Nobuyuki Takahashi’s blog

2009年 10月のアーカイブ

大島 ギャラリー15寮(仮)掃除

2009年 10月 31日

7:00起床。大島では7:00から食事の献立などが放送される。そのアナウンスの声に起こされたかたちだ。
8:00 トーストを焼いて食べる。昨夜からいっしょに面会人宿泊所に泊まった新聞記者さんが「慣れていますね。」と感心する。どこに行ってもくつろいで食事をするのはやさしい美術の旅人的なたくましさである。
9:00 45寮に行く。大島では使われなくなった建物はすぐに取り壊される。離島であるがゆえに保管するところもないのだ。入所者自治会長の森さんは新しく建てられた寮に引っ越したため、それまで使っていた部屋は取り壊されることになった。私たちはそこへお邪魔して捨てるばかりの棚やタンスなどを譲ってもらう。それらはカフェの内装に使ったり、ギャラリーでの展示で有効活用する。
さて、その後は15寮に行き、いよいよギャラリースペースとして再生するための第一歩、大掃除を始める。一見地道な作業だが、とても大切なプロセスだと私は思っている。人が暮らして来た部屋の隅々まで清掃することで、その人の息吹を感じ、痕跡を心に焼き付けていく。画鋲一本、柱の傷ひとつも見逃さない。空間を体感する作業なのだ。大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレに参加した際に私たちは空き家をお借りして「やさしい家」と名付けて新潟県立十日町病院との連携プログラムを展開した。「やさしい家」を整備する、最初の作業は荷物整理と清掃だった。行き届いた清掃は空き家を家にかえる。
徹底的にゴミをほうきで掃き出し、雑巾がけして行く。サッシは取り外して部屋に風を通す。昨日からひきつづき香川県庁のにぎわい創出課の面々にお手伝いに来ていただいている。記者さんたちも取材をしながら人手の要るところは手伝っていただいた。福祉室の職員さんも慣れた手つきでてきぱきと作業を進める。
12:00 昼食は冷凍麺のうどんを食べる。これがけっこういける。青松園職員さんが私たちに振る舞ってくれた冷凍麺のぶっかけうどんがあまりにも美味しくて、それ以来とりこだ。
13:00 15寮の掃除の前に陶芸室によって大島土で製作した試作に釉薬をかける。ちょうど良いタイミングで入所者山本さんがみえる。素焼きされた大島土の試作品は荒い土味だが、なかなかボディがあって本焼き後が楽しみである。山本さんがおっしゃるには、以前精製した土よりも鉄分が少なそうとのこと。ますます仕上がりが楽しみだ。陶芸室に人が入ってくると山本さんは本当にうれしそう。「私ら入所者が作るんではなくて、大島に来て大島の土に触れて、何かかたちにしていって欲しい。社会交流の一助になれば。」とは山本さんの言葉。土をめぐり人と人、大島と外がつながっていく。
14:30 再び15寮に戻って、清掃作業の続きだ。5室のうち半分が清掃完了。記者さん、香川県職員さん、福祉課職員さんの有志が手伝っていただいたおかげで作業がはかどる。ただ、やさしい美術プロジェクトの参加者が少ないのが気がかりだ。たかが掃除だと侮ってはいけない。私たちの活動はプロセスの中に関わりを創出していくエッセンスがぎっしりと詰まっているのだ。それがなかなか伝わらないのがもどかしい。
途中で何人かの入所者が様子を見にくる。「何やってるの?」という興味を持っていただくことがとても大事。そこから話題は広がっていくのだ。入所者自治会副会長の野村さんから素晴らしく熟れた柿をたくさんいただく。「大島に植えた柿の木に生った柿だよ。」このような「大島柿」も来年の芸術祭期間中に何かの形で発信したい。
16:15 官用船に乗って高松へ。泉はもう1日大島に滞在する。私と川島は一足先に帰路へ。

