Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 4月のアーカイブ

足助病院訪問見学会 そしてつながる

2010年 4月 30日

5:30 起床。6:45には家を出る。
8:00 大学に着く。プロジェクトルーム前に車を留め、スタッフ川島にメールを打とうとしたその時、川島の元気のいい挨拶がひびく。いいタイミングだ。しかも、快晴ときた。病院訪問見学会には絶好の日和である。
私の自家用車に機材などを手早く載せ、レンタカーショップに向かう。
8:45 庶務課職員でやさしい美術に参加する村田、高橋、スタッフ川島の3人がレンタカーショップで待ち合わせ。2台のレンタカーの手続きをする。私は自家用車を運転する。
9:15 春日井駅に到着。メンバー集合を待つ。急遽来られなかった者をのぞき16人全員が時間通り集合する。
9:30 春日井駅を出発。新しいメンバー10人は緊張の面持ち。車中交流を深めるよう旧メンバーに伝えてある。
10:45 足助町香嵐渓に到着。まずは足助散策にでかける。例年は6月に実施しているが、4月にこうして新しいメンバーを迎えて足助に来たのは初めてだ。楓の新緑がまぶしい。
11:00 少し早いが、川縁で昼食タイム。心を洗い落とすかのように清らかな流れ、新緑の燃えるような美しさに魅せられ、メンバー間に自然と笑顔がこぼれる。靴を脱ぎせせらぎに脚をさらすメンバーもいる。微笑ましい光景だ。
12:00 香嵐渓から中馬の街並を歩く。足助川に沿って古い蔵が軒を連ねている。香嵐渓は名勝地のため完璧に整備されているが、中馬の街並は整備されすぎず、寂れてはいるけれど趣があり、生活感にあふれている。塩の道と呼ばれ宿場町として栄えた当地に住まう人々の顔がくっきりと見えてくるようだ。メンバーらは足助をすっかり気に入ったようだ。
蔵を改装した本屋兼ギャラリーに立ち寄る。私が小原村に住んでいた頃に仲良くしていた陶芸家木塚博長さんが作品を展示しているのだ。急須が所狭しと並んでいる。急須の製作は手間と時間、技術のいる仕事だ。土、釉薬もすべて異なる故、時間と汗を感ぜずにはいられない。何より繊細なつくりが人柄を表している。
本屋を出るとメンバーからシシコロッケを食べたい、と要望があがる。それならば行こう。イノシシの肉を使ったコロッケを食べに!お肉屋さんがつくるコロッケ、なかなかおいしそう。人数に合わせて揚げてくれるというので15分ほど待つことにする。塀にはイノシシの生皮が吊るしてある。写真を撮ってるうちにコロッケができたようだ。皆揚げたてのコロッケを食べながら足助散策を続ける。
14:00 香嵐渓を出て足助病院に移動する。いよいよ訪問見学会だ。毎年恒例で行う訪問見学会。入院している患者さんにインタビューをすることで病院という「非日常」ともとれる場所が現実感を帯びてくる。病院とは実は「日常」なのだ。
リーダー古川がマナーペーパーを読み上げる。参加メンバーは気を引き締めている。中には「最初、どのように話しかければ良いですか?」「挨拶は病室全体にしたほうがいいですか?」と質問するメンバーがいる。不安になるのは無理もない。いきなり初対面の人にベッドサイドで語りかけるのである。答えは事前に人から教えてもらうよりも、自分で現場に行き会得してほしい。ここからは私の力がおよぶところではない。
14:30 3〜4人組でA棟、B棟に散らばる。私はメンバー3人を連れてB棟2階に行き、4人部屋に入院している女性とお話しする機会をいただく。今日はお二人の入院する病院利用者にお話をうかがった。ここではAさんを紹介したい。
足助近くにお住まいのAさん。家業は農業で稲のほか、野菜を作っている。息子さんは町に出て、今は旦那さんと二人暮らしだそうだ。季節の食べ物、野菜をおいしくいただくコツなど、話は広がる。お話の流れから、息子さんを交通事故で亡くされたことにまでおよんだ。「しょうがないね。」との静かな声に深い悲しみを感じ取ったのは私だけではないだろう。
後に聞いたのだが、ほかの病室では戦争体験、それも大空襲の最中をくぐり抜けてきたお話を聞いてきたメンバーもいた。その方は今まで誰にも話す機会がなかったとおっしゃったそうだ。全くの第三者である私たちが入院している方々から思いもかけないお話を聞く。今ここにいる人々はそれぞれ人生の物語を描いてきた。それを強く実感する。私たちが行っているインタビューは他者の記憶をたどることでもあるのだ。創設当時から8年間継続してきたインタビュー。ここに私たちの原点がある。
16:00 待機場所の職員食堂にインタビューを終えたメンバーらが帰ってくる。皆、言葉が出てこない。でも目を見ればわかる。何かを受け取って帰ってきたということを。
16:30 後片付けを済ませ、病院職員に挨拶申し上げて病院を出る。駐車場でリーダー古川が「今日の訪問見学会で感じたこと、話したいことがあると思います。それらを今度のミーティングで出し合い、共有して次のステップにつなぎましょう!」皆の集中した視線が一斉にうなづく。
レンタカーに乗り込み、帰路につく。3台の車中では、今日起きたこと、見聞きしたことで話題は尽きなかったことだろう。創設当時は大学の通学バスで出かけたことがあった。その当時は帰りの車中で熱く語り合ったものだ。今回は次のミーティングまでお預けだ。
18:00 全員を出発地と同じ春日井駅まで送る。レンタカーを返却し、私と川島はプロジェクトルームに戻る。何度も経験しているけれど、私も川島も心に引っかかる何かを繰り返し反芻していた。平成22年度の病院訪問会は例年に違わず新しい予感に満ちていた。初心に帰る新鮮な体験。

