Nobuyuki Takahashi’s blog

2011年 3月のアーカイブ

年度末会

2011年 3月 30日

リーダー古川が呼びかけて年度末会を行った。
お好み焼きを作り皆で食べた。
古川が仲間と制作したムービーも鑑賞。爆笑の渦に。
今日がスタッフ川島の勤務最終日。寄せ書きを胸にプロジェクトルームを後にする。
来年度にスタッフを担当する林も駆けつけた。ちょうどメンバーに紹介できた。

2年半ぶりの家族旅行

2011年 3月 29日

スエードの皮ジャケット

私が担っている仕事場に家族が来てくれることを除いて、2年半ぶりの家族旅行だ。
28日、まず伊勢に行く。外宮へ行き、参拝。人が少なく、とても落ち着いた空気。心が洗われるようだ。その後内宮へ。一般的に知られているのは内宮。近くに「おかげ横町」という土産物屋が軒を連ねる界隈がありにぎわいを見せている。私にとって伊勢参りは小学校4年生頃(だと思うが)両親、兄、私の4人で詣でて以来だ。今から3ヶ月前のこと、私は母に伊勢へ家族旅行すると話すと、物置から一枚の写真を出してきた。私は実のところあまり伊勢神宮を憶えていないのだが、その写真はまぎれもない事実を映していた。鳥居の前で家族全員揃って記念撮影。その日母から茶色の皮ジャケットを手渡される。当時伊勢参りに行った時に父が羽織っていた―その記念写真にも映っている―ジャケットだ。かるく40年は経っている。父のあとは兄が着ていた時期があり、兄が亡くなってからは母が箪笥に入れて大切にしまっておいたものだ。
この日私はこの茶色のジャケットを身につけて伊勢神宮に詣でた。とても清々しく気持ちがよい。子どもたちは退屈しているようだけれど、それも微笑ましく思える。私も当時はそうだったに違いない。

私の奥さんが宿を手配してくれ、伊勢神宮からさらに南へ30キロ、渡鹿野島 のとある宿に宿泊。海の幸を堪能し、温泉を愉しむ。体の力を抜き、家族との時間をゆったりと過ごす。

翌日29日。チェックアウトを済ませ、渡し舟に乗って渡鹿野島を離れる。
そこからは天岩戸へ行く。日本100選に選ばれる 名水。岩の間からしとどに流れ落ちる水、水…。私たち家族はその水を口に含み、その冷たさと澄み渡る風味を堪能。そこから600メートルほど山に入っていくと風穴と呼ばれる奇岩を観ることができる。何かが宿っているのではないか、人ではない誰かの仕業では、と思えるほどの造形。慧地も興味津々だ。

昼食を済ませ、伊勢神宮から50キロほど紀勢内陸に進む 。高原宮を詣でる。遠くから観て高原宮がある辺りの森のスケール感は桁違いだ。その辺りだけが入道雲が猛るように盛り上がって見えるのだ。近づいてその力強さは包まれるような包容感にとってかわる。森の深遠さ、気高さが充満している。朽ちた大木から新たな芽吹きがあり、そこには蜿蜒と繰り返されてきた生死の営みがある。質感も規模も異なるが、私はそこで屋久島の森に近い感覚を掬いとった。手洗い場は川のせせらぎにて。静謐な時が流れる。月並みな表現だが、心が澄み渡っていくのを実感する。

さて、今回の旅のもう一つの目的。それは私の母方の、先祖が暮らしている土地を訪ねることだ。 四日市の郊外にある高角町(たかつのちょう)に向かう。この界隈は昔ながらの田舎で、都市化の波を受けていない。おそらく風景は母が生まれて育った頃と大きくは変わっていないのではないか。古い軸組の家屋が狭い路地をはさんで、支え合うように建ち並ぶ。家族で少し周辺を歩いてみることにした。母の父、つまり私の祖父は味噌醤油の醸造元の息子として生を受けた。戦後すぐに名古屋市中区の大須に酒屋を開いたが、母が高校生のころ肝臓がんで亡くなった。
路地を歩くと醤油の香りが漂ってきた。畑にはお年寄りが多く居る。美しい風景。母の旧姓「中村」の表札を幾度か見かける。路地の合間に空き地があり、使われなくなった大きな味噌樽を見つける。写真を撮っていたら、美朝がファインダーに飛び込んでくる。迷わずシャッターを切る。樽の大きさが一際強調され、なんとも微笑ましい。 背後から畑仕事をしていた老夫婦から話しかけられる。「今時、そんな樽は見たことないわな。」「こんな大きなものは見たことがないですよ。」
ひょっとしたらこの人は私の遠い親戚かもしれない。挨拶を交わしながらそんな予感がよぎる。