大島で実をつけた柿

大島で実をつけた柿

大島 全うするということ

2009年 10月 30日

カフェの内装イメージのモデルになった電車

カフェの内装イメージのモデルになった電車

7:15 名古屋駅で川島、泉と待ち合わせる。予定通り7:30発ののぞみに乗り込む。
岡山を経由してマリンライナーに乗り、10:30には高松に着く。現地は晴天、瀬戸内ではからっと晴れた日はあまり巡り会わない。この地方独特の薄くもやのかかった空気は島々をシルエットに変え、とても趣がある。
スーパーで明日の食材を買い、桟橋に向かう。
11:10 官用船まつかぜに乗り、大島へ。青松園稲田事務長に挨拶に行き、宿泊する面会人宿泊所に荷物を置きに行く。
納骨堂でお線香を上げるとすでにお昼だ。職員食堂に行くが、施設職員でごったがえしていて、おばちゃんは余裕がない様子。少し時間をおいてから来ることにする。
13:00 猛スピードで食事を済ませ、入所者自治会の会議室に行くと、入所者の皆さん、事務サイドの職員さんがすでに集まっている。さっそく企画検討会を始める。
11月に行う予定の「名人講座」は入所者が講師となって様々な講座を開き、大島の文化に触れる機会をつくる企画である。東京のシブヤ大学が定期的に行っている「ツーリズム」は私たちの計画している名人講座とコンセプトが重なるもので、多くの講座をこれまでに開いて来た。当初は6月に行う予定であった大島での「ツーリズム」はインフルエンザの流行で取りやめになったが、その後企画を復活させたい、との話がもちあがった。私たちの取り組みもその間に進み、瀬戸内国際芸術祭のキックオフ・イベントも行われ、瀬戸内では如実に機運が高まっている。そうした進みつつある状況を考慮して、今回はイニシアチブをシブヤ大学から地元である高松に本拠地を構えたNPOアーキペラゴが中心を移し、「ツーリズム」を行う。ツーリズムの確認をしたあと、今後の芸術祭までのスケジュール、行っていく作業について説明する。私たちが大島に整備しようとしている、カフェとギャラリーは「大島が表現する」ことに深く関わるものであり、大島とその外の世界とのつながりを創り出していく「つながりの家」構想の根幹を成している。だからこそ、カフェもギャラリーも大島にある施設をそのまま活用し、入所者の皆さんが立ち寄れるようなものにしなければならない。問題点を話し合い、現場での検討も進めていく。
会議の後、入所者自治会会長の森さんとカフェに整備する予定の第二面会人宿泊所とギャラリーにする予定の15寮を視察。問題点の洗い出しは現場で話し合うとてきぱきと進むものだ。

一人一人に合わせて作られる義足

一人一人に合わせて作られる義足

リハビリテーションの施設内に陶芸室がある。そこで大島焼のワークショップを行っているが、そのすぐとなりの部屋で入所者ひとり一人に合わせて義足やスプーンのステーなど、入所者の生活に欠かせない雑多な道具を製作している工房がある。私はギャラリーから大島の生活を表現する展示を考えていたので、何か重要なヒントが取材できるのでは、とわくわくする。職員さんが目の前で見事に入所者用のスプーンを製作する。入所者のほとんどが、末梢神経が麻痺しており、手先は硬く縮んでしまっている。ペンを持つのさえ、困難な方も少なくない。そうした人々が無理なく食事を口に運べるように工夫するには技術と経験、そして試行錯誤を繰り返してより良いものを創り出していく情熱が必要だ。私はこの工房で作られて来たさまざまな器具類を展示することに心を決めた。職員さんに展示の協力をあおぎ、工房を後にする。
面会人宿泊所に戻る。今回の大島行きには取材をしている記者さんが同行している。その記者さんが事前にアポイントをとっていた入所者のお二人にお話をうかがうと聞き、私たちも同席させていただくことにした。
17:00 入所者お二方が面会人宿泊所にみえる。お1人は盲人会に所属する方で、介護職員の手に引かれてきた。
お酒と乾きものや練りものなどのおつまみを持参していただいたので、さっそくビールで乾杯。インタビューというよりは宴会だ。そこでお二人にたくさんのお話をうかがったので、その一部を紹介したい。
入所者Aさんも例に漏れず、差別と偏見の目にさらされながら、大変苦労された。そのお話の中で、私が印象に残ったのはAさんのおばあさまの言葉だった。「ぜったい自分で死を選んじゃだめだ。寿命は全うしなさい。悲惨な人生でもきっと一度は良いことがあるんだ。もし、おまえが自殺したら、その後も生きていくものたちはそれを背負って生きていかねばならない。何の解決にもならない。だから、どんなに辛くても苦しくても生きなさい。」Aさんはこの言葉を胸に、ずっとずっと生きて来た。生き抜いて来たのだ。