20:30 自宅に戻りエンジンを止めてふと目を遣ると携帯に着信履歴がある。泉からだ。折り返し電話をするとうわずった泉の声。そう、彼女は今越後妻有(新潟県十日町市)の地にいる。夫婦で十日町病院の皆さんと宴の席を楽しんでいるところだったのだ。「先生、皆さん高橋先生の声を聞きたいそうです。」電話のローテーションがはじまる。十日町病院の経営課井澤さん、六日町病院に移動になった泉沢さん、高校の事務長に移動した高橋さん…。皆さん口々に「大地の芸術祭、昨年の夏は忘れられませんよ。」「また妻有に来てくださいね。」とおっしゃる。まるで恋人と電話している心境。これほどまでに、私たちの絆は深いのだ。関わる、ということは始まりがあっても終わりはないものだと感じる。泉はそれを全身で受け止めるばかりでなくそれを楽しんでいる。昨年までスタッフで働いてきた泉はやさしい美術を通して自身が取り組んできたことを「仕事」ではなく「人生」にまで昇華している。
つながりは深まるばかりだ。なんという幸せ。

ギター製作とロゴミーティング

2010年 4月 29日

完成まであと二日ほどかかるかな朝から子どもたちとギターを製作する。親友からのプレゼントで、ある程度組み上がったギターの部品を組み立てるキットになっている。私があまり家族と時間を過ごしていない事情を察してか、子どもたちとの共同作業になる贈り物。一つ一つの部品を丁寧にサンドペーパーで仕上げる。接着面を整え、角度を測りながら組み立てていく。
午後、現像に出していた中区大須のとあるカメラ店に受け取りにいく。プリントは昔ながらのアナログプリント。どのような仕上がりか楽しみだ。
ハイトーン気味にプリントをお願いしていたが、私が設定した絞りも考慮してプリントしてくれたようだ。決してシャープではないが、こっくりとした色彩、豊かなトーンはアナログプリントの醍醐味。大島のよもぎ祭の写真には当日の輝かしい陽がしっかり記録されている。
※よもぎ祭の模様は後日報告します。
ロゴの検討は進みつつある17:30 吹上にあるカフェで大島チームの井木と泉、そしてロゴのデザインを依頼している溝田さんと待ち合わせる。
昭和初期に建てられたものだろうか、古い家屋を改装したカフェでケーキセットを注文。
溝田さんからロゴのラフ案が提示される。私たちの難しい注文に応えるプランがずらりと並ぶ。不思議なことだが、ロゴのプランを見ているうちに詳細なカフェ、ギャラリーそして取り組み全体のイメージがつぎつぎと想起されてくる。もちろん、井木も泉も、同じだ。わくわくする。

