Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 10月のアーカイブ

瀬戸内国際芸術祭 最終日

2010年 10月 31日

台風はそれていったが、あいにくの雨。最終日ということもあり、来場者の皆さんは覚悟を決めて島に渡るに違いない。
3:00ごろに寝たが、緊張感でぴりぴりしていて眠気はない。
6:30 解剖台に手を合わせた後、ギャラリーをオープンしていると間もなくカフェメンバーの泉がやってくる。彼女はろっぽうやきのドキュメンテーションを今回展示している。展示ケースのガラス面を磨く姿を見て{つながりの家}の実践者としての心意気が伝わってきた。
9:30 雨の中、朝一便でやってくるガイドスタッフさん、警備員さん、通訳さん、アートナビスタッフさん、そして乗船制限ぎりぎりで大島にやってきた来場者の皆さんを迎える。来場者の中に会期前にお手伝いにきてくれた人、見学にきた人の姿もちらほら。また大島にきてくれたんだと思うと胸が熱くなる。
私は解剖台の前に立ち、やさしい美術プロジェクトの取り組み、解剖台の経緯、ギャラリーの展示内容を解説する。言葉が上滑りにならないように、気持ちを込めてお話しする。人々の強い視線を感じる。解剖台の前で一般来場者の意識は一点に注がれている。入所者の皆さんもギャラリーを見に来たり、知人友人を連れて展示会場を歩いている姿を幾度となく見かける。散歩を日課としている入所者は来場者との交流を期待して何度も繰り返しギャラリーのまわりを歩いている。入所者の馬場さんは「こんなにたくさんの人が大島に来たのは初めてだ。ほんとうにうれしい。入所者にももっと話す機会がもらえたら良いと思うが。」とおっしゃる。
大島全体が流動している!これまでに大島でこのようなことが起きたことがあっただろうか。

Morigamiは紅葉を迎えている

11:30 二便の来場者を乗せて官用船が桟橋に停泊。名人講座「よもぎだんごをつくろう」(※当初は「干し柿をつくろう」の予定であったが、酷暑のため柿が生らず変更した)参加者12名も合流してガイドツアーに参加する。3つのグループに分かれて大島をまわる。私はひたすら解説を続ける。合間に質問、激励の言葉をたくさんいただく。
13:45 予定より15分遅れて福武地域振興財団の視察一行60名が計3隻の船で大島に到着。ベテランのガイド末藤さん、石川さんがガイドツアーを担当し、約1時間で大島をガイド。私は福武總一郎さん(瀬戸内国際芸術祭総合プロデューサー)と側近の方々をご案内する。
土砂降りの雨の中、納骨堂、火葬場、風の舞、ギャラリーと歩く。福武さんから「大島の取り組みがあって、瀬戸内国際芸術祭全体の意義をさらに深められた。大島はとても大切な場所」との言葉をいただく。数年前から何度も福武さんは大島を訪れている。
福武さんを自治会長、園長に引き合わせ、しばし談笑。その後は桟橋へ見送りに。財団ご一行の船はすでに出発していて、福武さんは個人の船で大島を離れる。
その足でインフォメーションに寄る。今日はたくさんのこえび隊の皆さんが来てくれている。今日初めて大島に来たこえびさんもいる。
カフェに行くと玄関まわりに人だかりができている。今回の名人講座「よもぎだんごをつくろう」は完全に泉、井木に任せきりだったが、うまくいっただろうか。
カフェ・シヨルの前にすっと立つ男性が目に入る。アーティストの椿昇さんだ。「椿さんですよね。はじめまして。大島の取り組みの責任者高橋です。」と話しかける。
椿さんは落ち着いた声色で熱のこもった言葉を私に投げかけて来る。
椿さんとの対話で特に印象に残った言葉の要点を記しておきたい。
アーティストはきれいなものを作ることばかりが仕事ではない。アーティストは優れた媒介者になることができる。ある日外からやってきたアーティストがコミュニティーに溶け込む。そこにいる人々にはありふれた日常であってもアーティストはその重要性、そこにひそむ可能性にいち早く気づき、その事柄にスポットをあてる。アーティストはそれらを浮かび上がらせ、立ち会い、発信し、そして風のように去っていく。日本の社会でようやくそうした取り組みを認めていく動きが出てきた。希望と期待感を感じる。この瀬戸内国際芸術祭はその代表的なケースになった―と。
とても励まされる言葉だ。
解剖台が引き上げられ展示した7月上旬、私は島内外の感情のざわめきを察知していた。これまで自分が大島に来て何に取り組んでいるか自覚がなかったわけではないが、この一件で大島という「鏡」をかざすことの重大さが私の背骨を貫くように伝わってきた。私はどこに立つか。正誤、有無、強弱という対立構造の中でどちら側に立つか、というのではない。私が歩いている先にその場所が目前に現れた時に自分はそこに立つべきか、立っていられるか。換言すれば私が歩いてきたからこそここにたどり着いた。そのようにも感じられた。目をそむけることはできなかった。
―そうか、ここだったんだ―。
カフェ・シヨルに入ると、あたたかい空気がわっと染み込んで来る。この3ヶ月に人々が交わした様々な念いがこの空間を成熟させたと感じる。カフェを自分たちの作品と自負する泉、井木の二人は着実にその空気感が生まれる空間を醸成してきたのだと思う。入所者の大智さんが「名人講座」で大島を訪れた少年と自然体でお話ししている様子が、なんともあたたかで輝いて見えた。

