Nobuyuki Takahashi’s blog

無力感からの出発

兄が亡くなって今日で13年が経つ。人の生き様が十人十色であるように、死に行く様もそれぞれだ。死は誰にも等しく訪れる。人の生き死にのエピソードは人の数だけ存在する。しかし親しい人、愛する人、身近な人の死はとりわけ自分の心に深く刻まれていくものだ。
私の兄は悪性リンパ腫という血液のがんに罹り、それが入院生活の間に次々と全身に転移し、9ヶ月の闘病の末病院で亡くなった。その様子は惨たらしいことこの上なかった。リンパ腫は通常、のど元に大きなこぶ状の腫瘍ができて発見される事が多いと聞くが、兄の場合は腹部の奥深くに腫瘍があったため発見が遅れてしまった。

14年前、父が定年退職を迎え、それを労うために私は兄とお金を出し合って贈り物をしようと相談していた。打ち合わせようと兄に電話するが全くつながらない。どうしても連絡がとれず、ひとまず私の独断で、知人の陶芸家から土瓶と夫婦の湯のみを購入。あとは兄と二人で連れ立って実家に行き手渡すのを待つばかりだった。それにしても、ここまで連絡がとれないのはおかしい。兄の住むマンションに行っても気配がない。何とも嫌な予感がする。思案に暮れていると父から電話が入る。兄が入院したとの知らせだった。
兄は最初から告知を受ける姿勢だったため、本人を含め家族全員が病気のことを知っていた。抗がん剤を何クールも投与し、副作用のために全身の体毛が抜け落ち、身も心も憔悴しきっていた。それでも兄は戦い続けた。それは若さ故だったと言うほかない。抗がん剤を投与した後しばらくは効果があるものの、腫瘍マーカーの値はすぐに元にもどってしまう。その度に抗がん剤の種類を変えたり、組み合わせを工夫して何度も何度も抗がん剤を打ち続ける。私はその凄まじさを見かねて「兄は実験台じゃない!」と医師に噛み付くこともあった。支えようとする家族は心に闇を抱えて時折それを爆発させてしまうのだ。病院に関わる今になってその状況を以前より冷静に受け止められるようになった。病棟ではこのような修羅場が毎日繰り返されている。
抗がん剤が効かなくなり、万策は尽きたかに思われたが、最終手段とも言える大量の抗がん剤を一気に投与する―自身の免疫力まで奪うために骨髄を移植する―治療に打って出ることになった。弟である私の骨髄が合う確率が高いことから私は真っ先に骨髄検査に名乗り出たが、私の骨髄は不適合であることがわかった。
それからは放射線による治療に切り替える。治療するというよりも今以上に病気を進行させないための処置だ。むしろ戦う姿勢を崩さない兄に何も施さないことが一層兄を追い込んでしまう。抗がん剤よりは副作用が軽く、兄の表情にもゆとりが感じられるようになったある日のこと。病室に入るや否や私に悪態をつく兄。「最悪だっ!」
兄の眼差しはこれまでになく淀み乾ききっていた。突如兄の左顎下に大きなこぶが現れたのである。つい2、3日前には無かったはずだ。りんご一個分ほどもある大きな腫瘍だ。その腫瘍がベッドにいる兄の頸部を否応なく傾ける。まるで病魔の進行を兄に見せつけるかのように。兄は苛立っていた。やり場のない怒りは真っ先に私に向けられた。
兄は手に取るように自分の身体が蝕まれていく様子をつかんでいたと思う。肝臓に転移し、黄疸があらわれると自らの手を天井やシーツにかざし、変わり果てた肌の色を食い入るように眺めていた。その頃から私たち家族が病室を訪れても兄はめったに口を開かなくなってしまった。
それから数日が経っただろうか、両親が担当医に呼び出され、父は私にも同席してほしいと連絡してきた。足早に病院へ行くと院内の相談室に通される。それは、「余命宣告」だった。私も父も母も予感していたが、現実となると全身の血流が一気に下降するようで、頭がくらくらして何も手につかない。兄の壮絶な闘病生活を見てきた医師は最後の告知を本人にはせず、私たち家族だけに話すという決断をした。人と接する上で判断を導いてくれるマニュアルなんて存在しない。医師にとっても思い悩んだ末の選択だったに違いない。
兄は家に帰りたいと私にこぼすことがあった。兄の言う「家」とは現在私が兄から引き継いで暮らしているマンションのことだ。そのとき兄は既に衰弱が激しく部屋のある4階まで登る力はどこにもなかった。兄が次に家に帰ったのは亡くなった直後のこと。かけつけた兄の親友とともに遺体を担ぎ、一段一段階段をのぼる。玄関を通り一番奥の座敷に兄を連れて行く。私は兄の亡骸を前に丸一日をかけてデスマスクを描いた。