私の先祖返りに家族皆がつきあってくれた。子どもたちは今は理解できなくとも、記憶のどこかで醤油の香り、葉裏を照らす日差しの美しさを心に刻んでいるだろう。 家族が持てたことに感謝―。

繰り返される

2011年 3月 27日

今日のお昼時、私が一時期を過ごした小原村(現、豊田市小原町)でお世話になった高味さんが我が家にやってきた。
寿子さん、すこやかさん、無無ちゃん。
私が20代半ばの頃、居候していると言ってもいいほど、お宅にごやっかいになっては子どもたちと遊んだ。修一さん(とうさん)、寿子(かあさん)の子どもたちは5人。すこやかさん、無無ちゃん、空也くん、かおすくん、楽生(らき)ちゃん。本当に良く遊んだ。
その時小学生だった、すこやかさんとむむちゃんはもう立派な大人で、高校で先生をしているそうだ。
私は午後に仕事があり、大学に出かける。帰宅して妻からすこやかさんと無無ちゃんは息子の慧地、娘の美朝といっぱい遊んでくれたと聞く。こうして、人と人の間柄は世代から世代へと受け継がれていくもの。あー、時の経つのは早いものだ。

モビルスーツ

2011年 3月 26日

自家用車を運転して出勤する。心なしか、昨今周辺の運転が荒いと感じる。皆何に苛立っているのか。
車は「モビルスーツ」だ。ガンダム世代にはなじみの言葉。ここでは身に纏い、自身の行動、行為を拡張するもの、あるいは直接の身体感覚を外部から防御するもの、見方によっては自身の心理が外部に現れるもの、と言えるかもしれない。
横暴な運転をする人、明らかに外に向けて闘気を放つ車、ステイタスを表明する高級車で幅を利かす…。車を運転していると、生身の人間がすれ違ったり、出会ったりする社会とは異なる触感を味わう。世界に張り巡らされた道路という道路は、普段表に出てくることのない剥き出しの感情が血流のように 脈打っている。
車社会の一番の弱者になってみると、それはとてもよくわかる。
私は20歳代に軽トラックを3台乗り継いできたのだが、たびたびあおり、かぶせ、罵声を浴びることがあった。
ある日こんなことがあった。スピードが出ないのにいらだったのか、その素朴でブリキのような車体を見てつい威圧的になったのか、 私の運転する軽トラックをさんざん後方からあおり続け、ものすごい勢いで無理な追い越しをしてきた車があった。普段はそのまま見過ごすのだが、その時は危険極まりなく身の危険を感じた。あまりにも腹が立ったので、私は次の交差点で軽トラックを降り、つかつかとその車に歩いていっておもむろに運転席のドアを開けようとした。がちゃがちゃ、がちゃがちゃ。繰り返し開けようとするがロックがかかっている。荒っぽい行動のようだが、私は終止笑顔だった。それが反って怖かったのかもしれないが運転者は顔面蒼白ですっ飛ばして逃げていった。
(※ぜったい真似をしないでください!危険な行為です。)
私は最もか弱い「モビルスーツ」をかなぐり捨てて相手の「モビルスーツ」の操縦者を表に引きずり出そうとした訳だが、元来生身の人間の接触というのは勇気と覚悟が要るものだ。激しい感情をぶつけ合うには痛みを伴うもの。それに、外見の―この場合は軽トラックのような弱々しい―人が運転しているとは限らない。外身と中身は合致しないこともあるのだ。

現代の社会では、心身の機能拡張を介しての接触は車社会に限らない。お互いの顔が見えないネット社会、どこでもつながる携帯電話などなど。生身の人間が一番生々しいとは言えない時代に入り、「痛み」の感覚を格納している場所がわからない。

まず、描きはじめましょう

2011年 3月 24日

今日は10:00〜12:30会議、13:00〜18:30会議。終日会議漬けだった。その間、泉が大島関連の事務仕事をこなし、スタッフ川島が年度末のまとめの作業を進めてくれている。