GP実績報告書、成果報告書

2010年 4月 28日

現代GPの実績報告書、成果報告書と併せて決算書、経費対比表などを作成。毎年、4月10日が締め切りだったが、今年は4月30日必着。昨日(というか、今日)1:30ごろ、庶務課雲村と打ち合わせながら、なんとか書類が整った。この書類は私たちの労力だけではない。日々経費処理を重ねてきた、平松、佐々木のおかげだ。今日、理事長印が入り文部科学省へ発送する。
文部科学省より5月14日までに成果をまとめたパワーポイントの作成を依頼されている。それが、現代GP関連の最後の仕事になりそうだ。
2:30帰宅。

大島の音 デジタライズ

2010年 4月 27日

年末にある入所者からお借りしていた、16本のカセットテープと1本のVHSビデオテープ。カセットは青松園職員と入所者による放送劇の録音テープだ。古いカセットなので、切れてしまったり、カビが生えたりでリスクが大きく取り扱いには細心の注意が必要だ。いくつか業者をあたったが、カセット1本につき1〜2週間かかると言われたり、いったん預けたものの、送り返されたりで業者の選定に時間がかかってしまった。大切な資料だ。もしものことがあってはいけないので、依頼する業者は直接お話しできる名古屋市周辺にあるというのも私が立てた条件だった。最終的に写真プリントを営む小さな店舗にお願いをして、昨日すべてのカセットがCDに、VHSがDVDにデジタライズされて帰ってきた。
朝、1時間15分ほどの通勤の車中で早速放送劇を聞く。放送された当時、特に盲人会の皆さんはさぞうれしかっただろう。本格的な効果音が入り、演出もしっかりとされた放送劇。じんと聞き入ってしまう。
今日聞いたのは、16本のカセットのうち一番新しい16本目。「足音」という作品で、終戦直後に戦地に赴いた息子を待ちわびる母、妻、弟の心情を描写したすばらしい脚本だった。
次に大島に行くときまでに16本すべて耳を通しておきたい。カセットテープをお返しするときに、当時のお話が聞けるように…。
預かったカセットテープ

