煙があがる。次第に轍が育ち、所々がこぶのように盛り上がっている。雨が降ると光景は一変する。くぼみに水たまりができて、まるで怪獣の足跡のようだ。そんな日は長靴をはいて歓喜の声をあげながら水たまりに何度も身を投じた。自宅前の未舗装道路のさらに南は宅地造成された空き地だ。そこに入るのは子どもたちぐらいで、人通りのある自宅前の道に比べ平たく感じた。空き地を突っ切りさらに南に行くと今度は車が往来できるほどの通りが現れる。家は通り沿いにぽつぽつと建っているのみで、その他はすべて空き地。そこから先は緩やかな雑木林になっていた。この雑木林は名のついた山として意識することはなかったが、いつもそっと背景にあって支えてくれるような頼もしさがあった。その雑木林は私たちが暮らす宅地の延長上にあり、私が小学校にあがる頃に開発の手が入った。私はブルドーザーが灌木をなぎ倒していくのをぼんやりとながめていた。ブルドーザーの排気音が瞑想にふけりそうなほど単調でやるせない響きだった。土地が削られる前の木々のない丸裸の地表の起伏は私が想像していたよりもずっと穏やかだった。その小さな落胆がまた小さな喪失感を生み、私の中に居座っている。私は平らにならされた空き地の背の低い雑草が織りなす絨毯の上を駆け回り、虫かご片手に毎日バッタを追った。

私の原風景をたどり描くとこのようなものだ。故郷(ふるさと)というには何かが足りなく、気恥ずかしい感じもする。私の「故郷」というものに対する勝手な思い込みかもしれないが、私とその土地との切っても切れない何かは存在しないように思う。故郷と問われれば、私は自然に「名古屋」と答え、名古屋に土地勘のある人には名古屋市南の郊外「天白区」と返した。無味乾燥な地名には私の血縁も地縁も感じられない。場所のポイントを差しているにすぎなかった。近所付き合いに楽しい思い出は残っているが、この新興住宅街に移り住んだ人々はどこから来たのか、それ以前はどんな生活だったのか知る由もなかった。
もし自分に「帰るところ」を問うたならば、郷愁たっぷりに、人々が集い暮らすその土地を呼ぶことはまずもって、ない。私には故郷はないのかもしれない。
だから、私にとって「故郷」というのはいつも心の片隅で常に進行形のテーマとなって横たわっている。
「帰るところ」がない、というのではもちろん、ない。「故郷」を持ち得ない私は「帰るところ」が場所を示す一言で言い表されるものでなく、明晰な感触を持った質感の断片を寄せ集めたものとなる。整理がつかず、もやっと膨らんだり、しわしわにしぼんだりを私の中で繰り返している心情の塊。

元旦、私の両親が住む実家に行く。自家用車を15分も走らせれば着く距離だ。私は亡くなった兄が暮らしていた築30年を超えるマンションに暮らしていて、かつて住んでいた分譲住宅から北東2、3キロの所だ。一方実家はというと、私の原風景の大部分を占めるかの分譲住宅の南1キロ、雑木林があった小高い丘の一戸建てに移った。そう、かつてブルドーザーが 灌木をなぎ倒していた、その辺りだ。この十数年ほどというもの絶え間なく工事が続き、地面は巨大な重機で、根こそぎ平滑に造形され、「環状2号」なる幹線道路が私たち家族が住む場所から実家近くを直線的に結ぶように伸びている。自家用車を実家に向けて走らせながら幹線道路の工事の規模の大きさを思う。

(私の心の支えになっていた)あの雑木林をさらに南に歩を進めると小高い丘を越え、地層が露出している斜面が現れる。それを横に見ながら峠道にはいる。その道は尾根伝いをトレースしていて大蛇のように曲がりくねり、新しい時代のものではないと誰もが気づく。その峠道は「山賊峠」と呼ばれていた。私の想像が及ばない時代のエピソードが所以になっている地名であることは明らかだった。当然、私たちの時代には山賊は存在しなかったけれど、私はこの峠道だけは暗くなってから通るのはよそうと固く心に決めていた。
その山賊峠は今は陰も形もなく、それどころか尾根がまるごと失われている。人間の都合によって平らにならされ、そこには巨大な幹線道路が穿たれている。
幹線道路を車が走る。
「慧地、この辺りに山賊峠という山道があったんだよ。」と息子に語りかける。かつてあったたおやかな起伏の地面を想像に浮かべる。そこを鋭利なナイフで裂いて進んでいくような気持ちにかられ、痛い。

「故郷」の全体像は簡単には描けないけれど、今日その断片の一つを拾った。