背後に小さくなっていく大島

16:30 大島発高松行き 官用船まつかぜに泉、井木、天野、張そしてこえび隊のガイドボランティアをはじめ大島の取り組みを支えた人々とともに乗船。高松で開催される閉会式に向かう。土砂降りのなか、満席のまつかぜは大島の桟橋を離れる。ひとり、入所者の東條さんが傘をさして私たちの乗るまつかぜを見送る。
16:45 高松桟橋に到着。これまで桟橋で警備員を担当してきた面々がずらりと並んでまつかぜを迎える。花束を泉から新田船長に手渡す。
まつかぜ出航。警備員全員整列して敬礼で見送る。船が大島に向かい小さくなるまで見送る。大きく手を振る。105日間の冒険が終わる。実感が押し寄せて来る。
19:30 サンポート高松の大型テント広場での閉会式に出席する。こえび隊の皆さん実行委員会に関わったスタッフ全員が疲れをみじんも見せず、元気に盛り上げ役に徹している。私たちアーティストはその心意気を全身で受けとめるべきだ。私は初めてこうした芸術祭の閉会式に出席したが、全員満身創痍のはずなのに、底抜けに明るくて希望に満ちていてお互いを労う心が1つになっていくのを強く感じた。本当に出席して良かったと思う。
会場の広場に立ち、にぎわいの振動が足からじんじん伝わってくる。ほんとうに皆さんお疲れさま。そしてありがとう。
21:15 高松の桟橋からチャーター船で女木島経由で大島に帰る。実は私を含め泉、井木も大島以外の島に行ったことがない。
女木島の港に着く。船の窓から高松方面を見てみると―。女木島の港からは高松港全体を隅から隅まで見渡すことができる。町の灯が水平線状に並び、距離を感じない。
はっとする。大島の桟橋から見える高松の町並みはほんの一部なのだ。大島の居住区からは一番近い庵治町の街並みも見ることができない。なんたることか、大島から見えないということは高松の町からも庵治の町からも大島の生活はほとんど見ることができないのだ。
なぜ、このような場所に療養所を作ったのだろう。入所者が大島で過ごしてきた時間の長さを思うと絶句するほかない。