被災地支援の一助となるべくやさしい美術プロジェクトの「絵はがきワークショップ」について少しずつだが準備を進めている。
今のところ、絵はがきを(横書き、サイズなどのフォーマットを決めて)やさしい美術のもとへ送ってもらう、あるいは各所でブース(私たちはこれを絵はがきワークショップキットと呼んでいる)を設けて絵はがきを描いてもらう、2種類の集め方を考えている。

長かった会議のあと、研究室に戻ると、同僚の日比野ルミ准教授から3枚の絵はがきを渡された。とても、とても心がこもった絵はがき…。こうして当地に思いを馳せ、その念いを描きつけている人がいる。

私は近いうちに、もちろん現地で迷惑をかけないタイミングで現地に行こうと思っている。そのころには私のもとにはたくさんの絵はがきが集まっているかもしれない。その一葉一葉を大切に届けるためにも、現地の空気を実感してくる必要がある。

皆さん、今からでも絵はがきを描きはじめてください。描き続けてください。渡すタイミングは必ずや私たちの前に訪れるでしょう。

引き継ぎ作業

2011年 3月 23日

今日は来年度スタッフを担当する林治徳がプロジェクトルームに来てくれた。今年度担当した川島から仕事を引き継ぐためだ。午前いっぱいを使って私から仕事の概要を林に伝えた。
川島がてきぱきと仕事の内容と対処法を伝えていく。林も4月からすぐにスタートできるように眼差しは真剣そのものだ。
休憩中は東北関東大震災で何ができるのか、議論した。学生からのアクションは少ないが、やれることからやれる人で進めていこうと思う。

小牧市民病院 活動報告

2011年 3月 22日

moca(井口弥香)デザイン&制作のモビール作品の新作

毎年恒例で行っている小牧市民病院での活動報告会。これまで3月上旬にスケジュール調整し、小牧市民病院内の講堂を使ってこの1年間の活動内容を発表してきた。しかし、今年は活動報告会を開催しないことになった。というのも総務課職員さんにこれまで尽力いただいているが、どれほど周知徹底しても人が集まらないのだ。末永院長は必ず出席いただいているが、他の職員にしてみれば、院内のアートプロジェクトは仕事から外れたことになってしまう。私たちの活動が院内のボランティア活動の域を出ないのは、まさにこのことにかかっている。病院に組織的に取り組む仕組みを作り、病院に必要とされる安全管理や患者さんのアメニティーの充実など、仕事として人を置くことができるようでなければ、院内の正式な取り組みとして認知されない。やっていることはいいことなのだけれど、必要に迫られてはいない、曖昧な存在感なので誰も真面でやろうとしない。
一方私たちやさしい美術プロジェクト側はどうか。これも大学の正式なプロジェクトであるならば、大学内の組織構成と連携、評価基軸や評価方法が定められ、年度に限らず長いスパンで取り組まれているのが本来だ。当プロジェクトは現代GPに採択されたが、3年間の大いなる試みは終わり、大学に根ずくに至らなかった。私の力の足りなさ故である。
「臨床するアート」福岡セッションに発表者として参加してきたが、その際大阪市立大学付属病院の山口悦子さんの発表は目を見張る内容だった。山口さんはドクターでありながら、病院内の安全管理を医学、社会心理学などの学問を礎に院内の機構に組み入れた形でアートを実践している。全国でも間違いなく先端を行く活動だ。病院主導で動くアートの活動。

16:00 午前中になんとかまとめあげることができた活動報告書と1年間のアンケート調査の分析結果、今年度作品を設置した部署へのアンケート用紙を総務課の吉田さんに手渡す。その後はスタッフ川島は院内各所に設置したアンケートの収集とメンテナンスにまわる。私は森をつくるおりがみMorigami(もりがみ)のメンテナンスにとりかかる。
地震の被災地を思う。Morigamiを送るのも一策かもしれない。折るという行為。繰り返すこと。自分の時間をしっかり持って集中するには折り紙は最適だ。さらにそれは単なる折り紙ではなくて、複数集まることで森を育んでいくという前向きなイメージも増幅される。