不自由者棟の傍らで満開の花は昨年も見た。

不自由者棟の傍らで満開の花は昨年も見た。

Aさんのこのエピソードには認識しておかなければならないことがある。ハンセン病は昔はライ病と呼ばれていた。ライ病は顔や手足などの容姿を大きく変えてしまうという点において、人々に忌み嫌われることになった。前世に悪いことをした、その業を背負う「業病」と世間では認識されていたのだ。そこには宗教の力も加わっている。Aさんのおばあさまの言葉には当時血縁者が背負わなければならない業病としてのライ病のイメージが見え隠れしている。
Bさんは盲人会の会長。ハンセン病によって失明した。Bさんはどんなに辛いことも、戦時中、戦後の悲惨な暮らしに比べれば、それほどでもない、とおっしゃる。入所者は高齢化が進み、今後の施設の運営、職員の配置など、島で最後まで過ごしたい皆さんにとって不安の材料はたくさんある。加えて、入所者全員が体験して来た、差別と偏見、過酷な療養所生活があっただけに、その不安は想像を絶するものだ。そうした不安の中でもBさんは今後起きることのすべて受け入れる覚悟ができていると言う。
Aさんはおっしゃる。「苦労しなさい。苦労した人は、人の痛みがわかる。だからやさしくなれる。」底知れぬ重みのなかに光が差すようなやさしい語りかけにただただ聞き入る。
お二人にやさしい美術プロジェクトが進めていく「つながりの家」構想を説明する。すると、お二人とも「100年続いて来た大島青松園が始めて経験するイベントです。高齢化が進む入所者にとって、最後のチャンスかもしれない。私たちのできることは協力します。」とご支援の言葉をいただいた。この取り組みにあたって私に不安がないわけではない、迷いもたくさんある。毎日毎日自分に問いかける日々。そこで、受けたお二人の言葉はどれだけの力になることか。背中をぐいと押されたような気がした。
19:00 職員食堂に行く。のれんをくぐったとたんにおばちゃんに叱られる。「遅いよ。来ないかと思ったでしょ。あんたたちに食べさせるものは何もないよ。」でも、文句言いながらもご飯を作ってくれた。ちょっぴり怖いけど、ほんとはやさしいんだ。ふぐの肝のお吸い物が出て来た。「あんたたちのために作っといたんだよ。」曽我野さんから酒をつがれる。「飲まないのか、飲まないなら帰れ。」高知出身の男はなんとも男気があって、やっぱりちょっと怖い。でも、私は全く嫌な気がしない。たぶん、こんなにごつい爺さんに会うのは一生のうちでそう何回もあるもんじゃない。
ほろ酔い気分で面会人宿泊所に戻る。
23:00 就寝

