Nobuyuki Takahashi’s blog

ゆるい横のつながり 主義主張を束ねるのでなく

昨日は私が4月末から参加した災害支援のボランティア活動を行ったレスキューストックヤード派遣ボランティア第4陣の皆さんと宴会だった。連日だが、今日はテレビ局でドキュメンタリーを制作している西川さんの呼びかけにより出版者、編集者、ギャラリー運営者、美術館学芸員、木工作家らが集まり食事とお酒を楽しみながら意見交換をした。
覚王山のとあるお店をアジトに、東日本大震災と被災した人々に向けて何ができるのだろうと夜な夜な議論を繰り返す。私が行っている活動についても報告しいくつか意見をいただいた。ただし、私が猛進してきたが故に盲目的なってしまっているのか(私には自覚はないが)現地にいる被災した方々の身になっているのかどうかという疑問の声が多かったように思う。私はそこでつい感情的になってしまい、せっかくの議論の芽を摘んでしまったようだ。指摘を受け反省。
現地に行って一緒に働きたいという気持ちが先走ってしまい、未だ被災地に行っていない方に押しつけることになってしまったようだ。「現地に行ったからこそわかることもあるだろうけれど、本当はわかっていないこともあるんじゃないのか。」というするどい指摘もいただいた。自分の胸に手をあてて問うてそれはそうだなと思うところもある。現地に行ったからと言ってけっして被災した人々の同じところに立つことはできないし、その苦しみや悲しみの大きさ、深さをとらえることはできない。ならば、被災地で取り組んできたことも本当に被災した人々にとって意義のあることなのか、誰もわからない。それはその場所で、個と個の間柄で起きている小さな出来事、エピソードの集まりであって、包括的に全体のことを言いあてる言葉を私は持たない。あれをやってきた、これをやってきたと伝えたところで、実のところそこに立ち会っている人のみが肌合いで感じ取っていることもある。またそれをこれ見よがしに語るのも考えものだ。よほど配慮して取り組みの内容を開示しないと、場合によっては報告を受ける側に疎外感を与えてしまうかもしれない。「やってきたこと」を客観的に捉えることはとても難しい。加えてそれが何人の人に共感が得られて、どれほどの効果があるのかと問われても、ましてや意義のあることか否かを論じるのも尺度に置き換える術もない。繰り返しになるが、極小単位のエピソードの断片がただちりばめられており、たまたま私が出くわしているのである。そのひとつ一つの出会いの物語は何の強制力も圧力もない。私が個人的に感じている肌合いを主観的に伝えるのが精一杯なのだ。そこがうまく伝えられないのがもどかしい。今、こうしてブログに書きこんでいても、そのむなしさでつぶされそうだ。私が出会った現場にいる人々は評価することも評価されることも誰も求めてはいない。日々悩みながら、迷いながら確信も持てないまま、でもやれることを見つけてやっていくだけだ。そこで接した被災した人々の笑顔や言葉を信じて。そのことはどうか尊重してほしいと思う。被災地に行った人と被災地に行っていない人との間に心の溝が生まれてしまってはひどくむなしい。私もこれから気をつけようと肝に銘じる。

主義主張を束ね掲げて何かを起こそうというのではない。それぞれの考えで、それぞれのスタンスで、やれることをやっていく。それらを尊重しながら、ある時は連携したり、協力しあうことでゆるい横のつながりをつくって行く。情報の交換はお互いの刺激になることは間違いない。

表札に取り付ける刻印いりの銅板を加工するメンバーたち