18:30 諸作業を終えてプロジェクトルームに帰ってくる。私はパソコンを起動し、いくつかの連絡事項、頼まれている確認作業をさくさく済ませていく。その後散らかったプロジェクトルームを片付ける。年が明けてから新聞記者さんや研究者の方など何人かこの部屋を訪れているが、その都度気にかかっていた。清掃、整理整頓が行き届かず、とても人を招くことができる状態になかった。
収納し、整理してすっきりとしたところでayakoさんの消しゴム版画作品を板に取り付ける作業を行う。スタッフ川島に差し金の使い方を伝授。
22:00 作業終了。大学を出て一路自宅へ。

ボランティア

2011年 3月 21日

自分が出演したのをきっかけにNHKラジオ第一放送をよく聞くようになった。もちろん時間を許せば、ラジオビタミンは聞くようにしている。放送の中で愛知県東海市が震災の支援物資を送る手配をしているが、物資の仕分け作業が難航しているとの情報があった。これは行くしかない。
20日から22日まで二泊三日で妻有(新潟県十日町市)に行く予定だった。交流を大切にしている十日町の人々に会いに行くにしても、無駄なガソリンは使えない。幹線道路は物資を運ぶ車両が最優先。震災のあった東北に物資も油も集中させなければならない非常時だ。加えて地震の影響で高速道路も通れないところがあるようだ。今回は断念せざるを得ない。
こういう時こそいつものように日々を送ることも大切だ。映画を観に行きたいと強請る子どもたちを妻に任せ、私は東海市製鉄公園に向かった。

東海市は名古屋の市街地で知多半島の根元にある。新日鉄の錆び付いた工場がまるで要塞のように根を張る町。我が子二人をとりあげてくれた助産院もすぐ近くにある。何度も通った道すがら、懐かしさがこみ上げる。
10:00 製鉄公園の体育館に行くと、入れ替わり立ち替わり乗用車が駐車場を出入りしている。それらの車からは衣類や毛布、布団を抱えた人々が吐き出されては体育館に飲み込まれていく。
体育館入り口でボランティアの手続きをして名札を受け取り、体育館に入ると―唖然とする。建物以外は一切止まっているものがない。およそ50名ほどだろうか、ボランティアの皆さんが館内を渦巻くように動き回り、仕分け作業がぐいぐいと進んでいく。その勢いに圧倒されたのだ。気遅れしないようにと思うが、誰も指示する人がいない。とにかく近くで衣類を仕分けし、畳み直している奥様方に混ぜてもらうことにした。
山のように積み上げられた衣類。それをセーター、薄手のもの、ズボン、上着、襟のあるシャツなどに仕分けていく。掌が擦れて熱くなってくる。ウールのものが多いので、埃が舞い、あっという間に鼻炎になってしまう。ハウスダストに過敏な人は密閉性のあるマスクが必需品だ。
仕分けた衣類、毛布、布団、肌着類をかなり大きな段ボールにぎっしりと詰め込む。これが、重い。大きな台車に乗せて体育館の両サイドに積み上げていく。
ついぞ私のとなりに来た男性は戸惑いを隠せない。きっと家庭では洗濯物を畳むことはないのだろう、慣れない手つきで、でも心を込めて畳んでいる光景がなんとも心温まる。おっと、見とれている場合ではない。うずたかく積まれた衣類の山は一向に小さくならない。埃にプラスしてナフタリンで喉がからからになる。マスクを持ってこなかったことを本当に後悔する。
ズボンはチャックが壊れていないか、汚れはついていないか、ボタンはとれていないかチェックし、それから畳んでいく。衣類は人の抜け殻である。特に新品ではないものは人の面影、気配を濃密に感じる。これも一期一会と思いながら丁寧に仕分けていく。
体育館中央に積まれた衣類を見て、ボルタンスキーの作品を思い出す。広大なギャラリー空間の床一面に古着をなげこみ海を作ったインスタレーション作品。泳ぐことができるほどの衣類というのは生涯でもあまりお目にかかるものではないだろう。

実のところボランティアの様子をこれ見よがしにレポートするのは私としてはあまり気が進まなかった。しかし、震災後「少しでも支えになりたい」という心意気で自ら行動に移している人々がいることをどうしても伝えたかった。
それと、物資の集め方と渡し方についても私自身肌で知っておきたかった。ただ物資を集めればよいのではない、ということがよくわかった。仕分け作業は重労働だ。もしこれらの物資が未整理のまま現地に届いても、憔悴しきっている被災者には親切どころの話ではない。また、何をもって支援となるのかという意識。ちょっとしたことだが、襟元が汚れていたり、ジッパーが壊れているものは外すことにしている。どうか被災地で袖を通す人々のことを思い浮かべて今一度整理し直して持ってきていただきたいと切にお願いする。