看護士さんからちょうど個室が空いたので移らないかと勧められた。ありがたい勧めではあったけれど兄は断固として抵抗した。なぜなら、個室に移るということは残された時間を過ごすという意味に他ならなかったからだ。同室だった患者さんが個室に移っていき、ほどなくして亡くなっていくのを兄は知っていた。自分の番が回ってくることを兄は絶対に認めたくなかったのだと思う。激痛に歯を食いしばり、嘔吐を繰り返す日々。それでも上を仰ぎ見る。この世のものとは思えない苦痛のトンネルを潜り抜けたその先に光があると思いたい。それこそが希望だった。
兄が個室に移ってから、ふと思い出したことがある。私があるテレビ局に依頼されて制作したドローイングのことだ。プロボクサー飯田覚士さんが世界チャンピオンのヨックタイシスオーと戦うタイトルマッチ。そのオープニングを飾る映像に私の描くドローイングが使われることになったのだ。兄はそのことをとても喜んでくれた。1997年12月23日、愛知県体育館でチャンピオン戦が行われ、激闘の末飯田さんが判定勝ち。見事タイトルを獲得した。その道のりは険しく、初回にダウンを奪うものの、後半にはヨックタイの猛反撃に遭い、最終回までなだれこむ肉弾戦。駆け引きのないまさに激闘だ。その先に手に入れた勝利という「光」。私は飯田さんと兄の姿を重ねていた。
私は兄の病室にドローイングを貼ることにした。私は描くことで飯田さんにエールを贈ったように兄の戦いの場に寄り添いたかった。そのドローイングは飯田さんのスパーリングを実際に間近に見て描きとめたスケッチを元に描いた。私と兄が幼い頃から敬愛して止まない「あしたのジョー」へのオマージュでもある。
年が明け1月の後半になってさらにモルヒネの量が増えていく。兄は毎日激痛に悩まされ、嘔吐が治まらない。腫瘍が横隔膜を圧迫して24時間しゃっくりが止まらない。兄がトイレに立ったときだ。ベッドから立ち上がった瞬間膝ががくんと折れて、点滴棒にしがみつく兄をすんでのところで抱きとめる。その時の兄の身体はとても30代前半とは思えず萎びて張りがなく、そして存在の重みが感じられなかった。

アルバイトを終えていつものように兄の病室へ行く。入り口で感染予防のアルコールを手に擦り込み、マスクをかけ、一息深呼吸し、ぐいとドアを開ける。兄の笑顔が今日は見られるだろうか、いつも祈るような気持ちだ。が、次の瞬間愕然とする。病室にはこれまでなかったむせるような臭気がたちこめている。兄の呼気だ。私の呼びかけに兄は応じるどころか、眼球が左右揃うことなく、ぐるぐると回転して、口は菱型に大きく空いたまま。乾いた歯が唇が閉じるのを阻んでいる。来るべき時が近づいている。そう思った。時折混濁した意識から帰ってくる兄はやせ細った拳を天井に向けて差し出し言葉にならない声を発する。その時、兄の闘争意識はとっくに頽れていたのかもしれない。絞り出された声はのこりのいのちを生き抜く、兄の身体を構成している細胞のひとつ一つがあげる雄叫びのように思えた。
私はかのドローイングを、かなうならば、兄の行くところへ連れていってほしいと心から願った。しかし、本当のところ、私のドローイングは何を成し得たのか、あるいは何を成し得なかったのか、兄がそのドローイングを携えて逝ったのか、確かめようもなかった。
1998年2月10日。兄の最後の一息を家族全員で見送った。後悔はない。ただ、無力感と補いようのない空白だけが残った。