「さびしい」

2010年 10月 30日

今日を入れて残すところあと二日間。瀬戸内国際芸術祭2010が閉幕する。それは新たな出発でもある。自分にそう言い聞かせていても、これまでの日々がフラッシュバックしては熱いものがこみ上げてきてしまう。
昨日の夕方のことだ。私が安チャリ(安長さんからお借りしている自転車)で8寮前を走っていくと、「おーい。」という声で呼び止められる。8寮に住む入所者浜口さんだ。台所の窓ごしに「もう、終わるなぁ、先生。さびしい、さびしいよ。」とおっしゃる。毎日のように来場者に声をかけ、桟橋で見送ってきた浜口さんの105日間がもうすぐ終わる。
9:30 朝一便で来島される人々をお迎えする。
ぎっしりと来場者を載せた官用船は心なしか重そうに舵を切り、桟橋に寄せられる。
解剖台の前に立ち、来場者を迎える。質問が絶えない。
午後の便でアーティストの戸高千世子さんが来島。戸高さんは私と比較してもひけをとらないほど日焼けしていらっしゃる。戸高さんは陶芸作家でありながらも、様々な空間で実験的かつ美しいインスタレーションを手がけている。越後妻有アートトリエンナーレに続き瀬戸内国際芸術祭では豊島の池に風に感応するオブジェを配置した作品を設置、好評を博している。戸高さんの話ではボランティアスタッフこえび隊の協力はもちろんのこと、地元住民の知恵と労働力に助けられて完成したのだそうだ。戸高さんはその恩返しに住民の方々の田畑を耕すお手伝いをしているのだとか。日に焼けるはずである。住民の皆さんと汗水垂らして労働をともにする。「協働」を地で行くアーティストである。こうした地にしっかりと足をつけて立っているアーティストがいることがとてもうれしい。
カフェが空いている時間13:30に行き、ギターをひく。そこへ青松園副園長市原さんがランチにやってくる。しばしリラックスした時間が流れる。
16:30 カフェの泉、井木と桟橋で高松便最終を見送りに行く。桟橋の端まで走って行き大きく手をふる。満杯になった官用船から一斉に手を振ってくれている。満潮の瀬戸内海。桟橋ぎりぎりにまで迫る海面にそのまま走っていきたい衝動にかられる。
見送りのあとすぐに野村ハウスにもどり台所に立つ。今日は芸術祭最後の夜なので日頃お世話になっている野村さん夫妻を夕食に招いているのだ。カフェの井木、泉、張、天野は仕込みでそれどころではないので、私が独断でお招きすることにした。今回時間が全くなかったので高松で食材が買えなかった。乏しい食材でなんとか食事を作る。十日町病院の職員だった泉澤さんが送ってくれた魚沼産のお米を炊く。大島の義肢装具士西尾さんが釣ったタコが半分冷凍してあったのでタコでトマト煮を作ることにした。タマネギを3個みじん切りにし、きつね色になるまで炒める。そこにトマトピューレを加え、クミン、ターメリック、ニンニク、コリアンダーを加えて味を整える。冷凍室にあった肉を解凍し、唐揚げにする。ジャガイモを短冊状に刻み、しゃきしゃき加減を残して炒める。そこに先につくっておいた唐揚げを加える。最後に大智さんからいただいたすだちをきゅっとしぼる。
18:00 野村さん夫妻がお酒を持って野村ハウスにみえた。これまでこの11寮=野村ハウスがあったからこそ私たちはやってこれた。それだけではない。野村さんのつくった野菜や果物で私たちの日頃の健康は保たれたと言ってよい。感謝の一言を伝えたい一心だった。仕込みで全く隙間のない4人も顔だけでも出すように連絡する。電話もとれないぐらいだから、息つく暇もないのだろう。手が離せないから「ろっぽうやき」を焼いている最中かもしれない。食事もほどほどにカフェチームは仕込みにもどる。野村さんと今年の熱い夏を振り返る。大島すいかの甘さは今まで味わったことのないものだった。野村さんによればオクラの花は昨年はつくらなかったが今年は私たちがいるのでとっておいた種をまいたのだそうだ。毎朝花を摘み食す。なんと洒脱な食事。熱帯夜の夜が明け、オクラの花でつかの間の涼しさを感じていた。思い出がたくさんある。そして、これからも思い出は増えていくのだ。「野村さん、本当にお世話になりました。そして、今後もどうぞよろしくお願いします。」「このまま野村ハウスはおいておくから、そのまま使いなさい。」と野村さんはおっしゃった。野村ハウスは私たちの大島の家。野村さん夫妻は大島のお父さんとお母さんである。
20:00 野村さん夫妻は自宅にもどる。
私は荷物の整理と大学でやりのこした仕事をする。
芸術祭最後の夜は更けていく。

大島の将来構想

2010年 10月 29日

ラストスパートの大島。高松に着いてwebの更新ができていないことに気付き、推進室に寄って急いでwebの更新作業。その後、たくさんの来場者とともに11:00の官用船に乗り込む。桟橋でカフェのサポートをしてくれるやさしい美術プロジェクトメンバーの張と合流。二人ともアコースティックギター持参なので、年の差バンドっぽい(そんなジャンルあるんだろうか…)感じになってしまう。
大島に着くとこえび隊のガイドを務める皆さんが来場者をてきぱきとさばいている。私は荷物を置くとすぐにギャラリー15に行き来場者への解説に追われる。新聞社の記者さんから瀬戸内国際芸術祭における大島の取り組みについての総括と今後の展開についてコメントを求められる。記者さんばかりではない。来場者からも「芸術祭が終わった後はどうなるんですか。」「大島にはこれからも来ることができるのですか。」といった質問が続く。
13:45 来場者がギャラリーからいなくなり、野村ハウスに戻って昼食。職員食堂の智代子さんからおでんをいただき、メンバー天野が野村さんの畑でとれた大根葉で菜飯をつくってくれていた。美味しい!
14:20 桟橋に行くと官用船まつかぜに満杯の来場者が桟橋を練り歩いている。最後尾に自治会長山本さんの姿があった。私は「山本さん、以前からご相談している今後の活動の展開についてお話ししませんか。」と声をかけると「まだ提案書、読み込んでないので明日にでも話しましょう。」とおっしゃる。自治会長職は大変お忙しいとは理解しているが、なかなか話が前進しない。これまでもこうしてじっくりとやってきたのだから、焦るのは禁物だ。
一旦ギャラリーに行き、来場者とお話をする。