大島 漆喰塗りとよもぎ祭3

2010年 4月 25日

6:00 起床。隣の部屋からは早い時間から準備の音がしている。
今日はよもぎ祭。大島で採れるよもぎを摘み、ケーキやスコーンの食材となるように加工するワークショップだ。昨日野村さんの計らいで甘夏も収穫する予定だ。天気は昨日に続き快晴。雨女はどこに行ったやら。
朝食を済ませ、掃除機や調理器具を持ってカフェ・シヨル(第二面会人宿泊所)に移動する。玄関の引き戸を開け放つと塗り立ての漆喰のにおいが鼻をつく。石灰のにおいは刺激臭とは違ってそれほど不快ではない。今日はあたたかいので午後の試食会でも窓を開けていれば問題なさそうだ。皆てきぱきと掃除、整理整頓をこなしていく。9:15 霊交会(大島のプロテスタントキリスト教会)の鐘が鳴る。私は鐘の音を録音する予定だったが、掃除にかまけて機をのがしてしまった。次回訪問時に録音することにする。
9:30 こえび隊の皆さん6名が桟橋に到着。初めて大島を訪れた方もいるが、何度も大島に来ていただいている方もいる。入所者にとっては一度きりでなく何度か大島に来てくれることがとてもうれしいと聞く。初回は様々な事由でやってくるけれど、2度目からは「大島に行きたい」という意思がはたらく。私たちの取り組み{つながりの家}は多くの方に大島を感じてもらい、大島のことを考えてほしいという願いが込められている。
まず、カフェ・シヨル(第二面会人宿泊所)に行く。昨日漆喰塗りを手伝っていただいたこえび隊の皆さんから感嘆の声があがる。皆さんが帰る前はまだ間仕切り壁が残っていた。開放感のある間取りに変身した第二面会人宿泊所はカフェの雰囲気を想像させる域に達している。
全員で納骨堂と風の舞へ。その後野村さんの畑に行くとちょうど野村さんが蜜柑の木の周りを草払い機で除草していた。大きな甘夏の木は大きな実をつけて重そうな枝を抱えている。野村さんは「亡くなった入所者の畑の木をわしらが育ててるんよ。」とおっしゃる。戦後間もなくは食べるものがなく、自給自足の日々で畑は命をつないだ入所者のアイデンティティーとも言うべきものだ。調理されたこれらの畑の産物をカフェのメニューに加え、芸術祭来場者はそれを味わうことになる。甘夏はすごい勢いで収穫されていく。野村さんの奥さんも様子を見にいらっしゃった。「今日は天気がいいからいいね。」とても大きな段ボール1つでは収まらない。ビニール袋2つにも放り込む。
10:30 私と天野、こえび隊で陶芸に詳しい石川さんの3人で陶芸室に向かう。10:00から工事による停電と事前に聞いていたが、陶芸室は病院の中の施設であるため、電力は止まっていない。入所者自治会会長の山本さんを自治会まで呼びに行き、陶芸室で釉薬についての打ち合わせをする。2つあるうちの1つの釜いっぱいに素焼きを終えた「大島焼」が入っている。窯出しして釉薬の種類別に棚へ置いていく。陶芸室にある釉薬を一通り調べ、カフェでの使用条件や盛りつける料理と考え合わせてどのような器に仕上げるかを検討する。天野は3月に卒業し、やさしい美術プロジェクトの活動に一区切りをつけているが、大島焼の製作に関わり、イニシアティブをとってくれている。こうしていろいろな人の手にかかり取り組みが進められていくことが望ましい。テストピースをもう1つの窯に入れることになり、ミルクピッチャーをサンプルにして釉がけする。
12:30 気がつけばお昼だ。カフェ・シヨル(第二面会人宿泊所)に戻りよもぎの収穫を終えた人々と合流する。窓を開け放ったカフェの空間はなかなか心地よい。什器類や照明が入ればもっと雰囲気が醸し出されるに違いない。想像を膨らませながら昼食。
13:00 収穫したよもぎを湯がき、包丁でみじん切りにする。ダダダダダ… 7〜8人で一斉に刻む包丁の音がカフェはおろか、島内全体に響き渡るようだ。
14:00 「よもぎ祭試食会」招待状をお渡しした入所者の皆さんが少しずつカフェ・シヨルに集まってくる。盲人の方、脚を悪くされた方、義足の方…。皆さん玄関で靴を脱いであがっていただく。不便ではあるけれど、カフェの運営サイドがお手伝いしたり、靴を並べて配慮するなど、私たちができることがたくさんある。この機会にしっかりと認識を深めておきたい。招待状をお渡ししなかった方々も見えて、テーブルの周りは入所者の皆さんで満席になった。よもぎの加工作業を終えたこえび隊の皆さんも加わり賑やかに盛り上がってきた。テーブルには井木と泉が準備してきたよもぎのスコーン、ケーキ、ろっぽうやきが並ぶ。皆さん口々に「おいしい。」とおっしゃる。「若い人の笑い声が大島で聞けるのはほんとにうれしい。」「青松園始まって以来の初めてのことが起きつつある。」とうれしいお言葉を矢継ぎ早にいただく。
私が特にうれしかったのは、普段交流や接点の少ない入所者同士が談笑を楽しんでいたことだ。例えば、脇林さん大野さん。脇林さんは定期的に大島会館に展示しているが、反応がない、と日々嘆いておられたが、試食会の席で居合わせた大野さんが「いつも大島会館の展 示を見とった。脇林さんの写真は視点がすばらしい。あんた、プロだよ。」と大絶賛した。戸惑いを隠せず脇林さんは「技術がだめだから…。」と謙遜すると、 「脇林さんが撮った写真は技術を越えたものがある。」と大野さんは返す。聞くところによると普段、同じ大島で暮らしているとはいえ、このお二人にはほとんど接点がないそうだ。その二人がカ フェ・シヨルで作品批評を論じたのだ。私たちが思い描いているカフェの機能がかんきつ祭、よもぎ祭という助走を経て、実現しつつある、そんな予感が私たちを包んでいた。
入所者の皆さんが帰られ、よもぎ祭の片付けにはいる。こえび隊の皆さんは最終の高松便に乗船。私と天野は職員の大澤さんのご好意で庵治便に乗り、高松まで送ってもらうことになった。1時間余分に大島にいられる。その時間を使って、ギャラリー15(15寮)と文化会館の採寸を行う。寸法を控えておくことで、これから必要になる材料や機材を準備することができる。17:30 庵治便最終のまつかぜに乗船。
庵治港についてからは大澤さんの自家用車に乗せていただき、建築資材から電材まで売っているホームセンターに連れて行ってもらった。特に材木の種類が多く、私たちが求めるもののほとんどがここで揃うだろう。
夜行バスまで時間がある。大澤さんの自宅近くにある居酒屋さんに行くことになった。古き良き昭和の香りぷんぷんのお店。錆びたトタンの波板が懐かしさを演出している。もつ鍋を3人でつつきながら今日のよもぎ祭の話に花が咲く。これでカフェ・シヨル開店までイベントやワークショップはお預けだ。いい助走が踏めたと思う。
21:30 大澤さんに高松駅まで送ってもらう。
22:10 名古屋行きの夜行バスに乗り込む。目が覚めたら名古屋だ。
大島に残った井木、泉、張は明日も漆喰塗りを継続。4人のこえび隊もサポートしてくれるとのこと。いつも協力ありがとうございますー。

