Nobuyuki Takahashi’s blog

大島 ゲートボールと飲んだくれ

6:00 起床。昨日の鍋物とベーグルサンド、フルーツと野菜の生ジュースを食す。夏のように窓を開け放つことはないが、窓の磨りガラスを通して朝日が拡散され部屋に送こまれてくる。さわやかな朝だ。井木と泉は昨日23:00過ぎに野村ハウスに戻ってきた。二人とも食事がのどを通らない。疲れが出てきているのか。それでも二人はカフェのオープンに向けてすべてをかけて集中している。
9:30 朝一便の船が桟橋に着く。顔なじみのこえび隊、芸術祭中に警備員やアートナビを担当した皆さんが一般来場者とともにやってくる。お客さんとして来て責任もなく、リラックスムード。皆さんは大島に着くなりに友人となった入所者の安否を気遣う。入所者の平均年齢は80歳。昨日元気だったけれど、今日はわからない、そうしたことが起きないとも限らない。「あの人は元気ですか。」
さて、一般来場者だが、9時便に乗ってきた方は11名。そのうち8名が2〜4回大島を訪れているリピーターである。入所者とすでに顔見知りになっている方もいて、会うのを楽しみに来たとおっしゃる方もいる。芸術祭後も公開を継続しているほかの島にはない現象だ。大島ならではと言ってもいい。
午前中、野村ハウスの隣人で10寮にお住まいの安長さんと立ち話。久しぶりに夜、いっしょに飲むことになった。
11:00の便にもこえび隊を務めた人々が乗っていた。大島に着くなり皆方々に散らばって入所者の皆さんに会いにいく。
13:00 ランチも売り切れ、カフェのお客さんも一段落。私はカフェの奥の席についてまったりとギターを弾いていると、お客さんの声、立ち寄った職員さんの話、入所者と語らう様子がどこからともなく風に乗ってくる。こうした雑多な物音が「にぎわい」というものなのだろう。普段の大島にはない。私は目を瞑り、耳をすます。
一時経ち、お客さんとお話ししようかと思いギャラリーに向かう。途中ゲートボール場の横を通り過ぎると、こえび隊の石川さん、小坂くんが野村さんと大智さんと大声を出しながらゲートボールをしている。なんかめちゃ楽しそう。ということで私も早速参戦。そこへ高校生のお客さんをご案内していたこえび隊の平井さんがそのままなし崩し的に合流。ルールがわからないまま、紅白組に分かれてゲーム開始。途中入所者の森さんも加わり大騒ぎのゲーム展開となる。とにかく右も左もわからない私たち。力一杯ボールを打てばいいというものではなく、頭脳戦あり、テクニックも必要で、やってみるとなかなか奥深い。入所者の皆さんがやさしく教えてくれるので、ゲームを進めながら少しずつルールが見えてきた。入所者の皆さんのゲートボール歴は30年ほど。外すはずのないボールを私たち初心者は平気で外すので、その度にずっこける。吉本新喜劇状態だ。ほんわかぱっぱでにぎやかなゲートボール!石川さんは森さんに要所で手ほどきを受けて、急激に腕をあげる。大智さんが「石川さん、今日は大島に泊まって、明日補欠で一緒に行くか。」と冗談をとばしている。明日は庵治町でゲートボールの試合があるそうで、今日はその練習だったのだ。高校生の男の子も「まさか、大島に来て入所者の皆さんとゲートボールをすることになるとは。」と思いもよらない出会いに興奮気味だ。彼は学校から大島へ一度見学にきたけれど、一般公開が継続されることを知り、大島に興味もあったことから単独で足を運んだ。入所者の皆さんにはうれしいお客さんだ。
ゲートボール場をあとにして、カフェに行きしばし談笑。今日もカフェ・シヨルには金色の西日が部屋の奥まで差し込む。
16:15 高松最終便まつかぜを見送る。芸術祭会期中の一般公開の緊張が解け、来場者とそれを迎えるボランティア、そして入所者の立場がゆるやかにあいまいになって、ゆったりとした一日が過ごせた。どのような理由であれ大島を訪れ大島を味わう。そんな開放感があった。

