Nobuyuki Takahashi’s blog

大島 ツーリズムとかつおのたたき

草むしりにいそしむ

草むしりにいそしむ

7:00 起床。8:00に朝食を済ませる。
9:00 大島の北、風の舞近くの畑に行く。すると、かけ声がこだましている。「おーぃ、やとるかぁー。」「やっとるよー。」「つらいなぁー」「おう、つらいよー。」他に雑音が少ないからだろうか、体の芯に響く声だ。現在は入所者の4〜5名のみが畑仕事をしている。数十年前に遡れば、このような労働時の歌やかけ声が大島全体に響き渡っていたに違いない。私はこの声を作品にしようと考えている。
畑を耕す入所者に教わりながらタマネギのまわりの下草をとる。たかが草むしり、されど草むしり。よく似た雑草もあり、簡単ではない。入所者の多くはハンセン病の後遺症で手先に感覚がなく、かたく縮んでしまっている。「わしら、手が悪いから、あんたらのように器用に草がとれない。助かるよ。」とおっしゃる。心地よい風が海から山の斜面をたどってやってくる。私が野菜を写真に撮っていると、「写真撮るんだったら、こっちもあるよ。」と案内されて山道を行くと突然視界がぱっと開け、そこに一面の水菜が風に揺れている。瑞々しく神々しい野菜たち。私は夢中でシャッターを切る。
11:00 野菜をしこたまいただく。「明日の朝も来ます。」翌日の約束を交わし、面会人宿泊所へもどる。
12:00 職員食堂へ。ボリュームたっぷりのチャーハンを食する。
13:00 入所者自治会に行く途中で写真のワークショップ担当の脇林さんと会う。自治会会議室に続々と入所者の皆さんがやってくる。11:30ごろに着いたツーリズム参加者は、青松園福祉室作業部の職員大澤宏敏さんのレクチャーを聞いたのち納骨堂と風の舞を参拝。大澤さんは入所者の近くで働いて、大島の暮らしをそばで見て来た。入所者と日々接している方が大島の歴史や入所者の暮らしの現状を語ることでツーリズム参加者は、大島のイメージを的確に捉えられただろう。
ツーリズム参加者はNPOアーキペラゴのスタッフを含め15名。入所者自治会の事務所はにわかに熱気に包まれる。
最初に私から来年の瀬戸内国際芸術祭で行う「名人講座」について説明する。今回のツーリズムはそのプレイベントでもあり、大島を訪れた人々が再び来ていただけるような交流が生まれることを目標としている。
時間が充分にないため、すぐに3つの名人講座に分かれる。自治会会長森さん、副会長野村さんのお二方で施設めぐり、入所者脇林さんは写真、入所者山本さんは陶芸。私は脇林さんのグループでお手伝いすることになった。
13:30 名人講座開始。脇林さん担当の写真講座には私を含め4名が参加した。
脇林さんが写真を撮り始めたきっかけに始まり、写真を通して何を感じ、何を得たかを丁寧にお話しいただいた。
脇林さんはワープロやパソコンで文章を作成していたが、ある日原稿に挿し入れる写真を撮るためにコンパクトタイプのデジカメを購入した。齢70歳にして始めた写真はデジタルだった。写真を撮るようになり、たくさんの「気づき」があったという。それまでは飾られる花しか目に入らなかったが、道ばたに咲く野の花も等しく美しい。レンズを通してみるものすべてが新鮮に映った。
「私は南極やアフリカの辺境の地に行って写真を撮ろうとは思いません。この大島にすべてがあります。私は大島で写真を撮り続けます。」脇林さんは50年以上この大島に強制隔離されてきた。でも脇林さんは「大島でしか写真が撮れない。」という言い方は一切しない。国の誤った政策に翻弄され、束縛され、断絶させられたハンセン病回復者は今、自分の意志で、向き合うべきものに向き合っている、その事実が私たちを大きく揺さぶる。よく考えてみれば、入所者とは異なった生活をしてきた私たちも、勝手気ままになにもかも自分の意思決定で生きているわけではない。無論、入所者が経験して来たことと私たちの日々の経験の重さは比較にならないが、私たちも同じ地平に生き、同じ日本で暮らしていることを忘れてはならない。「感覚が重なる。」その意味で私たちは社会交流として入所者との共感の場を得る意義は極めて大きい。そもそも「入所者と私たち」という構図がなくなる瞬間が生まれればー。そんなことを考えながら、脇林さんの言葉に耳を傾ける。
今回の写真ワークショップは「松を撮ろう」。大島を象徴する松は青松園の歴史100年間を越えてこの島を見つめて来た証人だ。大島の原風景であり、入所者の生活の一部である。その松を入所者と共に撮影する。それぞれの視点で撮影した松をワークショップ参加者で鑑賞し、「大島の松」を浮かび上がらせることができたらと思う。