大島 漆喰塗りとよもぎ祭2

2010年 4月 24日

6:30 起床。7:00には放送がかかり、今日の食事の献立や連絡事項が流れる。
7:30 朝食。
8:30 野村ハウスを出て、海を眺めていたら、入所者の野村さんがやってきた。「おはよう。」「あ、野村さん、おはようございます。」二人で防波堤に身を預けて海を眺める。野村ハウスの周りにはスイカ、かぼちゃ、トマト、豆類がすでに植わっている。野村さんが「夏に皆で食べると良いじゃろ。」と植えてくれたのだ。野村さんの畑にある甘夏が収穫の時期を迎えているそうで、明日のよもぎ祭で採らせてもらうことになった。
9:20 桟橋にまつかぜが着く。船には夜行バスに乗ってきた大島チームの井木とこえび隊の男性お二人が乗っていた。早速カフェ・シヨル(第二面会人宿泊所)に行く。今日は漆喰塗りを9割方進めておきたい。作業の前に皆で納骨堂を参拝する。天気は快晴。風が少し冷たいが、日差しは強い。
10:00 カフェ・シヨルの漆喰塗り作業を開始する。泉、井木は明日のよもぎ祭の準備作業にとりかかる。漆喰塗りの作業工程を説明し、役割分担をする。皆慣れない作業でペースがつかめないが、午後には軌道に乗ってくるだろう。私は難易度の高い壁面の隅を丁寧に塗っていく。11:30にはさらにこえび隊お一方が加わる。
12:00 野村ハウスで昼食。こえび隊の皆さんに野村ハウスが借りられた経緯などをお話しする。
13:00 午後の作業を開始する。井木と泉もよもぎ祭準備から漆喰塗りに移動し、総勢8名で作業を進める。午後からの作業は倍速だ。作業が早くなっただけでなく、仕上がりもきれいになってきた。ほとんど休みをとらずにひたすら漆喰塗りに汗を流す。
16:00 漆喰塗りは私が指導しなくとも作業が回るようになってきた。そこで私は間仕切り壁を撤去にとりかかるべく一部を解体し始める。第二面会人宿泊所は建設当初は間仕切り壁ではなく襖で仕切られていた。後年に建具を外し、そこに仮設壁を造作したようだ。カフェで使う間は3つの部屋を一つの大部屋として使用する。いつか取り払わねばならなかった間仕切り壁をとうとう壊す時がきた。造作は手の込んだもので思い切ってぶち抜き、破壊するしかない。作業部から大きなバールを借りてきて勢いよく打ち壊していく。破壊作業の途中にこえび隊の皆さんが最終の船に乗って高松に帰っていく。見送ることができなくてごめんなさい。
私が壁を外している間、井木、泉、張、天野が着々と漆喰塗りを敢行。驚くほど急ピッチで作業が進んでいる。繰り返しの作業のため脳内でドーパミンが分泌されて「漆喰塗りハイ」になっているのだろうか。
20:30 間仕切り壁をきれいさっぱり取り払い、掃除をする。漆喰塗りは目標の9割が完了。明日のよもぎ祭と試食会の時にはひと際明るくなったお部屋で入所者の皆さんをお迎えすることができる。皆さん、おつかれさまでした!
野村ハウスに戻ると一足先に帰った井木が焼きうどんを作って待ってくれていた。うどんは青松園職員の大澤さんからの差し入れである。感謝。
21:30 お風呂にはいる。
1:00 就寝。泉と井木は明日のよもぎ祭の打ち合わせを続けている。