安長さんから預かった自転車、通称:安ちゃり

15:00 自治会室へ。山本さんが新聞記者さんの取材を受けている。まだ時間がかかりそうと思い、退席して自転車にまたがった時に背後から記者さんの声が。「山本会長、先生かえっちゃうんか、とおっしゃってますよ。」お話ができるタイミングだ。自治会室に戻り、さっそく提案書を広げながら説明する。
芸術祭終了間際の今だから言えるが、芸術祭が始まった時点で私は「{つながりの家}は継続する。」と自治会長、青松園事務長には宣言していた。私はその継続方法を自治会長が提唱する将来構想に包括されるかたちで改めて提案した。つまり、入所者の皆さんとの協働が前提となる取り組みである。10月に入り、山本会長は臨時で「資料収集委員」なるものを入所者で立ち上げた。私はそこに混ざって「古いもの、捨てられないもの/声、音の収集」作業に取り組みたいと考えている。わたしがこの芸術祭で集め、発表したものも山本会長の構想の中に取り込んでいくというお考えのようだ。このブログにも以前書いたように、資料的価値の篩に適わない記憶や痕跡を掬いとることができるのはアーティストしかない、と私は確信している。私の役割がここにある。
山本さんと議論をしているところに青松園稲田事務長がやってくる。タイミング良く事務長もお話がしたかったとのこと、急遽福祉室西嶋室長も交えて協議にはいる。
詳細はつめきれなかったが、{つながりの家}をまずは継続し、12月以降に具体的なスケジュールを発表する、との方向性で合意できた。この時点でカフェとギャラリーは芸術祭終了とともに消滅するということはなくなったわけだ!
16:30 話し合いが長引き、自治会室を後にしてすぐさま桟橋へ行き最終の高松便を見送る。まつかぜは隙間なくみっちりと人が乗っている。新妻さん、末藤さん、小坂くんがこえび隊としてではなく、個人的に第一面会人宿泊所に泊まることになった。入所者の森川さんに招待され、一席を設けることになったのだ。
17:30 第一面会人宿泊所に行くと玄関に見慣れた電動車椅子が停まっている。森川さんのものだ。玄関は行ってすぐの台所に行くと一足先に森川さんが座っていた。テーブルにお膳を模したお弁当の箱、灘のお酒が並ぶ。森川さんが今日のために用意してくれたのだ。
19:00 話に花が咲いているところに泉、井木、張、天野が合流。カフェの仕込みの合間を縫って顔を出してくれた。
20:00 カフェ・シヨルメンバーふたたび仕込みに向かう。
23:30 宴会お開きとする。森川さんは顔色が全く変わっていないけれど、相当飲んでいた。少し心配なので森川さんがお住まいの不自由者棟まで見送ることにした。電動車椅子は蛇行。森川さんも「蛇行しているのはわかってるよ。」とおっしゃる。千鳥足は電動車椅子になるとこうなるのか。なんとも危なっかしいけれど、でも森川さんは上機嫌だった。ほんとうに楽しかった。
その後はカフェ・シヨルを間借りして飲み直す。今日、森川さんと話した、入所者の心情について振り返りながらとりとめなく話す。また今日もたくさんのエピソードが私の記憶にとどまった。時間がゆったりとできた時にそれらを今の大島に投影して観てみようと思う。
3:00 就寝。

つながりはふと顔を出す

2010年 10月 28日

昨日、ラジオビタミンで出演した折、ファックスやメールをたくさんのリスナーからいただいた。
そのなかの一通について。
十日町病院の近くに空き家を借りてワークショップや滞在型の制作を行った「やさしい家」に取材に来てくれたFMとおかまちの佐藤さんからうれしいメールが送られてきた。私が家族全員で「やさしい家」に滞在し、お茶の間の雰囲気で一般公開をしていた様子が文面に綴られていた。すごくうれしかった。しばらく妻有に行けず、十日町の皆さんにはご無沙汰している。少し時間ができたら、必ず、顔出しますから!
魚沼産のお米を送っていただいた元十日町病院の職員泉沢さん。いつも気にかけてくれていて、そっと私たちを支えてくれている。

