Nobuyuki Takahashi’s blog

大島 15寮廊下整備

6:30 起床。7:00からの放送を録音する。毎日食事の献立や行事がアナウンスされるのだ。朝食を準備ニュース番組を見ながらコーヒーを愉しむ。
8:30 15寮に行き廊下の整備作業に入る。9:30に畑で入所者の大智さんと約束しているのでそれまで少しでも作業を進めておく。先週ぶち抜いた縁側部分を必要な下地のみにまで手を加えておく。次回は床張りや壁を納めるなどの作業に入りたい。
9:30 大智さんに会いに行くと昨日と同じように畑を鍬で耕している。白い粉がまぶしてあったので何かたずねると、米ぬかとのこと。こうして今時分に土を作っておいて7月にトマトを植えるそうだ。畑仕事の時間のスパンは宇宙的だ。巡ってくる季節と対話している。

丁寧に材料をはずしていくと床と壁の構造体が現れた

丁寧に材料をはずしていくと床と壁の構造体が現れた

再び15寮の作業に戻る。先週のぶち抜き作業はおおざっぱな作業だったが、今日の作業はどの材を残し、どこを取り除くか、先を読みながら丁寧に進める。こうした作業がいつも私一人になるのがもったいない。手伝って欲しい、という意味ではない。材料を丁寧にはずし、釘を一本一本抜いて、建物を建てた職人さんの仕事を追いながら仕事の納め方や材料の加工などを覚えられるからだ。現代ではハードは人間不在のため使い物にならなければ総入れ替えという時代。その最たるものは電子部品だろう。今在るものを活かし、時には先人の仕事を受け継ぎ、あるいは尊敬の念を持って手を加えていくことは思いついてできることではなく、受け手の覚悟と熟達が必要だ。繰り返し学ばなければ身につくものではないのだ。こう言うときこそ、学生が下手なりに作業を覚えて行けば、知恵も自信もつくのに、と思いつつ…私の経験値だけがまた伸びて行く。
昼食後も15寮で作業。
2:00 15寮のとなりで暮らしている入所者Aさんが作業中にやってくる。はずした材木がたくさん出てきたのでそれを薪に使いたいとのこと。「ここで何するの。」とたずねられ、芸術祭に向けてギャラリーに整備すること、展示は大島の声や暮らしを美術的にディスプレイするというお話する。その中で大島を象徴する松をテーマにした展覧会を企画していると話すとAさんは滔々と昔の大島について語り始めた。50年前の大島は松林で青々としていたそうだ。当時の園長が松を決して切らせず、建物や施設は松を避けて建てられた。立ち枯れの松はチェーンソーのないその当時、入所者によって細切れにして薪にし、大島で亡くなったハンセン病患者を火葬した。500人多いときは800人という入所者に対して職員はほんのわずか。ほとんどの作業を入所者自身がすべて行った。病状の悪い人を病状の比較的軽い人が看たのである。聞くだけでも想像を絶する話だ。ハンセン病の患者はガーゼと包帯でぐるぐるに巻かれていた。そのガーゼと包帯は使い捨てではない。なんとリサイクルされていた。まず係りの入所者が軟膏と膿、絆創膏で汚れた包帯とガーゼをくぎで打って広げ丁寧に取り除く。毎日膨大な量だ。それを洗濯係が大きな釜で煮て洗い落とす。洗い上げたガーゼと包帯は物干し場で再び広げられ乾かされる。包帯は特に大量に要るので、巻いて団子状にして病棟に渡す。Aさんは洗濯の係りを7年間受け持ったそうだ。それだけではない食事の時間は配膳に追われ、自分が食べる食事には蠅がたかり味噌汁には蠅が浮いていたそうだ。その頃はそれが当たり前だと思っていた。今思えば地獄だった、そうおっしゃる。注射器も入所者の手で煮沸消毒を行い繰り返し使われていた。とても衛生的とは言えない。そのため入所者の多くは肝炎に罹患している。
今はおだやかに暮らす入所者のほとんどが想像を絶する地獄のような日々をかいくぐってきたのである。私たちが今手を加えギャラリーにしている15寮は昔に比べればずっと暮らしやすく、便利にできている。一見昔の生活をそこから読み取ることは難しい。それでもこの15寮にはまぎれもなく入所者が暮らしてきたという事実がある。だから、ここを使わせていただく。
15:00 つい話し込んでしまい、今日の作業は完了したものの、廊下の工事のための採寸が全くできなかった。でもその分入所者から貴重な話が聞けたのだ。
16:15 まつかぜに乗船し名古屋へ。このブログの文章を帰りの電車のなかで携帯で打つ。