Nobuyuki Takahashi’s blog

2013年 4月のアーカイブ

宮城県七ヶ浜町 らせん

2013年 4月 14日

鼻節神社を左に見ながら山道をしばらく進んで行くと花渕灯台に着く。想像していたより大きく立派な灯台だ。同行してくれたRSYの郷古くんに「僕の10歳の誕生日プレゼントはね、灯台の絵が欲しいって親に頼んで知人に油絵を描いてもらったんだよ。」となつかしいエピソードを話す。灯台のさらに向こうにけもの道が続く。松葉で覆われた道は滑りやすいが適度な弾力が心地よい。しばらく進むと怒濤の響きが近づいてきた。海は近い。松林の隙間から荒々しい海が見え隠れする。ほどなくして松林を抜けると岩場の絶壁が現れた。瀬戸内海を見慣れた私にとって、別次元の海だ。海流が早く、海に落ちたら岩に打ち付けられるのは必至だ。足下をすくわれるような猛々しい怒濤を目の前にして、早々に退散する。三方を海に囲まれた七ヶ浜町。海の表情は同じ半島でもこれほどまでに違うのか。
鼻節神社を参拝。森のいたる所に樹木に巻き付いた蔓を見つける。折れた枝、立ち枯れた大きな幹を巻き取り放さない。中には樹木の成長が蔓の力と拮抗してめり込んでいるものもある。
螺旋。一つのキーワードが浮かぶ。渦巻く海と山の蔓は原初的な造形をもたらしている。
吉田浜には多くのヨットが停泊しているのが見えた。花渕の猛々しさとはうってかわっておだやかだ。RSYの郷古くんの話しでは小さな浜にはボランティアの清掃活動をしていないところもあるようで、その一つに立ち寄ってみる。やはり流れ着いたがれきがある。一方で流木も見つけることができた。角が丸くなった家屋の梁や柱もある。その一本を2人で車まで運ぶ。枘穴のエッジはシャープにのこっているが、角材とはいいがたいほど波に洗われて材の素性を露にしている。何か語りかけてくるようで、持ち帰ることにした。
代ヶ崎浜の周辺も津波の水が入った場所だ。火力発電所が援衝となって津波の直撃を免れたお宅もあったというが、水がとぐろを巻いた、という話しも聞く。海苔を巻く大きな円筒形の構造体を見かける。どのように使うのか皆目見当がつかないが、資料などで後に調べておきたい。わかめ漁の漁師さんが大量のロープを丁寧に巻き積み置いている。ここにも螺旋を発見。
東宮浜は工業地帯だ。工場が立ち並ぶ。この辺りは地盤沈下が激しく、雨や大潮のときは冠水するらしい。一見平静を取り戻しているように見えるが、改めて地震の理不尽なエネルギーを感ぜずにはおれない。
道中、通学途中の中学生たちを見かける。向洋中学校と七ヶ浜中学校の生徒だ。青白のジャージと黄青のジャージはよく覚えている。仮設住宅の表札を作る時、そして仮設店舗の看板を作る時も中学生らはいつも参加してくれた。生徒さんの一人に「先生、美術教えに来て!」と言われたのが印象にのこる。七ヶ浜中学校は地震によって建物が損壊し、一時向洋中学校で授業を受けている生徒もいるようだ。
歴史資料館を訪れる。資料館は残念ながら閉館間際、貝塚跡地のみ歩く。芝と桜で整備が行き届いていて、知らなければここが貝塚が多く出土していることに気づかないだろう。縄文時代、弥生時代、そして古墳時代に通じて貝塚が層を成している場所もあるそうだ。6mの縦穴を掘った調査保存のためのサンプルもあったそうだが、今は埋め戻されている。
もう一泊することに決めた。明日は歴史資料館をゆっくりと訪れたい。
きずな館に帰ると午前中に出会った漁師さんが大きな鍋に一杯のわかめと白魚を差し入れしてくれた。
わかめのしゃぶしゃぶをすることになった。湯通しした瞬間に美しいグリーンに発色する。新鮮なわかめだからこそだ。ジャガイモとわかめ、シーチキンの煮付けも食す。(つづく)

