Nobuyuki Takahashi’s blog

尿

尿を飲み続ける

尿を飲み続ける

息子がDVDを観ている。恐竜ブームが1年以上続いている息子が観ているのはジェラシックパーク3。私が通りがかりに観たシーンは登場人物であるこどもが恐竜の棲む島に2ヶ月潜伏できたのは、ティラノサウルスの尿をビンに入れて持ち歩いているからだった、という場面。
尿。おしっこのことである。
死に行く人は、意識が混濁し、次第に意識がなくなる。尿が黒くなる。そのうちにまっくろな尿になる。尿がとうとう出なくなる。尿が出なくなるのは、サインである。胸で深く強く呼吸する。生き物のさだめ、細胞の隅々まで、まだまだ生きようとする。最期の一息は深く静かだ。息とともに時間も止まるかのように。
「尿を飲め。」全身を駆け巡る液体のネットワークである身体のつながりに尿はある。「尿を飲め。」それは循環の末端が終わらないことの証明。理解できないならば、まるごと飲み込むしかない。親の遺骨を食べる人がいる。私にはその感覚がよくわかる。
尿は不思議だ。聖と俗の両方が宿っている存在と言おうか。現代美術作家のアンドレ・セラノは「Pis christ」という作品で、何ガロンもためた自分の尿にキリスト像を浸し、写真に撮った。金色に輝くキリストの美しさにみとれたのを覚えている。
錬金術師のヘニング・ブラントは人の尿が銀を金に変える力があると信じて使用していたという。尿の呪術的な力が失われていない時代に、錬金術から科学になる過渡に不思議なつなぎの役割を果たしていたことになる。
尿を単なる「おしっこ」という記号にしてしまった現代。記号でないことが、飲めばわかる。