安長さんの手

18:30 野村ハウス(11寮)の隣人入所者の安長さんを飲みに誘う。11寮のドアをノックするが返事がない。玄関を開けて声をかけると眠気眼の安長さんが引き戸を開けて出てきた。
「お、寝とったわ。」
「安長さん、これからつまみを作るんでウチで飲みましょう。」
「ん。」
子持ちししゃもをグリルで焼いて、えのきと豚肉、焼き豆腐、ほうれん草で炒め物を作る。
安長さんはいつものように焼酎のお湯割り。私は日本酒を嗜む。
ほろ酔いになってお互い雄弁になって来たところで、私から安長さんにいくつか率直に訊ねた。
「安長さんが長野で働いていた時(安長さんは社会復帰をして土建業に携わっていた時期がある)、一緒に働いている人たちに安長さんへ差別的な言葉を浴びせるような人はいなかったんですか。」
「それは、おらんかったよ。社長が毎日(安長さんの)部屋に飲みにきよった。社長が「おれが嫁さん探すからずっとここにおったらええ。」と言ってくれてな。とにかく仕事はきつい土方仕事だったから、帰って来たら酒を飲んですぐ寝てしもた。次の日もあるからな。」
「(ハンセン病の後遺症で)手の感覚が麻痺しているから仕事は大変だったでしょう。」
「手は今よりもずっと良かったからな。」
「感覚の麻痺は…」
「感覚はまだあったよ。ないところもあった。手がごついと皆に言われてな。」
安長さんの手は石の礫のごとくばんっと塊感がある。数々の重労働を経て来た無骨な手はハンセン病のため、指がなくなってしまっているところもある。私は安長さんの手をにぎった。少しひんやりとしていてすべすべしている。安長さんの手は私の手のひらには収まらないほど大きい。
「たくさんの仕事をしてきた手ですね—。」

私が昔の大島の様子をいくつか伺っていると、安長さんはこうおっしゃった。
「そんなん昔のこと、掘り出して、ほじくり返して何になる。大島で暮らして来た人はおまえたちの想像もつかん苦労をしてきとる。それを知って何になる。」
こうもおっしゃった。
「歴史の表を書いて、昔のこと並べて、いったい何になるんだ。」
私はこの言葉を受け止めつつその重さをはかりかねていた。いや、むしろ外からやってきた私がストレートに言葉を浴びせられたことのうれしさが勝っていた。言葉そのままでは受け取ることができない、様々な感情が綯い交ぜになった言霊を私はようやくぶつけられたような気がした。
「そんなことして何になる。」
乱暴な言い口ではねつけられるのではなく、その深遠な響きが私のなかに染みこんでくる。
「今を生きている人は今を精一杯生きたらええ。」

入所者と私。そういう構図ではなく、酒を酌み交わした男同士の語らい。以前にも感じたことのある懐かしさで私は包まれていた。
私は小原村(現在豊田市)の「北」という集落で暮らしていた頃、寄り合いに出ると、お年寄りからたくさんお話を聞くことができた。あるおばあさんは15を過ぎてすぐに嫁に出る。戦争に出た夫は戦死し、女手一人で子どもたちを育てる。あるおじいさんは予科練にいて多くの戦友が靖国に入っているという。そのおじいさんにこう尋ねた。
「戦後生き残り、今生きていて、どう思われますか。」
しばらく沈黙の後、その方はこう返した。
「生きてきて、よかったのか、悪かったのか。…わからんなぁ。」
私はお年寄りの体験してきた当時の空気も価値観も一つとして体験していない。でもそれらのエピソードが今の自分に連なる連綿とした人の営みであることは理解できた。その言葉が、声が、肌合いを伴って私の心を撫でていくのを感じた。

「どうですかね、この大島で自分が生きてきた、生きてきたんだという証を残したいという気持ちはありますか。」
「それは、ある。それはある、な。」
視線を深く下に落として安長さんは答えた。
今回、大島の取り組み{つながりの家}の原点は入所者の心情であり、人間としての普遍的な叫びだと私は考えた。その「証」というのは資料的価値におかれる事物のみではなく、uncollectible(収集保管不可能な)な現象、情景、心の動き、文化などを総じて人々が見つめることを差している。その人々に私も含まれるのだ。

「また飲みましょう、安長さん。」
「こないだの焼酎。あれ、うまかったな。」
打ち上げ会の時に私が持参した愛知県産の焼酎のことだ。
「今度買って持ってきますから。」
「よし、今度は人生論を語り合おうかの。」
「はいっ!」
夜の帳が下りて、それにつれ私と安長さんの酔いも深まっていく。
深く真っ黒な瀬戸内海を見つめてみるが焦点が合わない。酔いのためだけではない気がした。