つながりを感じるとき。それはふとしたことで表面化するが、いつもは私たちの心の片隅にあって、姿形が見えないもの。私は確かに、つながりの編み目の中にいるのだ。

ラジオビタミン出演

2010年 10月 27日

7:00 起床。昨日から肌寒い日が続いている。ホテルの外に出てみるが、空気の冷たさが引き締めてくれるようで心地よい。ホテルのレストランで食事して、チェックアウト。
9:25 NHK正面入り口に到着。ホテルから歩いて5分ほどだ。NHKは通勤ラッシュでたくさんの社員さんが広大なNHKの敷地に飲み込まれていく。
受付を済ませてゲートを通り、廊下を見やると、今回の「ときめきインタビュー」ラジオビタミンの担当ディレクター西村さんがやってくる。西村さんは髪を束ねていて、名古屋の取材でお会いした時と少しちがう印象。とってもきれい。ぎゅうぎゅう詰めのエレベーターで「ラジオセンター」へ。

スタジオで村上信夫さん、神崎ゆう子さんと記念撮影

「ラジオセンターのあるフロアはNHKのアナウンサーが集まっているところなんですよ。」と西村さん。スタジオに入るとスタッフの皆さんから気持ちのよい挨拶。とてもリラックスした空気感で仕事をされている。そうか、番組の空気感はスタジオ全体の雰囲気を伝えていることにもなるんだな、と感じる。西村さんは私に緊張感を与えず、それでもディレクターとしてここだけは伝えたい、というポイントをしっかりと私に伝えてくれる。
ニュースの時間帯になり、ラジオビタミン司会の村上信夫アナウンサーと神崎ゆう子さんがスタジオから出てくる。お二人ともすらりとして笑顔がすてき。かんたんにご挨拶申し上げる。
ときめきインタビューはこのNHKラジオ第一放送で一番長いインタビューワイドコーナーである。リラックスムードの中でもやはり私が伝えたいことはしっかりと自分の言葉で伝えたい。
10:00 スタジオに入る。スタジオに入ってインタビューが始まる直前になっても村上さん、神崎さんも私にどんどん話しかけてくる。息をとめて自分の出番を待つ、という感じではない。そのまま自然にインタビューに入っていく。
10:05 放送開始。西村さんが組み立てた構成のもとインタビューは進む。
やさしい美術プロジェクトの基本姿勢。患者さんにインタビューし、患者さんの日々を知り、患者さんの痛みや苦しみを自分のこととして捉えていくこと。
コミュニケーションあっての、関わりあっての表現活動であること。作品例に「私の美術館」「FOREST」「森をつくる折り紙Morigami(もりがみ)」
私の幼少の頃のお話。小学校2年生のころゴッホ展を観て熱を出して倒れたこと、兄の影響でロックにめざめ、絵を描く楽しみをおぼえたこと。
兄の死と向き合い、悩んだこと。私にとって初めての「やさしい美術」は私がボクサー、世界チャンピオン飯田覚士を描いた絵を兄の病室に貼ったこと。
兄の手を何度もにぎった。手をにぎるようなアート。それがやさしい美術の原点。
兄との思い出の曲「あしたのジョー」。
ニュースをはさみインタビューは後半へ。
大島での取り組み{つながりの家}についてお話しする。
私が作品をつくるのではなく、入所者の生き様を通してすでに潜在的にメッセージを投げかけている大島。その傍らに立ち、その声を外につなげていくことが私の仕事。
「大智×東條展」で展示された声の作品を流す。
「おおーい、やっとるかー」「ほっほーぃ」「おったらええどぉー」「かえるんかー」というかけ声が畑に響く。その声は悲痛なものではなく、生命感にあふれていて全身が震えるような感動をおぼえる。
実はディレクターの西村さんがプライベートで大島を訪れた時この声の作品が流れていた。西村さんはこの声に触発されて、今回の番組にいたったのである。
ミラー展の話。大島にのこされている遺物の部分をみがき自らの姿を映す。
訪れる私たちは入所者の皆さんの生き様にふれて、自ら問い返す。「生きるということ」。
大島自体が大きな鏡なのだ。
10:55 私のインタビューは終わった。
村上さんと神崎さんの導きでとても気持ちよくお話しできた。小原村での経験もお話する予定だったが、時間の関係で割愛。それでも今回一番伝えなければならないことはもれなく伝えられたかと思う。
番組を聞いていたリスナーから続々とファックス、メールが入る。20通ぐらいを目に通させてもらった。私が話したことに共感していただける人がたくさんいる。私はこうした人々に支えられているのだ。なんか、じんとしてくる。
11:30 西村さんに見送られながらNHKを後にする。
さて、ここから気持ちを入れ替えて展覧会を観てまわることにする。
まず、トーキョーワンダーサイトの「silent voice」を観る。私自身トーキョーワンダーサイトで展覧会に出品したことがある。歴史的、社会的テーマに取り組むアーティストの作品を観る。特にムン・ギョンウォンのHDフィルムの映像作品は歴史的な痕跡とアーティストの想像が交錯する世界がとても魅力的。クオリティーの高さも手伝って、心に何かを置いていく作品だ。