目の前で製作を実演する職員さん。

目の前で製作を実演する職員さん。

完成した入所者用のフォーク

完成した入所者用のフォーク

大島 前夜

2009年 10月 29日

授業が15:50終了。16:00から卒展委員会。16:30から教授会。現代GPの選定事業であるやさしい美術プロジェクトは毎回教授会で報告書を作成している。スタッフのサポートのおかげで当日になんとか資料をそろえることができた。21:30長時間にわたる教授会終了。さあ、ここから明日から大島行きのための準備作業にはいる。検討会を開く予定なので、進捗状況も含め、検討事項を明確にして明日の検討会にのぞみたい。
すべての資料をそろえて自宅に帰ると5:30。仮眠を取る時間はない。
入所者自治会にお土産で持っていくお酒をバッグにつめる。
私が自宅に帰ると同時に奥さんが起きてきてコーヒーを入れてくれる。子どもたちも眠たい目をこすりながら起きて来て飛びついてくる。家族が健康で元気に日々を過ごしている。平凡だけど、実は奇跡なんだ。それを噛みしめながらコーヒーを飲む。
6:15大島に向けて出発。不思議と足取りは軽い。

デザインの間 搬入

2009年 10月 26日

今日は6月から中部電力との共同で製作して来たディスプレイを名古屋市千種区星ヶ丘にある「デザインの間」に搬入する。やさしい美術には直接関連はないが、小出しに進捗状況を掲載していたので報告したい。
当日の学生達のコンビネーション、製作に対する姿勢、デザインの間のスタッフへの挨拶の様子を見ていてもかなり成長したと感じた。デザインの間の館長をはじめ運営スタッフの皆さんにも満足いただけたようだ。あとは「デザインの間」を訪れた方々に楽しんでいただければと思う。
とにかく、よく頑張りました!いい展示になったよ、みんな。

45個のアクリルボックスにディスプレイする。

45個のアクリルボックスにディスプレイする。

19:00搬入作業が佳境に入る。

19:00搬入作業が佳境に入る。

完成したディスプレイ。どうぞ、観に来て下さい!

完成したディスプレイ。どうぞ、観に来て下さい!

art setouchi2010(瀬戸内国際芸術祭)

