Nobuyuki Takahashi’s blog

モビルスーツ

自家用車を運転して出勤する。心なしか、昨今周辺の運転が荒いと感じる。皆何に苛立っているのか。
車は「モビルスーツ」だ。ガンダム世代にはなじみの言葉。ここでは身に纏い、自身の行動、行為を拡張するもの、あるいは直接の身体感覚を外部から防御するもの、見方によっては自身の心理が外部に現れるもの、と言えるかもしれない。
横暴な運転をする人、明らかに外に向けて闘気を放つ車、ステイタスを表明する高級車で幅を利かす…。車を運転していると、生身の人間がすれ違ったり、出会ったりする社会とは異なる触感を味わう。世界に張り巡らされた道路という道路は、普段表に出てくることのない剥き出しの感情が血流のように 脈打っている。
車社会の一番の弱者になってみると、それはとてもよくわかる。
私は20歳代に軽トラックを3台乗り継いできたのだが、たびたびあおり、かぶせ、罵声を浴びることがあった。
ある日こんなことがあった。スピードが出ないのにいらだったのか、その素朴でブリキのような車体を見てつい威圧的になったのか、 私の運転する軽トラックをさんざん後方からあおり続け、ものすごい勢いで無理な追い越しをしてきた車があった。普段はそのまま見過ごすのだが、その時は危険極まりなく身の危険を感じた。あまりにも腹が立ったので、私は次の交差点で軽トラックを降り、つかつかとその車に歩いていっておもむろに運転席のドアを開けようとした。がちゃがちゃ、がちゃがちゃ。繰り返し開けようとするがロックがかかっている。荒っぽい行動のようだが、私は終止笑顔だった。それが反って怖かったのかもしれないが運転者は顔面蒼白ですっ飛ばして逃げていった。
(※ぜったい真似をしないでください!危険な行為です。)
私は最もか弱い「モビルスーツ」をかなぐり捨てて相手の「モビルスーツ」の操縦者を表に引きずり出そうとした訳だが、元来生身の人間の接触というのは勇気と覚悟が要るものだ。激しい感情をぶつけ合うには痛みを伴うもの。それに、外見の―この場合は軽トラックのような弱々しい―人が運転しているとは限らない。外身と中身は合致しないこともあるのだ。

現代の社会では、心身の機能拡張を介しての接触は車社会に限らない。お互いの顔が見えないネット社会、どこでもつながる携帯電話などなど。生身の人間が一番生々しいとは言えない時代に入り、「痛み」の感覚を格納している場所がわからない。