けもの道に入ると脇林さんの足はさらに速くなる。

けもの道に入ると脇林さんの足はさらに速くなる。

自治会を出て松の木をめぐる。北に歩き、宗教地区を通り、さらに北に向かうと畑が現れる。今朝野菜をたくさんいただいた場所だ。そこからさらに山道に入っていく。脇林さんは山に入ると俄然足が速くなる。入所者の多くは後遺症で足が悪いのだが、全くそんなことを感じさせない。「大島が見渡せる撮影スポットに行きましょう。」脇林さんの顔が輝く。山道から茂みに入るとけもの道が現れる。足場は悪い。そこをぐいぐいと脇林さんは突き進む。信じられない早さだ。ほどなくすると木々が生えていない草むらが開けてくる。そこに金色の光が射している。トンネル状の茂みに再度入ると、脇林さんの足がようやく止まる。ふと右手を見ると大きな広葉樹にはしごが掛けられている。脇林さんが担いできて掛けたはしごだ。「皆さん、登ってみてください。」と脇林さんが促す。まず最初に私が登る。安定感とはほど遠いなんとも心細いはしごを一段一段確実に登って行くと、突然視界が開ける。
「わー、すげー。気持ちいいっ!」瓢簞型の大島の全体が見渡すことができる撮影スポット。ここに来れば鳥のように舞って俯瞰するような視点を得ることができる。そうか、脇林さんは大島の上を飛ぶことができるんだ。この爽快感はどう表現してよいか。はしごを降りて行くと脇林さんが秘密基地に仲間を連れて来た少年のようににこにこしている。ワークショップに参加した3人が1人ずつはしごを登る。皆、のぼるのは恐る恐るだが、一旦登りきってしまうとなかなか降りて来ない。開放感に包まれながら夢中でシャッターを切っている。

はしごに登るとそこにはー

はしごに登るとそこにはー

はしごの掛けられた木陰で脇林さんとしばし語らう。今回の撮影スポットは脇林さんによれば「初心者むけ」だそうだ。ほかの撮影スポットはもっとハード。実際行ったら私たちは脇林さんについて行けるのだろうか…。
全員がはしごから降りてきてけもの道をトレースしながら下へ下へと降りて行く。この時の脇林さんも足が早くて、ちょっと油断すれば見失いそうだ。私を含めたワークショップ参加者は山を登った後、緊張していたかたい意識が解きほぐされたようだ。考える前に感じたものを写真におさめていく。その様子を静かに見守る脇林さんの表情はとてもいきいきとしている。
15:30 自治会事務所に戻る。それぞれ撮って来た写真データを私が持参したPCに読み込む。会議室に置いてある液晶テレビに今日撮影した写真を見ながら、感想を述べ合う。鑑賞の時間は充分にとれなかった。今後に課題を残す。
ともあれ、ワークショップの参加者も入所者脇林さんも心地よい疲労と開放感で自然と笑顔がこぼれる、

出航する官用船せいしょう

出航する官用船せいしょう

16:00 今回のツーリズム参加者全員が船着場に集合し、高松行きのせいしょうに乗船する。「また、大島に来たい。」という声があちこちから聞こえてくる。乗船した皆さんは何故かデッキにいて、船室に入ろうとしない。見送る私たちやさしい美術プロジェクトの高橋、泉、井木、入所者の脇林さん、自治会長の森さん、福祉課職員の大澤さんらが見送る中、船出の時をむかえる。皆で手を振る。その時脇林さんが私の横に来て「今日は遊ばせてもらいましたわ。はははっ!」とカメラ片手におっしゃる。手を振る皆さんを脇林さんはひたすら撮影する。自らわき起こる感情さえもレンズを対象に向けシャッターを切るという行為に集約していく。小さくなって行く官用船せいしょうをいつまでも撮影する脇林さんが逆光に照らされている。ツーリズムの幕がゆっくりと降りて行く。
余韻をかみしめながら、各ワークショップの片付けに入る。特に陶芸室は準備したものをすべてもとに戻さなければならない。陶芸室に行くと、大島焼ワークショップ担当の入所者山本さんが片付けをしていた。「山本さん、やっぱり大島の土に触れていただくのが一番ですねー。」と話しかけると、

