Nobuyuki Takahashi’s blog

癒すという言葉は使ったことがない

やさしい美術プロジェクトは病院が主な活動場所であることから「癒しのアート」「病院のアート」と言われることが多かった。実は私はやさしい美術プロジェクトを語る上で「癒す」という言葉はつかったことがない。施設の現場にいると、そんな言葉は簡単には浮かんでこない。これまで作品を作ってきた経験からの私の見解だけど、「癒される」ということはその人の中で起きることであって、「癒す」ということはないと思っている。
やさしい美術プロジェクトの活動は事象に近づく、という特徴があると以前書いた。近づくと見えてくることもあるが、見えなくなることもある。地図を読むように遠くから眺め、想像力を働かせることで見えることもある。もちろん近づくということは物理的、心理的な意味があるのだけれど。その振幅の中で自分の立つ位置を見極める。
やさしい美術プロジェクトの活動が私個人の見解を広めるためにあるわけではないので、参加する学生たちのそれぞれの立ち位置はすべて受け入れることにしている。「取り組み」の内には手をにぎり看取ることもありうるし、「癒す」ことに真剣に取り組むのであれば「とことんやってみなさい」と背中を押す。そこで感じた何かに突き動かされ、自らの細胞が反応することを私は否定しない。
やさしい美術プロジェクトとはたぶんジャンルとして確立されるものではなく、ある事象に向き合った時に個々から発露される表現を受けとめる場であるように思う。それぞれの専門性を抱えてこの取り組みに参入すれば、自身が立つ専門性を離れては立ち返るという経験が起きる。もう少し踏み込んで言えば、自己否定と再構築だ。それほどまでに、私たちアーティストを揺さぶる何かがあるのだ。
手をにぎり大切な誰かを看取ることを私はアートだ、作品だとはとても言うことができない。でも「やさしい美術」という場では表現し、作品を制作して展示することや手をにぎることも同地平に連なる営みとなる。その蜿蜒なる地平をなめるように見つめ、乗り越えるべき壁や隔たりがあれば丁寧に紡いで行く作業と言ったらよいか。
私は殊に現代美術の領域で作品を作ってきた。誰とはわからない相手に強く、遠く、深くボールを投げ入れる。その真の意味もやさしい美術プロジェクトの活動を通じてとらえ直す契機を与えられた。きっとこの取り組みに関わったアーティストや学生、様々な専門家らはそれぞれの立ち位置で何かを得たのではないかと思うのだが。

発達センターちよだにて