2009年 10月 25日

明け方の4:30。ようやくプレゼンテーション用のスライドショーが完成する。昨日妻有から帰って来たのが23:30なので、それから今日のキックオフ・イベントの準備を進めていた。それにしても我ながら仕事が遅い…。
3時間ほど仮眠をとり、出発の準備。
瀬戸内国際芸術祭のキックオフ・イベントに出演するためだ。
お昼前に高松到着。駅前のうどん屋さんで昼食を済ませる。その後会場の「あなぶきホール」に向かう。
会場に着くと、周辺にたくさんの瀬戸内国際芸術祭ののぼり旗が整然と連なっている。スタッフにホール舞台裏を通され、さらに奥の出演者楽屋に通される。すでに7、8名のアーティストが集まっている。著名な土屋公雄さん、藤浩志さんの姿も見える。海外のアーティスト、建築家も居て、英語が飛び交っている。北川フラムさんが今日のキックオフイベントの流れを説明。新しいロゴ、あたらしいビジュアルイメージ、参加予定アーティストの発表など、全貌が明らかにされる、重要なセレモニーであることが伝えられる。
14:00 キックオフ・イベント開幕。島民による伝統芸能の披露で幕が開ける。
14:30 楽屋から舞台袖に通される。舞台裏から聞こえてくる声。高松市長の大西さんの声だ。大西さんのかけ声で新しいロゴとビジュアルイメージが発表される。ロゴデザインはご存知原研哉さん。シャープで、間を大きく取ったレイアウトはまるで瀬戸内海に浮かぶ島々のようだ。
司会者の声で舞台袖から登壇。舞台上には私を含めた10名ほどのアーティストが並ぶ。
北川フラムさんがそれぞれの島の紹介とアーティストの発表、作品プランが説明される。今日登壇しているアーティストが自身のプランについて述べていく。
私は最後から2番目の発表。大島で展開する「つながりの家」構想を発表する。
私たちアーティストの発表のあと、休憩に入る。私は前の方の席で青松園の福祉室室長、入所者自治会会長の森さん、副会長の野村さんを見かけたのですぐに走りよる。皆さんはすぐに大島に帰られるとのこと、会場出口まで見送る。
その後、私はがっくりと力が抜けてしまった。私の発表が、今日の会場の祝祭的な雰囲気にそぐわない発言だったのではないか、入所者の皆さんの気持ちを会場の皆さんに伝えきれたのだろうか、ただただ、自分の力のなさに打ちひしがれる。そこに一通のメールが携帯に送られてくる。大島の福祉室で働いているAさんからだ。会場に来ていたそうだ。ついつい、自分の情けないプレゼンの反省をAさんにこぼすと、しばらくしてやさしい返事が返って来た。「大島は他の取り組みとは毛色が明らかに違う取り組み。島民の心情を説明した人は高橋さんだけだよ。」と。いつもAさんには元気づけられるばかり。なんとお礼を言って良いやら。
気を取り直して次の演目にはいったホールに戻る。すると、後ろの席から小声で私を呼ぶ人がいる。大島の第二庵治町立小学校の教師をされていた佐々木先生だ。8月の夏祭りの際に始めてお会いして、瀬戸内国際芸術祭で「大島案内ひきうけ会社」の復活をしたい、とお願いした。佐々木先生の指導のもと、当時小学生だった子どもたちは来島される人々のガイドを引き受けて、島内をめぐったと言う。私は「大島案内ひきうけ会社」を復活するには佐々木先生のお力添えがなければ実現できないと考えていた。現在は大島にある小学校は生徒がいなくて、休校になっている。
佐々木先生は「わたしの役割がなんとなくわかりました。」と笑顔でおっしゃった。来年のイメージを刻々と描いているのは私だけではない。大島のことをおもう人はひとりじゃない。なんと心強いことか!
キックオフ・イベントが終わり、会場を移してレセプションが開かれる。会場には7つの島々を代表してたくさんの方々が集まった。市議会議員、県会議員の皆さんから激励を受け、話に花が咲く。
19:30 レセプション終了。たくさんのごちそうが並んでいたが、話は途切れず、お刺身を二切れほどしか食べられなかった。でも満足。
20:10のマリンライナーで高松を発つ。車中で缶バッジを手のうちに転がして眺める。会場で配られた新しいロゴ「art setouchi2010」の缶バッジだ。配置されたロゴの背景には島のシルエットとそれをつなぐ航路の線が美しい。真ん中あたりで小さな瓢簞型に見えるのが大島。大島が7つの島とつながっている。私はこのロゴが大好きになった。

妻有 最後のプレゼント

2009年 10月 24日

8:00 朝食を済ませるが、女子二人がレストランに降りて来ない。電話をすると、どうも今起きたようだ。赤塚は疲れ、泉は昨夜いっしょに取り組んだヨガのせい。かな?
9:30 宿を出る。昨日すべての搬出作業を終えたので、帰る前に、新潟市に出て「水と土の芸術祭」を見に行くことにした。全く下調べもせずの新潟行き。1時間30分ほどかけて新潟市の中心部に出る。作品になかなか出会えない。それでも4人で楽しくおしゃべりしながら風景を楽しむ。
昼食後に遠藤利克さんの作品を見に行く。