21_21DESIGN SITE

六本木の東京ミッドタウンに出て、21_21DESIGN SITEで佐藤雅彦ディレクション「これも自分と認めざるをえない」展を体験。あれをしなさい、これをしなさい、と鑑賞者に要求の多い展覧会。インタラクティブアートという印象とは異なり、人間自身がつくったシステムに人間が絡みとられていくような「属性」についての考察がテストケースとしてそれぞれの装置となっている。私とは何者か。とてもシンプルな問いかけを生み出している展覧会だ。
森美術館へ。
ネイチャーセンス展を観る。吉岡徳仁、篠田太郎、栗林隆の展覧会だ。
大空間を使ったインスタレーションはなかなかダイナミック。日常からかけ離れているスケールの大きさが観るもののこころをがっつりとつかんで放さない。吉岡氏の雪を喩えた羽毛が舞い上がる巨大なインスタレーションが目を惹く。光源が背景から当たっていて、計算しつくされた完璧な美しさ。3名の作家に共通することだが、自然現象に委ねる潔さを感じる。全てを創りすぎない、という絶妙なスタンスが人の存在を浮かび上がらせているように思える。
充実した一日だ。ひさしぶりに展覧会をじっくりと観た。リフレッシュ完成!

東京へ

2010年 10月 26日

前日夜中までかかってしあげた、提案書。大島の将来構想に包括される{つながりの家}を私なりに精一杯描いてみた。瀬戸内国際芸術祭後、つながりはじめた糸が切れてしまわないように、さらに強靭なつながりになるよう紡いで行かなくてはならない。
8:30 郵便局が開くと同時に提案書を大島青松園自治会長あてに郵送する。
16;00 授業が終わり、すぐに通学バスに乗り込んで春日井駅へ。そこから名古屋駅に足をのばして新幹線で東京に出る。明日の午前にAM全国放送のNHK第一放送「ラジオビタミン」に出演するためだ。そういえば入所者自治会山本会長はじめ、官用船船長、福祉室長らも大島から東京に出ているはずだ。官用船の民間委託問題について厚生労働省と協議する模様。
19:30 東京駅へ。品川から渋谷の方が近いが、東京駅まででて用事をすませる。
明日、番組でお世話になる村上信夫アナウンサーから電話がある。ラジオで聞くのと全く同じ、張りのある声であることが電話口でも伝わってくる。なんでも、我が名古屋造形大学学長の高北氏と名古屋局で番組をしばらく担当していたとのこと。知らなかったー。
20:00 NHKのある渋谷駅到着。予約していただいているホテルにチェックイン。早く寝ようと思っていたけれど、なかなか寝付けず2:00就寝。

