プロジェクトルーム廊下に西日が射す 外は芸術祭のバンドの轟音
昨日あいちトリエンナーレ2010のシンポジウムが開催された。シンポジウムのパネラーはあいちトリエンナーレの総合ディレクター建畠晢氏、横浜トリエンナーレ総合ディレクターの水沢勉氏、そして妻有アートトリエンナーレ、瀬戸内国際芸術祭の総合ディレクター北川フラム氏。
私は北川フラムさんに会う約束があったので開場1時間前に会場である愛知県芸文センターにつく。しかし、電話を何本もかけまくらなければならない状況で北川さんに連絡ができない。プロジェクトの活動で24日、25日の妻有ツアーに出かける予定があり、最後の調整、参加者の確認、そして今週出かける大島や香川県への連絡に追われる。
様々な事情で今週の大島訪問は見送ることになる。
16:00 あいちトリエンナーレのシンポジウムが始まる。会場ではアーティストやパフォーマー、評論家など関係者が300名ほど集まる。それぞれのディレクターのスタンスと実現したアートプロジェクトについてプレゼンテーションが続く。「自分と向き合う鏡として機能するアートと出会う空間。展覧会を作りたかった。」という水沢氏と対照的に北川さんは「あるものを使う、ないものをつくる。様々なトラブルを乗り越えていく過程は他者との関わりを作っていくことで、アートはすばらしい役割をはたす」と述べていた。一見対照的な発言。しかし、ここには他者へのまなざしの重要な視点を提示している。他者を知るために自分と向き合う。他者と関わることでかけがえのない自分と出会う。アートはだから、おもしろい。
建畠氏は「アートは毒を持っている。時にはやけどしそうな危うい存在。そうしたアートの先鋭的な側面を忘れたくない。」という言葉も印象に残る。アートには提案性、つまり、今ある何かに抵抗するような、北川氏の言葉を借りれば無邪気な赤ちゃんのような存在なのだ。
私たちの「やさしい美術」プロジェクト。やさしい と 美術 は通常結びつかない。美術は強くなければならない。確固とした個が主張されていなければならない。もちろん、どうしてそうであるべきなのかは理解できる。「個」という存在自体が歴史が勝ち取った宝ものだからだ。だから、あえて私は提案したい。人には生きる強さ、寄り添う、ちがった質の強さ=やさしさ があるのではないか。しかし、やさしいという言葉に酔ってはいけない。やさしいという言葉に甘んじてはいけない。世の中には「やさしい」という甘美な言葉をまとった虚しい空白が存在している。
シンポジウム終了後、舞台に駆け寄る、北川フラムさんもすぐに「くっつけたい人がいるから」とおっしゃる。私の4列ほど前の方に着席していたスーツ姿の男性を紹介される。香川県庁の谷口さん。原稿用紙にものすごくたくさんのメモをとっていた人だ。会場で会った、アーティスト、美術館関係者、友人、そしてその日すぐに東京に帰る北川さんと挨拶して会場を離れる。ちなみに北川さんは翌日著名なアーティスト、ボルタンスキー氏に会うそうだ。
香川県の谷口さんと食事しながら、今後の大島での活動について意見交換する。とても可能性を感じる。
今日、ASYAAFアートフェアの作品を返却するため運送会社に行き発送する。出品作家の設楽陸くんは大学までわざわざ作品を受け取りにきてくれる。設楽くんには「走っている暴走族の後ろからいけいけー!と叫んでいる奴より、一番前で走る暴走族になれっ。」というわけのわかんない激励をしてしまう。わかるかなー。(笑)