遠藤利克さんの作品の部分

遠藤利克さんの作品の部分

「みずっちたんく」と呼ばれる旧水道局で、ポンプを逆流させタンクを溢水させる、という作品、圧巻である。おおよそ重ならないイメージなのに、私は滝に打たれるような感覚におそわれる。水が流れしたたる音はまさに全身が洗われるようだ。私の彫刻の師匠故原裕治さんの作品に「溢水」という作品がある。ライバル同士だった遠藤さんの仕事と原さんの仕事が私の中でオーバーラップする。
ここまでくるのに随分と道に迷った。作品もほんの数点しか見られなかったが、遠藤さんの作品によって満足感のバロメーターがぐっとあがる。
15:00 一路妻有へ。意外にも新潟市にある家屋は私たちの住む名古屋とそれほど変わらなかった。豪雪地帯である妻有の家屋の構造や独特の屋根の形はやはり特別だ。見慣れているはずの妻有の家屋が急に浮き彫りのように際立って見えた。
16:00 観光交流館キナーレに行き、お土産を買う。私は古代米を家族に買った。
16:30 十日町を出発。十日町病院の作品、やさしい家、すべてを引き払っての帰路はやはり寂しい。

見事に染まった妻有の風景

見事に染まった妻有の風景

津南町あたりで夕焼けで真っ赤に染まる。車を脇に停めて写真撮影大会。妻有からの最後のプレゼントだ。
最後になったものがもう1つ。「マニアックしりとり」だ。
後悔なし。

妻有 お片づけ 地震

2009年 10月 23日

8:00 春日井駅集合。レンタカーに私とスタッフ赤塚、泉、そして川島が乗り込む。今年度の最後の新潟県立十日町病院の研究会が終わり、打ち上げ会も開き、何かいつもとは違った心持ちの妻有行きだ。
車を走らせて行くと、北上につれて、山も錆色に変化して行く。トンネルを抜けるたび、ちょっとだけ、時間が進む。十日町につくと、すっかり秋で、紅葉はピークに近い赤褐色に染まっている。日差しはまだまだ暖かいが、風は秋というよりは冬を感じるほど冷たい。

採れるものからアサガオの種を収穫

採れるものからアサガオの種を収穫

14:30 十日町病院に着く。いつもとかわらない面々がにこやかに私たちをむかえてくれる。しばし歓談の後、最後の作品搬出作業を始める。えんがわ画廊のすべての作品、天蓋のオブジェ、Morigami並木道、足助アサガオ…。私はMorigami並木道の撤去作業を担当。作業中に何人かの看護師さんに声をかけられる。作品がなくなった廊下を見て「こんなに殺風景でしたかねぇー。」とこぼす方もいた。赤塚はアサガオの件でお世話になった方たちのところに行き、お礼のごあいさつにまわる。私たちが「やさしい家」に住んでいる間も、そして今もいつものように十日町病院には人が行き交い、日々は過ぎて行く。本当に大地の芸術祭は終わったんだ。当たり前のことがなかなか受け入れられず寂しい気持ちにかられる。
18:30 ホテルにチェックインした後、いつもの炭焼きダイニングのお店に行く。十日町病院の職員さんたちも誘って。松茸やスイカ、桃をやさしい家に届けてくれたマスターが私たちを待っている。
お店の引き戸をくぐると、これまたいつもと変わらないマスターの笑顔が。おいしい料理においしいお酒、楽しい会話…。すべてが輝いていてまぶしい。
お店の席について間もなく、地震情報の緊急放送が店内に流れる。震度4だとのこと。十日町病院の職員さんらは迅速に携帯電話で確認を始める。私たちには揺れは感じなかった。後に判明したが、松代が震源地で十日町では震度1に満たないほどだったそうだ。
そう、ちょうど5年前の今日、10月23日は中越地震が起きた日なのである。その時の話を経営課の井澤さんが訥々と話される。1週間病院につきっきりで自宅に戻れなかったそうだ。ご家族は余震の揺れで足がすくみ、車の中で寝泊まりを繰り返したと言う。大地震を経験した誰しもが、いつくるかもしれない余震におののき、眠れない日々を過ごしたのだ。大きな天災の衝撃が人々の揺るぎない基盤をもろくも砕く。その衝撃を井澤さんは知っておられるのだろう。