大島 漆喰塗りとよもぎ祭1

2010年 4月 23日

6:45 名古屋駅ナナちゃん人形前にて集合。高橋、泉、張、天野の4名で大島に向けて出発する。井木は夜行バスに乗り、明日の朝大島に着く予定だ。
7:00 高速バスに乗り込み、一路高松へ。体力温存のためバスで走る間、仮眠をとる。途中鳴門を通るが、うず潮は見られなかった。
12:30 高松着。高松駅西手にあるうどん屋さんに行く。オフィスビルの一角にある新しいお店だが、さぬきうどんの味を十分楽しめた。
13:00 商店街に行き、よもぎ祭用の茶葉を買いに行く。見るからに老舗のお茶屋さんは風情たっぷり、迷わず写真におさめる。
13:30 駅前のスーパーに寄り、食材とよもぎ祭ワークショップの材料を購入。荷物を皆で手分けする。桟橋に向かうとちょうど大島側から官用船まつかぜが着くところだった。初めて大島にわたるやさしい美術メンバーの張もわくわくしているようだ。
13:55 まつかぜに乗船。香川県庁の大島担当宮本さん、西日本放送の撮影クルーが同行する。
14:15 大島着。荷物を野村ハウス(11寮)に置きにいく。初めて大島に来た張を連れて、納骨堂に行き、私は青松園本部へ。事務長室に入ると、宮本さんが資料を広げ、事務長、福祉室室長、副室長が和やかに討議しているところだった。島内の案内掲示、インフォメーションセンターの設え、のぼり旗の設置場所などを詳細に打ち合わせる。風の強い大島ではテントや旗はあっというまに吹き飛んでしまう。慎重に検討を重ねる事項が多いが、建設的に話が進んでいるのがうれしかった。
15:00 盲人会に行く。盲人会の磯野さんと合う約束をしていたのだ。私が「古いもの」「捨てられないもの」を集めて展示するとお話ししたためか、磯野さんが大事に保管していた点字タイプライターを見せてくれることになった。
盲人会のお部屋にはすでに泉、張、天野が磯野さんからお話をうかがっているところだった。テーブルには点字タイプライター。携帯用と大判のものの2つのタイプがある。磯野さんから点字のしくみをわかりやすく教えていただいた。6つの点の組み合わせでひらがなを示す点字はシンプルかつ機能的だ。タイプはその組み合わせを鍵盤で押し込むと紙に突起が刺さり凸面が記される。これらのタイプライター、昭和35年頃までは活用されていたそうだ。点字には音符もあるそうだ。磯野さんはハーモニカを教わったという。
磯野さんはハンセン病が直る特効薬ができてからも、薬が効かず、最終期まで病状が進行してしまった時期もあったが、いくつかの薬を併用する療法によりなんとか回復した。磯野さんの手の指はほとんど残っていない。末梢神経が麻痺するハンセン病に加え、磯野さんは視力を失ったため、手足の怪我に気付かず、そのまま放置して悪化させてしまい、次々と指を切断しなければならなかった。昔の日本のハンセン病治療が菌の消滅に集中しすぎたため、後遺症への認識が薄く、多くの入所者が重い後遺障害を持つにいたってしまった。磯野さんにとっては点字タイプライターを押すことさえ大変難しいのである。指先で点字を読むことも不可能だ。だから、盲人の入所者は舌読、つまり「舌」で点字をなめて読んだのである。
盲人会の入所者の皆さんは当時の整備されていない療養所の生活を改善するため、この点字タイプライターで訴状や文書を作成した。凄まじい努力、文字通り血のにじむ労力によって生き抜いてきたのだ。
私は「ご苦労されたのですね…。」と話しかけると、「当時はそれがあたりまえだった。戦時中のひどい状況に比べたらどうということないよ。」とおっしゃる。磯野さんはユーモアがあって、誰とでもフランクに接するお人柄。話しているうちにこちらが心を開いていくような信頼感を感じる方だ。記憶力がすばらしい。カラオケの歌詞を何十曲も記憶している。私が磯野さんに挨拶すると「高橋先生ですね。」と返してくださる。私の顔が見えなくても声でわかるのだ。
磯野さんから点字タイプライターと盲人会の看板を預かることになった。ギャラリー15で展示する予定だ。
18:00 磯野さんが帰宅され、遅くなってしまったが、会う約束をしていた入所者脇林さんのお宅に向かう。途中、自転車に乗った脇林さんと出会う。自転車の荷台にはみかん箱サイズの段ボール。写真作品と写真を印刷したはがき2000枚を載せている。「野村ハウスでお話ししませんか。」脇林さんと写真談義をしながら野村ハウス(11寮)に向かう。
野村ハウスで写真作品の展示方法を打ち合わせる。脇林さんは現在古い写真を発掘するために入所者をたずねて歩いているとのこと。脇林さんが撮影してきた松の写真と過去の古い写真とが混在した展示にしよう、と相談する。
19:00 脇林さんが帰宅される。
泉が中心になって夕食の準備。初めて大島を訪れた張にとって、なかなか濃密な日であっただろう。入所者から聞いたお話はどれも貴重で鮮烈なものだ。
21:00 大島の入所者が使っている共同風呂に入り、一日の疲れをとる。
1:00 就寝。