窯だしした大島焼

窯だしした大島焼

「私らにはそれしかないけんね!」とおっしゃる。棚には今日の成果物、大島土で作った食器類が並ぶ。山本さんはそれらを眺めながら「また、人が来て、自由に何か造っていったらいい。」次の展開につなげていくのは私たちやさしい美術プロジェクトの役割だ。
片付けを終え、一旦面会人宿泊所にもどる。自治会副会長の野村さんに電話する。10月に大島に来た時に野村さんから「今度来たときはいっしょに飲もう。」と誘っていただいた。とてもうれしかった。次の大島行きで私は日本酒を一本お土産にお渡しした。そして、今日ツーリズムを無事に終え、野村さんのお宅で宴の席を設けていただいたのだ。
17:00 15寮近くの野村さん夫婦のお住まいに行く。奥様と野村さんが笑顔で出迎えてくれる。部屋のつくりは私たちが整備している15寮と全く同じ。家財道具を入れると決して広くはない。台所の奥の6畳間に通されるとテーブルの上に取り皿とお箸が設えてある。うれしくて体が震えてくる。
野村さんは高知県出身で、故郷とは弟さん通じてつながっている。お母様が6年前に亡くなられたそうだが、偏見と差別の時代を乗り越えて、故郷とのつながりを保ち続けたのは息子を念うお母様の並々ならぬ努力によるものと聞いた。長生きをしたお母様の励みは故郷と野村さんとをつなぐ念いの強さの現れだ。野村さんは今日のために高知に連絡して、

刺身の切り身をつくる泉と井木。

刺身の切り身を盛りつける泉と井木。

昨日捕れたかつおのたたきを大島まで送っていただいたのだ。さっそく井木がかつおのたたきを包丁で切り身にする。大皿に載りきらないほどのかつおのたたき。切り身の大きさは大きい物で八センチ四方もあろうか。「この季節のかつおは、もどりがつお、と言ってな、脂が乗ってておいしいんよ。」瀬戸内にいて太平洋のかつおが食べられる。何か不思議な感じだ。ビールを飲み、私が持って来た日本酒、野村さんが用意してくれたワインも合わせてごちそうになる。途中自治会長森さんも加わり、にぎやかな宴会になった。

こんな肉厚のかつおのたたきは食べたことがない。

こんな肉厚のかつおのたたきは食べたことがない。

いっぱいいっぱい話した。中でも心に残ったエピソードをいくつか記しておきたい。
大島の納骨堂の中に入ると位牌がずらりと並ぶ。私は2度ほど入らせていただいたが、その鮮烈な体験は忘れることができない。故郷に帰ることが許されず、この大島に骨をうずめた人々のお姿を私たちは拝見したのだ。私は気づかなかったが、亡くなられた方が多い時期があるのだそうだ。やはり、戦時中の厳しい最中が一番過酷で、亡くなられた方が多かった。自ら命を絶った仲間もたくさんいる、そう野村さんはおっしゃる。冷たくなった躯と化した仲間を抱き上げたときのその重さと冷たさが今も鮮明に蘇る。
昔は看護師をはじめ療養所の職員はわずか。比較的症状が軽い者が重症者の面倒を見る。信じられないような重労働と精神的苦痛を強いられ、将来は暗黒。その闇の中をくぐり抜けて来た入所者。看護師や医師は全身白衣とマスクで目しか見えない出で立ち。病棟はともかく、入所者の居住者棟に問診の際は長靴のまま土足で部屋に入って来たという。たまりかねて問診にやってくるときは新聞紙を床や畳に敷くようになったそうだ。
21:00 入所者の多くは床に入っている時間だ。私は酔いと疲れで途中睡魔に襲われていたが、野村さん夫婦、森さんは終始矍鑠としておられた。すっかり遅くまでお世話になってしまった。片付けをして野村さんのお宅を後にする。「また大島にいるときは、いつでも来たらいいけん。その時はまた飲もうな。」野村さんのうれしい言葉が響く。森さんがほろ酔い気分で自転車にまたがる。「だいじょうぶですか、気をつけて下さいね。」「大丈夫、大丈夫。」遠ざかる森さんの背中を3人で見送る。
野村さんは今年中に新しく建てられた一般寮に引っ越すのだそうだ。今日の宴会はあの長屋で最後の宴の席だったのかもしれない。野村さんの住む寮から面会人宿泊所まで、道中オリオン座を見ながら、泉、井木と来年の自分たちを想像する。
23:00 就寝