熊肉のシチュー

熊肉のシチュー

マスターがつくったまぼろしの「熊のシチュー」を食す。意外と油がのっている。油というよりはコラーゲンかも。独特の臭みが重さを醸し出している。それが酒飲みには好評のようだ。
塚田院長が仕事のため遅れて宴会会場にみえる。院長は大島に行きたいとおっしゃっていた。たとえ医療者であっても、始めて接するものに緊張するのは普通の人と同じだ。そうした緊張を率直にお話ししながらも、医療者の責任を感じつつ、是非大島に行き、入所者の皆さんと出会いたいとの気持ちを吐露された。私は是非来年には足助病院の皆さん、十日町病院の皆さんをお連れして、大島に行きたいと思っている。私たちやさしい美術プロジェクトを大きく育ててくれた皆さんに大島を知ってもらいたいー。
メンバー川島は本当に十日町病院の皆さんに良くかわいがってもらっていた。皆さんに甲斐甲斐しく焼酎の水割りをつくっている姿がものすごく好印象。いいママになりそう。大島で、カフェの夜は飲み屋にしようか、なぁ、川島くん。

デイサービスちよだ ワークショップ準備

2009年 10月 22日

音の発生する描画道具を目下開発中!

音の発生する描画道具を目下開発中!

休止していたデイサービスちよだでのワークショップの準備が着々と進められている。マネージメントをスタッフ赤塚が担当。そして、本学の事務職員を務める村田さんも参加している。妻有では入試広報課の日比野さんから作品を出品していただくなど、職員も積極的に関わっている。
さて、ワークショップは、8割が準備、2割が実施。準備がなければ当日もぜったいにうまく行かない。現在定期的にちよだチームがミーティングを開き、描画道具や支持体などについて試行錯誤を繰り返している。
こうして毎日誰かが、プロジェクトルームで仕事をこなす。
あるメンバーが言っていた。「やさ美のプロジェクトルームに入るときは、学校じゃなくて、会社のオフィスに入るような引き締まった気持ちになる。」
緊張感も大事。でもリラックスも大事だよ。

ゼミ祭

2009年 10月 21日

張の描いたアイコンのラフスケッチ

張の描いたアイコンのラフスケッチ

今日は、私の運営する交流造形・メディア造形コース3年次の「ゼミ祭」だ。「ゼミ祭」とは日頃は別々に動いているぞれぞれのゼミに属する学生が一堂に集まり、自身の取り組みを発表する、というものだ。
私のゼミにはヤサビのイト編集部の張がいる。彼女は最近、自分の得意とする領域を見つけたようだ。ほんの入り口に立てたわけだが、以前に比べていきいきしているように私には見える。
張は足助病院から依頼された、「指差し呼称」のバッジをデザインする。これまた、楽しみ。ゆけゆけヤサビのイト編集部!!

2年前の今日

2009年 10月 19日

ちょうど2年前のことだ。私は始めて大島に行った。
9月中に行く予定だったが、土曜、日曜日しか時間が作れず、青松園の森英世事務長(当時)に電話したら、「平日に来て下さい。」の一言だった。
faxを送ったら「宛名は事務部長でなく、事務長です。再送して下さい。」と突き返されたこともあった。
そのような対応で当初はどうなることかと不安だったが、その後の何度かの大島の訪問で森英世事務長とは次第に打ち解けていった。
入所者の方々とは今は電話で連絡をし合う仲だが、最初はお互いに緊張していて、事務所を通してアポイントをとっていた。インタビューをしようと自治会で待ち合わせ、お互いに硬くなってしまって、うまく話せなかったり、ちゃんと目が合わせられなかったこともあった。それでも何度か大島に行くうちに、挨拶をすると、挨拶を返してくれる方が多くなった。最近ではカメラを担いで歩いていると、話しかける方がいるほど、顔をおぼえていただいた。
ゆっくりとした変化も振り返れば大きな進展。本当に時が経つのは早いものだ。