トリプルブッキング

2010年 4月 21日

午前中は授業に必要な素材を購入、先日現像に出していたフィルムを受け取りに行き、お昼に大学に着く。
13:00〜石膏型取りの授業。各自用意した果物をそっくりそのまま型取りする。
わかっちゃいるけど、確実に遂行していくためにはいくつものことを同時並行で進めなければならない。どれもけずれない、どれも放っておけない。
16:00〜現代GP報告書(文部科学省に決算書および活動実績、教育成果をまとめて提出するもの)の打ち合わせ。庶務課雲村も他の仕事と同時並行。プロジェクトルームの電話が鳴り止まない。昨年度の支出簿をすべて経費項目にまとめ、それらの関連事業を紹介していく作業。どの経費が何の目的に使われたものか。すべてを把握しているのは私ひとり。昨日夜中に作成した実績報告書も引っ張りだしてきてチェック作業。
17:30〜発達センターちよだミーティング。今年度の活動をどのように進めるかを検討する。報告書などの「研究」にかかる部分はスタッフ川島がフォローし、ワークショップチームは限りなくワークショップの準備と実施に集中する。
同じく17:30〜昨日来られなかった新メンバー(仮)のために足助病院訪問見学会の説明を昨日と同様に行う。リーダー古川とメンバー木谷が待機したが、今日は一人もプロジェクトルームに来なかった。
その後も現代GPの作業が続く。
21:30 作業終了。帰宅して、今度は大島の展覧会のための機材リサーチにとりかかる。

