Nobuyuki Takahashi’s blog

ボール蹴り

日曜日の朝。子どもたちとボール蹴りをする。つまりはキャッチボールのサッカー版といったところ。
息子の慧地は器用な方ではない。しかしボールのパスを蹴り出すと、きちんとねらいを定めてパスを返してくる。6歳の子どもであれば、どこに飛んでいっても相手が取りに行ってくれる、という甘えが働いて(あるいはそこまで気が回らず)ただめちゃくちゃに蹴ることが多いと思うのだが、慧地の場合相手が受け取りやすいようにコントロールしているのがわかる。それに感心したのだ。
大人になり、社会人になっていろいろな人と出会うが、うまく「キャッチボール」ができる場合とできない場合がある。相性ももちろんあるが、受け取る相手にかまわず自分の考えや思いをぶつけてくる人もいる。ボール蹴りで言えば相手がせっかく繰り出してくれたパスをどこに行くか後先考えずただ力一杯蹴るだけということになる。
アートの領域で喩えると、ただひたすら力一杯蹴ることが存在を示す方法の1つとなる。受けとめられることがなくても、受けとめられるイメージができなくても、ただただ、爆発的な蹴りを披露する。それがアートのマッチョな側面だと思う。それでもそのエネルギーをきちんとキャッチする人々がいる。その爆発のエネルギーには、やもすれば取りこぼしてしまう感情、切り捨てられる少数な生の証が含まれていることをその人たちは知っている。それらは時に人々に共感を生み、元気を与えてくれるのだ。
スタッフ泉が自身が制作する作品の表現姿勢を、「そこに、人がいたら肩をとんとん、とたたいて、そっと話しかける」ような、あり方だ、と説明してくれたことがある。ある意味でやさしい美術プロジェクトの側面を表現しているように思う。やさしい美術プロジェクトの制作する作品や企画はつながりや関係性を創り出す「コミュニケーションを造形する」作品が少なくない。コミュニケーションとはかたちを持たない不可視のものだ。それがテーマとなれば、真綿をそっとつかむ時の、やわらかい真綿と掌の関係のように絶妙な感応性が要求されてくる。
やさしい美術プロジェクトの「やさしい」ということについて、何かうまく表現できないか、と日々想いを巡らしているが、これがなかなか難しい。「やさしい」と一言で言うのは容易いのだけれど。