小牧市民病院 病棟へモビールを

2010年 10月 19日

16:00 授業が終わるも立て続けに学生からの相談があり、あっという間に16:30。あわてて車に乗り込み小牧市民病院へ向かう。
精神科前の廊下に展示する作品の打ち合わせのため、スタッフ川島は16:00には小牧市民病院入りしているはずだ。今年制作をお願いしている森さんには以前より絵本と絵本から展開したイラストレーションを制作いただいた。絵の佇まいは緻密だが、森さんの描く子どもや動物はふんわりと柔らかい印象だ。
17:00 小牧市民病院に到着。さっそく待ち合わせの場所、地下の食堂に行く。川島と森さんが中央のテーブルについている。遅刻の失礼をお詫びしてさっそく打ち合わせにはいる。今回は布と刺繍で制作する作品になりそうだ。現場のサイズや作品の概要はこちらから連絡することにした。
17:30 東棟4階の看護師さんと総務課の吉田さんに来ていただき、研究会を始める。モビール作品の大まかな提案は了解いただいた。患者さんから見た印象がどのようなものになるか、相談を重ねた。やはり現場で実際に作品を設置してみて判断することもあるだろう。
研究会のあとは今展示している作品のコンディションをみて必要に応じてメンテナンスを行う。化学療法室に絵画の作品を展示する。化学療法室はがんの患者さんが抗がん剤の投与を受ける場所だ。いつも総務課の吉田さんに患者さんがいないことが確認されたら展示作業を始めるようにしている。
化学療法室の廊下は清潔感があるが、温度が低く感じられるほどに冷たい印象が拭えない。その廊下に作品の展示によって差し色をするように展示していく。じわりとその空間の温度が上昇する。気のせいではないと思う。
20:30 小牧市民病院を出る。
川島と二人で搬入ラーメンを食べにいく。へとへとの身体が潤っていく。

安長さんの自転車

2010年 10月 17日

毎日少しずつ磨いている解剖台

慌ただしかった「大島に暮らす展」と「大島の身体(からだ)展」準備と作品設置。キャプションの微修正などがようやく落ち着き、安心してじっくりと鑑賞できるかたちに仕上がった。今日私は一旦名古屋に帰る。
8:00 準備に泉はすでにカフェに出ている。畑作業に来た野村さんにアクリルフレームに入れた写真をお渡しする。写真は野村さん一番の自慢、サツキの盆栽が満開のを撮影したもの。野村さんはいつものように少し伏し目がちに受け取る。
お客さんがギャラリーに来る前の少しの合間に今後の活動についてのレポートをまとめる。すると外から「おい、先生はおるか」と声がする。となりの10寮に住む入所者の安長さんだ。私が玄関先に出て行くと、安長さんが茶色の自転車を携えて立っている。「置いといてもしかたないからあんたが使うとええ。」といきなりその自転車を差し出す。
遠慮なくいただく。よく見ると、チェーンにオイルを注したばかりだ。新しい自転車ではないけれど、とてもよく整備されている。安長さんが毎日少しずつ整備してくれた自転車。サドルの高さを合わせて乗ってみる。あ、しかもこの自転車、3段のギア付き…。気持ちよく大島の風を切る。安長さん、ありがとう。

大島の身体展の一部

11:00 お客さんに解剖台とギャラリー展示の解説をしている。ふと土手に目をやると入所者の脇林さんがカメラを抱えている。芸術祭の様子を記録してくれているのだ。
安長さんから「先生、コーヒー飲みにいくぞ。」と誘われる。「先にカフェに行って待っててください。すぐ行きますから。」安長さんにもらった自転車に乗ってカフェ・シヨルへ。
カフェの真ん中の席で安長さんは本を読んでいた。私はカフェの片隅に置いてあるギターを持ち出してくる。コーヒーを飲んで、ギターをひく。安長さんはだまって本を読む。なんて心地の良い時間。このカフェをプロデュースした井木と泉のつくりかったことはこの何気ないくつろぎの時間なのだ。入所者自治会長の山本さんも数人の女性を連れてご来店。こちらも話に花が咲いてなかなか楽しそう。あまりにもなごやかなひととき、愛機のシャッターをきる。
16:15 まつかぜに乗船。泉と職員の大澤さんに見送られて大島を後にする。
高松に着くと人、人、人。芸術祭のスタッフによれば、どの島も全部が原宿状態だそうだ。瀬戸内芸術祭ラッシュである。

