Nobuyuki Takahashi’s blog

解剖台修復2

朝一便に女木島で作品を展示しているアーティスト行武治美さんが大島に来島。面識はあったので桟橋で声をかけると「どの高橋さん??」とピンと来ない様子。後でわかったことだが、私があまりにも日焼けしていたのと、ワイルドに麦わら帽子をかぶっていて誰かわからなかったそうだ。「今度はカフェが開いている時に家族で来ます。」とうれしいコメント。
来場者がいなくなった時を見計らって今日は解剖台の向かって右側の破片を組み上げる作業に入る。組み上げる手順通りにボンドで接着していく。昨日の左側に比べてパーツの数は3、4倍で、集中して作業にあたらないと取り返しがつかないことになる。ボンドはエポキシ系の樹脂で、今日のように暑いと硬化が始まるのは2時間ほどだろう。その間に正確に組み付け適所を固定しなければならない。
13:00 組み付けの作業を終える。片付けをしていると小豆島で同じく瀬戸内国際芸術祭に参加している香港のアーティストAlexander Hui氏が通訳さんと一緒にやってくる。解剖台とギャラリーの簡単な説明をする。解剖台の話をしたら、Huiさんが香港の刑務所の解剖にまつわる話と似ている、とおっしゃっていた。しかし、日本のハンセン病患者は誰も傷つけていないし、何もしていない。人の尊厳とは何かとあらためて思う。
入所者の野村さんが防波堤で佇んでいた。昭和30年代の入所者の暮らしの話を伺う。つらくかなしい話ばかりではない。岡山県長島にある療養所との交流は楽しい思い出もある。特に邑久光明園との所以は人と人の「縁」を感じずにはいられないエピソードだ。昭和9年当時大阪にあった光明園は室戸台風で壊滅的打撃を受け、たくさんの死者を出した。行き場のない生き残った入所者を全国の療養所が受け入れた。特に大島は重篤な方ばかりを受け入れ、寝食を共にした。その縁は深いもので、今でも語り継がれている。
16:15 桟橋から来場者らを見送る。
私はすぐに島の南の海岸に向かう。潮が引いているので海岸線を伝って行けばかなり遠くまで足を伸ばすことができそうだ。手つかずの岩場は自然が創り出した造形。何にも勝る存在感だ。その岩に絡み付く漂流物は人の営為の儚さを感じさせる。石英がぎっしりと詰まった鉱脈を見つけたり、美しい流木を拾う。大島の最南端まで足を伸ばす。いつもは官用船から眺める海岸に私は立っている。そこからは庵治町の港町がのぞめる。こんなに近いのか。東の浜から見てもこのような近さは感じない。漂流物を拾いながら桟橋方面へ戻って行く。庵治第二小学校方面から歩いて行くと職員寮の間を行き、何人かの職員さんに会う。先日カラオケをした職員さんにも会った。完成間近なヘリポートを左手に見ながら歩いて行くと大型の側溝の際にコンクリートの階段があるのを発見。側溝ができる前の古い遺構(といえばオーバーか)だろう。
青松園事務所の向かい側の畑の近くを歩いていると入所者森さんと西野ミエ子さんが畑作業をしている。ぶらりと畑に入って行くと、スイカ食べましょう、ということになった。その場で包丁で切ってなりふり構わずかぶりつく。「野性的な食べ方だけれどこれが一番おいしいよ。」とミエ子さん。カボチャ持ってきなさい、私のつくったタマネギおいしいよ、と持たされる。大地の恵みをありがたくいただく。
野村ハウスに戻る。さっそくいただいたスイカを泉に食べさせる。
夕食は私が担当。いただいたオクラをさっと湯がいてポン酢で食す。タマネギとトマト、しめじでスパイスのみのカレーをつくる。カボチャはレーズンと一緒に甘辛く煮る。充実した一日は終わりを告げる。