やさしい家

2011年 3月 20日

やさしい家の1コマ

震災の当地から離れている私たちは何ができるのか。
絵はがきを描き、メッセージを贈る。それも一つ。
現在は救出、そして被災した方々の安心と生活がまずもって取り組まなければならないことだろう。
ではもう少し長いスパンでその後の復興を考えた時、私ができることがあるだろうか。
「やさしい家」を仮設住宅近くに設置してはどうか。
この「やさしい家」とは2009年に新潟県立十日町病院のすぐ傍らに借りた空き家を活用したプログラムのことだ。より病院の日常にかかわっていくやさしい美術の拠点を設けたわけだが、実は複合的な機能を意図していた。地域の子どもたちが縁側に集うように遊びにきたり、参加型プログラムを開催して一般来場者と地域の人々が交流する場を設けたり、時には退院した病院利用者や通院者が立ち寄る病院と地域の間をつなぐ試みでもあったのだ。「やさしい家」をめぐって多くのエピソードがのこる。近所の子どもたちは毎日のように「やさしい家」を訪れ、森をつくるおりがみ「Morigami(もりがみ)」を折っていった。それらはすぐ傍らにある病院へ届け、院内の緑化運動に発展した。私たちが毎日展示替えを行っていた河合正嗣さんの「110人の微笑む肖像画」を観るのを日課にしていた入院していた方が退院してすぐに「やさしい家」に立ち寄った。そこで正嗣さんの作品との涙の再会をはたす。
どのような形でもよいが、昨今病院のアメニティーや環境整備に取り組む様々なプロジェクトで言われているように、「縁側」のような形式張らず、やわらかに人と人、人と場所をつないでいく場が、被災地で求められてくるのではないか。

発達センターちよだ 何ができるのだろう

2011年 3月 18日

私にできることは何か。できることと言えば、絵を描くことだったり、絵を一緒に描くことだったり、する。先日のブログとは逆説的に「やれること」に全霊をかたむけたとき、それはやっぱりアートかもしれない。

昨日教授会で教授会構成員全員に私からあるお願いをした。絵はがきワークショップのキットを学内に設置して学生、教職員の善意を集めたいと呼びかけた。「絵はがきワークショップ」とはやさしい美術プロジェクトが足助病院に5年間にわたってベッドサイドに絵はがきを届けてきた企画である。年間400枚程度の絵はがきを季節に合わせてコーディネート。その手法を用いて、被災された人々に絵はがきを届けようと思い立った。それらをどうやって現地に届け、どのように見てもらうのか、今の私にはまだ見当がつかないが、じっとしていられない。私は物資の仕分け作業に参加したり災害支援のNPOなどからも意見をうかがおうと考えている。ともかく、始めよう。私は毎日絵はがきを描き続けている。

卒業生の涙

昨日夜にやさしい美術プロジェクトのメーリングリスト通じて 絵はがきワークショップのキット設置作業を呼びかけたら、卒業生で元やさしい美術のリーダーを務めた林治徳がプロジェクトルームにかけつけてくれた。彼の後姿を見つけた時、いいしれぬうれしさがこみあげた。
発達センターちよだのワークショップの準備、絵はがきキットの設置作業を任せ、私は午前中、卒業式に出席し、卒業生を送り出す。式の後は晴れ着のまま記念撮影。午後にホテルにて大学主催の祝賀パーティーがあるが、私は欠席してスタッフ川島と発達センターちよだの造形ワークショップに向かう。