黄金の500円玉

2010年 10月 9日


8:30 まつかぜに乗船。昨夜から降り始めた雨は思いのほか雨脚が強い。
まつかぜで入所者の大久保さんと一緒になる。田島征三さんが開いた「おむすびの会」にも来ていただいていたようだ。「あんたも来るかと思ってたけど、おらんかったな。帰っとったんか。」とおっしゃる。そうか、私もいると思ってきてくれた人もいたんだ。「センターの○○にいるからいつでも遊びにきなさい。」とおっしゃった。私が大久保さんに始めたお会いしたのは文化会館の図書室。大久保さんはぶらりとやってきて新聞に目を通されていた。「どこから来たんか。」と聞かれ「名古屋です。」とこたえる。それから高松の桟橋や島でお会いした時は世間話をするようになった。
大久保さんは今年に入って点滴中に2回気を失ったそうだ。「死にかけた。でも、生きていればいいことがあるんだよ。今年はいいことがあった。」なんだろう、いいことって。「変な夢を見てな。家に段ボール箱を持ってきた人が居てな、その箱を開けたら黄金色の500円玉がぎっしりや。」黄金色の500円玉というところが脈絡なくて良い。「そしたらな、いいことあったわ。」なんとその日万馬券大当たりだったそうだ。
大久保さんは毎日新聞を読む。運勢の欄はかならず目を通すそうだ。毎日を楽しく生きる術。
大久保さんと話していたらあっという間に高松着。スーパーマーケットへ。食料をたんまり買い込む。今日はごちそうつくるぞー。
推進室に立ち寄り、ブログのみ更新しておく。
11:00 高松港桟橋に行く。あいにくの雨の中、たくさんの来場者の皆さんが高松港から各島に散らばって行く。大島の船着き場にも30名ほどの方々が列を成している。なんか、じんとしてきてしまった。来場者の皆さんひとりひとりにお話をしたい、そんな気持ちに駆られた。うれしいという一言ではもはや表現できない。
大島につくと、ガイドをしてくれているこえび隊の稲垣さん、笹川さんがぐしょぐしょの靴で来場者の皆さんをご案内している。からだが冷えるだろうに…。ほんとうにおつかれさま。
野村ハウスにもどってからはフィルムのスキャン作業に没頭する。次回の企画展に展示する写真はたくさんのストックの中から選んで展示する予定だ。写真一枚ずつに封じ込められた空気を味わいながら作業を進める。
16:00 桟橋に行き来場者の皆さん、ガイドスタッフの皆さんを見送りに行く。
出航。いつものように心を込めて手を振る。皆さん満面の笑顔で返してくれる。また、大島に来てください!
さて、食材が豊富になった野村ハウス。

人間国宝級だと私は思う

2010年 10月 8日

9:10 まつかぜに乗船。大島に向かう。
13:00 次回のGALLERY15の企画展「大島の身体(からだ)展」取材のため義肢工作室に向かう。
職員の西尾光雄さんが笑顔で迎えてくれる。部屋の中央には作業机、ボール盤や各種工作機械が並んでいる。スチール棚には補装具のサンプルや入所者の足や手を型取った石膏型が所狭しと並ぶ。私は彫刻専門だったのでむしろこの雰囲気が懐かしく感じられる。
テーブルにはスプーンやフォークとそれを心地よく使うための自助具が並ぶ。すでにいくつかサンプルを製作していただいたようだ。
自助具の変遷は大変興味深い。以前、すべて身の回りのことは入所者自身で行ってきた。自助具のはじまりは筆をゴムひもで手にしばりつける、ごくシンプルなものだったという。
「自助具の原点は、患者さん自身が自分で身の回りのことをしたい、という意欲だ。」と西尾さんはおっしゃる。
ハンセン病はらい菌が皮膚のマクロファージ内および末梢神経細胞内を蝕む感染症である。ハンセン病の症状である神経の麻痺、感覚がないことによる外傷の積み重ねにより身体の一部が変形、萎縮、欠損する。

義肢装具士の西尾さんの仕事場

感覚がない、とはどういうことだろうか。物がぶつかっても痛くない、高温のものに触れても熱くない、物をつかむ時に必要以上に強く力を入れてしまう。骨が軋むほどの衝撃でなければ感知できないのであれば、日々の積み重ねで身体が破断、欠損してしまうことも何ら不思議ではない。
またハンセン病の後遺症、障害の状態は著しく多様なため、生活の一端を担う自助具や補装具に高度な技術と独創的なアイデアをもたらしたという。西尾さんが考案した自助具にそっくりのものが後に製品化されたということもしばしばあったそうだ。ハンセン病療養所は補装具の最先端だったのだ。加えて当時は補装具の必要性に反して予算が乏しかったことも、アイデアをうむきっかけになっている。飲料に使用された容器(セルロイド)を溶かし塗布して補強する安価な方法も編み出された。
とにかく西尾さんの仕事は機能美に満ちている。それは痛みや不自由さへの想像力が極めて鋭敏でその感覚を作業に集約する集中力の技にほかならない。一言で言えば、それは鋭敏に物事を捉え、やさしく対処するということ。「やさしい」という言葉がふわりと私の中に浮かぶ。
西尾さんは私は人間国宝級だと思う。
次回企画展は10月14日(木)から。西尾さんに協力をあおぎながら自助具や補装具を見つめ、入所者の身体に思いを巡らす展示も行う予定。乞うご期待!!