花渕灯台を見上げる

猛々しい海の表情

蔓がめり込む樹木

海苔を巻く構造体

螺旋を描くロープの集積

宮城県七ヶ浜町 海とともに生きる

2013年 4月 13日

松ヶ浜を抜け菖蒲田浜に入る。
漁師さんが網にかかった白魚を笊にあげている。日に焼けた顔は海の男そのもの。「俺たちは海とともに生きて行かねならんけど、海に恨みを持っている人もいるんだぁ…。」海に出ること、海の幸を生業とすることの複雑な心境が伝わってくる。
「釣りキチ七ヶ浜」は釣りに訪れた人が釣り道具や餌を買いにくるお店。海岸に立地しているので、まともに津波をかぶっている。それでも店主さんは震災後いち早く自分の手で小屋を再建し、展望室を屋上に設えた。浜に入る道で真っ先に目に飛び込んでくるプレハブ小屋はまさに海とともに生きることを表明している。 この展望室から一本松を一望できる。菖蒲田浜にも一本松があるのだ。波打ち際にせり出しているたった一本の老松。根は岩を掴むように伸び、枝ぶりはむしろ貧弱で、力強さと儚さが同居している。「釣りキチ七ヶ浜」の展望室から眺めた一本松や朝日の写真が室内の壁を埋め尽くしている。その中でひときわ目をひいたのは手ぶれの激しい濁流を写した写真。津波が押し寄せた時のものだ。ウミネコやカモメを餌付けしているので、間近に鳥が見られて楽しい。
昼食後は高山の海水浴場にも立ち寄る。白波の合間に黒いドットのように見えるのは浜に帰ってきたサーファーたちだ。2年前は流れ着いた大きなコンテナが砂浜を占拠していた。独特の景観を構成する浸食した岩場は変化に富んでいて近づいてみると粘土質の地層だったり、火山性の礫を含んだ安山岩の塊であったりする。遠浅の海から続く浜の集落と高台の住宅地が広がる内陸部とは断崖状の線でひかれる。この高台と浜の境が水の入ってきた領域とそうでなかった領域の線でもあり、同時に昔から浜で暮らす人々と新興住宅が多い高台を分つ。
だからこそ、昨日のワークショップ「きずな公園をつくろう」で、参加した住民の方々のほとんどが「七つの浜」とそれをつなぐ「海」をキーワードにあげていたのだろう。そして将来を託す「子どもたち」が宝だ、との声も多かった。浜ごとに自律していたコミュニティーが震災をきっかけに浜同士をつなぐ結束になる、そんな希望を抱いているようにも感じる。(つづく)

限りなく透明な白魚

海とともに生きる釣りキチ七ヶ浜

一本松

ウミネコとの対話

帰ってきたサーファー

宮城県七ヶ浜町 触れる

2013年 4月 12日

6:00起床。早朝の菖蒲田浜を歩く。
私が4月に七ヶ浜町に来たときは流された家屋、車、名付けることのできないものたちが流れついていた。中には車が突き刺さっているお宅もあった。「がれき、と呼びたくない」そんな言葉が頭をよぎった。
9:30朝食を済ませ、災害救援NPOレスキューストックヤード(※以降、RSYと表記)の郷古くんといっしょにきずな館を出発。七ヶ浜町に由来となっている七つの浜をめぐる。
三方に浜を擁す七ヶ浜町の南部を訪れる。湊浜は半島の付け根の辺りの地区。傍らに製油所があり林立する煙突が印象にのこる。湊は「水門(みなと)」が語源になっているようで、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、蝦夷征伐に上陸した『竹ノ水門(たけのみなと)』だった、と言う伝説がある。地層が露になった断崖には横穴の墳墓跡があり、その根元には昔使われていただろう井戸を見つけることができる。使われなくなって久しいこれらの井戸も震災直後は使われたことがあったそうだ。浜は遠浅の海となだらかに地続きで、内陸に入ったある地点から断崖状の高台となる。
粘土質の地層から水が滲み出している。縞紋の濃い粘土塊と溶岩と思われる重たい火山岩を採取する。

2011年4月 七ヶ浜町にて

2011年4月 七ヶ浜町にて

井戸や鉱泉水がいたる所にある

地層から滲み出す水

採取した土

宮城県七ヶ浜町 声

2013年 4月 8日

きずな館に戻り、今日のワークショップ「きずな公園を作ろう」を振り返る。七ヶ浜町の住民の皆さんが語った様々な思いのかけらを集め、エレメントを掬い出してみる。
それらは言葉の断片ではあるけれど、話し合いに加わったことで言葉の背景にあるもの(こと)やニュアンスが感じられた。現場でしか捉えることのできない感応の質感。次に何をリサーチすればよいか、自ずと見えてくる。
まず、きずな公園候補地の現場を隅々まで味わいつくしてみる。そして、三方を海で囲まれている七ヶ浜町をじっくりと時間をかけて歩いてみる。行く先々で土や植物、瓦礫、漂流物など、ありとあらゆるものに触れ、収集してみる。「石塊の声を聞く」ことが次にやるべきことだ。
翌日は七ヶ浜町の由来となる七つの浜を巡ることにした。災害救援NPOレスキューストックヤード (※以降RSYと表記)の郷古くんが 水先案内人となってくれる。(つづく)

