Nobuyuki Takahashi’s blog

記憶の芯

大島に生えた雑草

「エターナルサンシャイン」を見た。5回目だろうか。大好きな映画の一本である。
あるカップルが些細な衝突に明け暮れた末、まずは彼女の方が、精神科のクリニックを訪れて彼についてのすべての記憶を消してしまう。昨日まで恋人同士だったはずが、今日から赤の他人になり、それに耐えきれない彼氏が今度は自分の中にある彼女の記憶を消そうとクリニックに依頼するがー。
記憶の中にいるもう1人の自分が、闇の中に崩れ去って行く記憶を噛みしめながら、消したくない輝かしい日々の記憶があることに気づき、消去作業の途中で「記憶の消去」から逃れる決意をする。記憶の中に生きている彼女の手を引いて彼女が知る由もない記憶の場所、心の深層に逃げ込んで行くのだ。
登場する記憶を消すクリニック院長の台詞が印象に残る。「記憶を消去するにはその記憶の地図をつくり、記憶の芯を確実に除去しなければならない。」
私は記憶とはハードディスクに記録された磁気的な情報だとは思わない。すぐに書換えができて、消去も一発クリック。そんな単純なものではないのだ。
雑草を抜くとその根の深さにおどろくことがある。砂礫を縫って有機的に伸びた根。その根にはびっしりと土がまとわりついている。きれいさっぱり根だけを引き抜くことは不可能と言ってよい。
大島に最初訪れた際、触れるもの見るものからは過酷で悲惨な強制隔離を見てとることはできなかった。強いてあげれば私の予備知識が、微々たる感情を揺り動かしたかもしれない。病院の病室はベッドが置かれている基本構成をのぞき、入ってくる者、出て行く者でその度に刷新され、洗い立てのシーツのように漂白される。むろん、そうでなければ病院は成り立たないのだが。
「記憶はあてにならない。」それも一つの見方。
「存在することの意味はその「意味」を取り去っても存在する。」果たしてそうだろうか。私が他の惑星からやってきた宇宙人だったとして、地球上にある事物を初めて見てどのように感じるだろう。制作を通して、「存在すること」の追求は、自ずと「自分が在ること」に突き当たるのは必然だった。「私」という存在とて、大地から引き抜かれた雑草のように土がついているのではないか。他者の記憶にも生き、場所にも記憶される。それが「関わり」の実体なのだ。
ふたたび、大島に話を移す。大島に通い始めてから約2年半、入所者の方々と出会い、人々の記憶に触れ、私自身の記憶の芯を深く手繰っていく作業でもあった。大島で起きていることは私たちにも起きていることである。足助病院、小牧市民病院、十日町病院、発達センターちよだ、そして大島青松園。やさしい美術プロジェクトの活動は記憶の芯をたずねる旅であり、それはこれからも続く。