膨大な書類とにらめっこ

病院訪問会準備

2010年 4月 20日

9:15 プロジェクトルーム到着。スタッフ川島は9:00前に着いて掃除や片付けをしてくれている。昨日は38°を越える熱で全身の節々が痛み、なんとも堪え難かったが、休んでしまうと、全てストップしてしまう。幸い一晩寝てしまえば直ってしまう私のアメーバ体質。熱は下がっている。
10:00 大島チームの泉が到着、つづいて井木が着き、さっそくミーティングを始める。懸案事項が多く、確実につぶしていかねばならない。脳が白熱して体は火照ってくる。
13:00〜15:50 授業を行う。
17:30 4月30日に開催する足助病院訪問見学会の準備のため、参加者全員がプロジェクトルームに集まる。新メンバー約10名も緊張の面持ちでテーブルを囲む。リーダー古川の進行で川島が作成した行程表をもとに詳細の説明をする。足助病院の間取りを平面図で頭に入れる。マナーペーパーを読み上げて院内での振る舞いを見つめる。
私から「新しいメンバー(仮)は連れて行ってもらう遠足気分ではなく、当事者として自覚を持ってほしい。」と語りかける。病院に入って入院している病院利用者と接することは、どういうことか。明確な意識を持ってのぞんでほしいのだ。
最後に入院されている病院利用者にインタビューする際にどのようなことを聞きたいかを出し合い、ディスカッションを行った。以前はこうした話し合いを2週間、3週間をかけてじっくりと話し合い、その過程で病院と対峙する自身を見つめ直す機会となっていた。今回は訪問会まで10日ほどしか間がない。だからこそ「訊いてはいけない」事項、「やってはいけない」振る舞いのラインを他の誰かが引くのではなく、当事者である自分自身が自ら問いかけてほしい。コミュニケーションにマニュアルはないのだから。

やさ美相談日 いよいよ病院内へ

2010年 4月 19日

16:00 担当の授業を終わらせ、足早に大学を出る。スタッフの川島も一緒だ。今日は足助病院に行き、今後の研究会の開き方や運営方法、協働の体制作りについて大山看護部長、北村文化実行委員長と話し合う。
17:30 足助病院に到着し、大山さんと北村さんが2階にある看護部長室の前にある準備室に案内していただいた。
早速今日の案件について話し合う。大山さんも北村さんもお疲れの様子だ。というのも足助病院は新しい建物に立て替える計画で、現在院内各部署がスペースの割り振りを検討中とのこと。誰もが最善の環境づくりに邁進している。
今回の相談は新しい病院に生まれ変わることと無関係ではない。私から、研究会の開催回数を2ヶ月に1回程度に減らし、そのかわりに「相談日」を設け、一日やさしい美術のスタッフもしくはディレクター、メンバーらが駐在して院内から意見や感想を吸い上げて取り組みに反映していくというプランを提案した。事前にやさしい美術のメンバーが院内にいる日が確定していて各部署にアナウンスされていれば、現場で働いている職員さんの細やかな配慮や意見を活動にフィードバックすることができる。さらに、病院利用者と作品の関係性をじっくりと現場で検討できるというメリットもある。すでに展示されている作品のメンテナンスが行き届くなど、改善できることがたくさんある。
私はさらに踏み込んだ提案をした。それはやさしい美術が足助病院の規約に則った正式な委員会である「文化実行委員会に参加したらどうか。」というものだ。これを受けて大山さんと北村さんは「委員会でやさ美が参加されれば、より院内に活動が浸透するし、作品の検討が適所で確実に行うことができる。」と歓迎の意向を示された。私と川島はこれまでの8年間の積み重ねの先に実現するかもしれない「病院の日常にアーティストがいる。」という目標がふと現実味を帯びてくるのを感じた。今後は院内の規約の見直しを含めた、やさしい美術のオブザーバーとしての参加を認めていく方向で探っていくことになった。正式に確定してきたら、このブログで詳細を報告したい。足助病院での取り組みは新しい一歩を踏み出そうとしている。

いつもフレキシブルに活用されている「カーテンプラン」

院内に掲示されたチラシ。足助病院のオープンな雰囲気が出ている。