子どもたちとお母さん方と会うのが今日が最後になるかもしれない―。卒業生も大事だが、こちらもはずせない。
先月行った「布にしみこむ絵を描こう」が好評だったのだが、参加できた子どもたちが二人だったので、他の子どもたちの反応を見たいということになり再度行うことになった。内容は同じだが、細部にわたって見直し、子どもたちのそれぞれの性格や趣向、障害に合わせてブラッシュアップしている。今回の一番の工夫はあらかじめ絵の具を紙粘土で溶き、どろりとした物質感を与えるとともに、相当量増量してある。これで思いっきり子どもたちは絵の具を使うことができる。容器を握りしぼったときの絵の具がほとばしる感触も子どもたちの感性を刺激してくれるのではと期待する。
14:00 発達センターちよだに到着。準備を進める。
15:00 子どもたちがお母さんの手にひかれてちよだにやってくる。午前は風が冷たかったが、午後は気温があがった。子どもたちは外で遊び回る。一緒に遊び、おやつを食べ、着替えをしたら「絵画の取り組み」という一連の流れ。その日の天気や子どもたちの心の状態、サポートするスタッフややさしい美術メンバーの対応よって子どもたちの行動は刻々と変わる。ちよだの職員さんは関わり方とセットで子どもたちの微細な変化に心を配っている。その姿勢は私たちにとって学ぶべきことが多い。
今日は4名の子どもたちが取り組みに参加。Aちゃんは前回も参加しており、味を占めたのか、前回にひきつづき床面に絵の具を溶いた色水を投げ打つことを繰り返す。はっきりとはわからないが、色と色が混ざっていく様子に心動かされているように見受けられる。それは今回唐突に見られたことではなく、以前から色感の良さを感じる場面は何度かあった。
Kくんは天気が良い為に部屋にあがらず砂場や水の入っていないプールで遊び続ける。着替えをさせたり、他の子どもたちと協調して取り組みの部屋に向かうことも成長という視点では大切だ。しかし、今日はさわやかな日和に突き動かされて「遊びたい」気持ちが何にも勝ったようだ。準備してきた布を張ったフレームを外に持ち出し、Kくんに差し出して反応を見てみる。砂をぶちまけ、擦り込み、つばを吐きかけてはすりこむ。その弾性を帯びた感触はKくんには心地よかったと見られる。離れては戻ってきてすりこむ行為を繰り返している。新しい感触と出会い、そこから新たな感性が開かれていく、そういうことがKくんの中で起こっているのであれば本当にうれしい。私たちにできること、だと思う。

17:00 お母さん方が子どもたちを迎えにくる。今回の取り組みをひととおり説明した後、成果物を見ていただく。しばしば子どもたちの作品を見ていただくと大胆な感性の解放を見て感動されることがある。例えば、今回のように床一面に絵の具をぶちまけること。当然自宅ではできることではない。許される場所とそうでない場所が子どもたちに自覚されていれば、なお子どもたちの成長を促したことになるが。

KちゃんとAちゃんは4年間継続して造形ワークショップに参加してきた。小学校の授業時間帯の関係で、来年度のワークショップには参加しないことになった。今日でお別れである。
KちゃんとAちゃんに私たちは何ができたのだろうか。結論がすぐでることではないが、少なくとも子どもたちがこれから体験していくであろう世間の荒波の中で制作体験で培った造形力が何かの助けなってくれればと祈る。私たちも受け取ることがたくさんあった。忘れられない場面は映像のように思い出される。ありがとう、子どもたち。お母さん方感謝申し上げます―。

18:30 片付けを終えて発達センターちよだを発つ。スタッフ川島が運転する車中、電話がかかってくる。NHKディレクターでドキュメンタリー制作で著名な西川さんからだ。震災後、自分ができることは何か。西川さんもずっと考えていたそうだ。個別の心のこもった等身大の身の振りはとても大切。場合によっては個々で動くよりも、それぞれの専門性のノウハウを共有して横のつながりを作りムーブメントを産み出していくのも一つの選択肢だ。西川さんと意見を交わす。

20:00 大学のプロジェクトルームに戻り、後片付け。今日、絵はがきのキットを設置に来てくれた林からメールが配信されていた。「被災された方の笑顔と復興が1日でも早く戻りますように…。」とのメッセージ。その通りだと思う。

21:00 千種駅近くのバーに到着。今日、晴れて卒業した学生たちが企画した送別会が終盤にさしかかったところへ滑り込む。19:00から始まっていたので最後の挨拶だけでもと駆けつけたが、思いのほか皆のんびりと歓談を楽しんでいる様子だ。間に合ってよかった。我がコースの授業の一部を担当いただいているデザイナーの柳智賢さん、アーティストでワークショップ実践家の山口百子さんもこの宴席にお立ち寄りいただいた。ありがたい。柳さんから「やさしい美術や高橋さんで震災に関連して何か動きがあるようですね。私も心痛めている一人です。何かあればすぐにでもお手伝いします。」と申し出てくれる。こうした気持ちの輪が具体的な力に結びつくようにしてゆきたい。まずは語り合うこと、そして行動に移すこと。