津波で甚大な被害のあった菖蒲田浜。津波で流されたお宅にのこる基礎部分。

宮城県七ヶ浜町 モニュメントプロジェクト始まる

2013年 4月 7日

4月4日から6日まで、宮城県七ヶ浜町に行ってきた。
災害救援NPOレスキューストックヤード(※以降RSYと表記)との連携で新しいプロジェクトを始めるためだ。 RSYは東日本大震災直後に現地に入り、災害救援、支援活動を展開。私はRSYがコーディネートする第3陣ボランティア派遣活動に参加したのが縁で、仮設住宅の表札を作るワークショップ、その後は仮設店舗の看板を作るワークショップを担当した。いずれも瓦礫を単なる瓦礫としてでなく、記憶を宿した大切な資源として活用。津波で流されてしまったお宅のかろうじて遺った土台木を活用して制作した。
東北行きは昨年の10月に「森をつくるおりがみMorigami」(デザイン:谷崎由紀子)を手渡しする活動で訪れて以来半年ぶりだ。七ヶ浜町のボランティアセンター前に設置された「きずな館」にいつもお世話になっていたが、3月末に閉所式があり、4月中旬にプレハブは解体されるとのこと。RSYは新拠点に移転して、ひきつづき現地で支援活動を続けるそうだ。その取り組みの一つとして「きずな公園」を整備する計画が進んでおり、私たちは公園内に設置する予定のモニュメント制作を受け持つことになった。
さて、今回の七ヶ浜行に話しを戻そう。
電車とバスを乗り継ぎ、13:00に七ヶ浜町に到着。お腹がすいたので仮設店舗「七の市商店街」のお店の一つ、「夢麺」へ。「いらっしゃい!!」威勢のいい大将の声。久しぶりの再会だ。塩ラーメンと餃子を食す。
ラーメンを啜っているとRSYの浦野さんから電話が。「今日のワークショップの打ち合わせをしましょう」とのこと。食事を済ませてそのまま中央公民館へ。RSYの代表理事栗田さんと初めてのご挨拶を交わし、さっそく今日行うワークショップの打ち合わせに入る。
13:30RSY主催のワークショップ「きずな公園を作ろう」が始まる。住民の皆さんが30〜40名ほど集まっているだろうか。親子連れも多く、皆で子どもたちの公園を考えて行こうという機運に満たされている。
栗田さんの歯切れのいい司会で、ワークショップは進んで行く。
植栽や複合遊具などを請け負うのは岩間造園株式会社。基本構想の説明が続く。公園整備事業を全面的にバックアップするのはブラザー工業株式会社だ。
モニュメント制作に関してはたった5分の打ち合わせの後だったが、私の方から住民の皆さんにいくつかポイントを説明した。「ここ七ヶ浜町にあるものを使います。」「ここで暮らしている皆さんといっしょに作ります。」と呼びかけ、ひとりひとりが思い描いている七ヶ浜町、町でのこっているもの、のこしたいもの、後世に伝えたいこと、大切にしたいこと、町の誇り、宝などのキーワードを挙げてもらうようお願いした。
ワークショップは7〜8名のグループがそれぞれテーブルを囲んで進められて行く。小気味よく時間を区切って、ひとりひとりの思いや考え、アイデアなどを集め、付箋でマッピングして行く。ブレーンストーミングの集合体と言ったら良いか、活気のある議論がそれぞれのテーブルで交わされている。
14:30それぞれのグループの意見の集約を試みて、発表する。大人だけのテーブル。子どもたちだけのテーブル。女子グループだけのテーブル…。論旨をまとめるというよりは一つのものを皆で生み出して行くための言葉と感性のかけらを集め、それを皆で共有する場。私たちはそれを引き受けて次なるプランを構築して行くことになる。15:00ワークショップ終了(つづく)

きずな館と救援活動用のベンツジープ

枝分かれプロジェクト

2013年 4月 1日

瀬戸内国際芸術祭2013が始まって10日が過ぎた。
展示の公開、カフェの運営、ガイドも軌道に乗って、一安心だ。
昨日は今回の芸術祭で初めての試みとなる「貯水池ガイドツアー」を実施。無事に来場者の皆さんをご案内できて緊張も解けてきた感じだ。
ハンセン病療養所大島の北部にある居住者寮のエリアを「北海道」と呼ぶ。入所者が小さな大島を日本に見立ててつけた愛称で、入所者のユーモアを感じる。その北海道エリアにある15寮と12寮をやさしい美術プロジェクトは展示で活用している。発掘した木造の舟を展示するために 15寮の一部は床下が大きく掘られている。来場者の方々から「掘った土はどこに行ったんですか?」と質問される。無理もない、ダンプ2杯分はゆうにある大量の土砂だ。

さて、それらの土はどこに行ったのか。種を明かすというほどのものでないが、土の行き場は2010年より海岸から引き上げられた、あの解剖台の土台と15寮前に均された土盛りだ。
昨日、入所者の野村さんと15寮前で雑談、この15寮の土盛りをどうしようかと。
「スイカでも植えるかのう。」「フルーツトマトもええぞ。」「スイカのあとはサツマイモはどうじゃ。」とアイデアがい次から次へとわいてくる。僕らが汗水たらして掘った大量の土砂はそのままで肥料をあげれば、野菜が育つとのこと。
芸術祭の作品から派生し枝分かれして現れた新たなるプロジェクト。そこから醸し出されるやわらかな空気は来場者にもじわりと伝わっていく。

解剖台の土台に使われた15寮の床下の土。

15寮前に均された土盛り。

たったひとりで貯水地の集水溝を切り拓く入所者の脇林さん。