Nobuyuki Takahashi’s blog

2011年 1月 27日のアーカイブ

きれいごとではすまされない

2011年 1月 27日

「やさしい美術」という名称は、血の通った体温を感じ、人と人とがかかわり合うやわらかな空気感を伝えてくれる。その点では誤ったネーミングだとは思わないし、後悔はしていない。それどころか今ではその意味を問い続ける自らに課した刻印のように感じることさえある。しかしその甘美な響きの裏で、取り組む学生たちに葛藤の日々が待ちうけている。
私はいつも学生といっしょに病院に行き、そこで感じたことや向き合ったことから始めよう、と呼びかけている。ともかく彼ら彼女らが始めたことはすべて受け入れたい。でもそれは「なにをやってもいいよ。」と放任することとは異なる。各々の制作過程に立ち会い、悩みに付き添い、搬入まで見届けるのが私の仕事だ。制作過程で学生は様々な障壁を経験する。普段は隅において見向きもしないこと、できればその場から逃げたくなること、無意識下に葬り、浮かび上がってほしくないことと対峙することになるのだ。
病院に行き、病室をまわり、入院患者さんにお話をきく。時に出会った人から「生」への渇望が伝わってくる。また時にはその人に迫る「死」を感じることもある。目と目を合わせることでその向こうにある過酷な状況が自分の側に浸透してくる。現場で感得することのなんと多いことか。「病院」という薄っぺらな固定観念は現場で書き換えられていく。消毒液のにおい、汚物のにおい、絶えることを予感する呼気の臭気…。施されたガーゼにうっすらと血液と軟膏が滲んでいる、数々の点滴で青く固くなっている皮膚、のどからしぼりだされるかすれた声、長期の療養で暗く淀む歯間…。
この時点で「福祉に興味があるんです。」「人の笑顔をつくりたい。」「楽しみを与えたい。」「癒してあげたい。」とその場をとりつくろってきたきれいな言葉たちは根こそぎ吹き飛んでしまう。「アートで人を癒す」なんてとんでもない―。そんなこと誰が言えようか。自身でしかと握りしめてきたはずの念いははぎ取られ、丸裸になった自分がそこにいる。
自分のこれまで培った経験と感性を総動員して病院で時間を過ごす人々と接する。そこにいる人々に自分自身を重ね合わせる。重ね合わせるまででなくともその人の身になってその人の目線で周りを見渡してみる。それはどう感じられるか、どう見えるのか。
とても整理がつかない感覚の塊を携えて病院を後にする。「私に何ができるのだろう。」自己の深部に降りてゆき、そこで現れては消える声にじっと耳を傾ける。
向き合いたくないことに向き合うとは、どういうことか。
それは例えば、自分の肉体は他者と同じように脆く傷つきやすいということ。例えば、人生の歩みの先には病があり、死があるという現実。毎日を楽しく過ごしたい。でも遠く追いやっても蓋をして隠しても死は確実に、誰にも等しく訪れる。
もっと些末なことにもぶつかる。手間がかかって大変そうだ。プロセスが多くて面倒だ。自分のピュアな表現なんだから誰かに介入されたくない。課題を提出するのに目一杯でそんな余裕なんかない。好きな時に好きなことを自由に表現していたい―。
アートへの信頼感と対決することもあるだろう。「アートだから、人を癒す力がある。」「アートは活力を与えるから病院に展示しても良い。」
本当か。
それでいいのか。
悩んで当然だ。
そもそもこうした問いに真剣に向き合ったことがあるか、と言いたい。
見たくもない自分の一面を見る。己の弱さ、身勝手さ、汚らわしさに嘔吐する。むき出しの感情が自身の中で争いせめぎあう。無力感に苛まれ立ち上がれない。お前がやってきた表現って何なんだ。お前が作品と呼んでいるものに何ができる。今目の前にいる人に さあお前は何をするんだ―。

そこが出発点だ。

やさしい美術の実態はどろどろの活動なのである。