Nobuyuki Takahashi’s blog

2010年 8月のアーカイブ

のぶ×のぶ な日

2010年 8月 29日

朝一便が55名という来場者。整理券の制限めいっぱいである。なぜこの時期に来場者が多いのか。昨日の休島日の影響か。
ともかく10:30便で帰る20名ほどを急遽AFG高坂さんがヘルプ。それ以降に乗船の方々はこえび隊末藤さんが担当。カフェは大島リピーターからこえび隊に加入した山本くんが入る。そして、今日はもう1つサプライズがある。正真正銘高橋伸行、私と同姓同名のこえび隊が大島に来てくれた。あたりまえだが、姿かたちは私に(彼に)似ていない。彼は社会人だが、休みを利用してボランティアに参加している。ガイドツアーに参加した後は私の指示のもと作業にとりかかる。以前使われなくなった盆栽の鉢を50個ほど預かったので、それらをきれいに洗う。私は来場者にギャラリーの展示や質問の多い解剖台について解説する。
11:20 二便の来場者は15名ほど。インフォメーションに様子を見に行くと、見慣れたピンクのTシャツを来た女子を発見。昨年までやさしい美術のスタッフを務めた赤塚裕美子だ。直島に泊まり各島を巡っている。やはり、OBOGが来てくれるのはうれしい。あまりうれしくて投げ飛ばしたくなった。
来場者から質問が多く寄せられる。お昼ご飯を食べる時間もない。インスタントラーメンを煮て5分で食事をすませる。
高橋伸行くんは炎天下のもと、もくもくと盆栽の鉢を洗ってくれている。
陶芸室に行く。明日に山本さんが「名人講座」で制作した作品を釉がけする予定だ。そのため様子を見に行ったが、素焼きが終わったものが作品棚に乗っていない。どうも窯にはいったままのようだ。焼成は終わっているようである。
大島焼のサンプルとして陶芸室に持参したカップをカフェに戻そうとカフェに立ち寄ると、入所者の上原さんが職員さんと来店。すっかり泉、井木と仲良しだ。上原さんはかつて「野菜名人」だったことが判明。スイカはいつもコンテストでトップを争ったらしい。上原さんの手はハンセン病の後遺症のため曲がってしまって、指もないが、分厚くて大きい。土と関わり、重労働に絶えた立派な手である。私はこうした手が大好きだ。職員さんが席をはずされたのでその間上原さんとお話をしようと思っていたが、作業を終えて次の指示を待つ高橋伸行さんがカフェにやってきた。上原さんに断って次の作業のためカフェを出る。
私は12寮に保管してある碁盤と碁石を確認し、碁石を運び出してギャラリーに持って行く。白(蛤)と黒(那智黒石)それぞれスーパーの買い物かごに3分の1ほどもある。これも展示のための材料だ。
盆栽の鉢はすべてきれいになったので倉庫に戻す。今日の作業は終了する。片付けてカフェに行くと赤塚がカフェでお手伝いしている。まだ、彼女もやさしい美術のメンバーだと実感。
16:30 高松便最終を見送る。久しぶりにまとまった雨が降ってくる。夕立なので雲の切れ間から日がさす天気雨だ。めったにない光線の加減を察知してカメラを持って外に出ると、予感的中だ。東にきれいなアーチを描いた虹がかかっている。一気にフィルム3本撮る。
野村ハウスに戻り、今日追加で預かった入所者の故人赤松さんの写真とネガを仕分けする。膨大なプリントをながめていると、長年に撮りためた写真のグループ化ができてくる。視点というか切り口というかテーマというか。ゆるいくくりでプリント群のかたまりができてくるのだ。亡くなられた赤松さんから残されたプリントでわたしに何かを訴えてくる。赤松さんの写真だけで展覧会が開けるほどである。
作業中にカフェから井木と泉が仕込み作業を一区切りつけて帰ってくる。入所者の東條さんからばら寿司のおすそわけがあったとのこと。泉、井木がささっと準備してくれる。
食後も写真の整理。次の展示は「古いもの捨てられないもの」展。これまでシンプルな展示だったので、次回はがちゃがちゃと物の多い展示にする予定。構想をあたためる。次回の展示は解説と展示マップの情報量が多くなりそうだ。いくつか不明な点もあるので、明日入所者をたずねてお話をうかがおうと思う。

休島日に制作三昧

2010年 8月 28日

今日は沢友恵さんコンサートのため、瀬戸内国際芸術祭関連では休島日。昨日よりも東からの風が強い。胃腸の調子はまだ回復していない。しかし、今日は一日じっくりと制作にとりかかれる日だ。むだにできない。泉と井木は高松へ。9月4日のコンサートで臨時でお店を出していただける高松の名店「プシプシーナ・コーヒー」の皆さんと打ち合わせだ。
私はまず北部の畑を端から端まで歩くことにした。「風の舞」から山に入り、畑を巡る。畑にはそれぞれ作業小屋があり、そこに道具類をおさめている。畑の傍らにはかつて使われていた瓦や食缶、たらいなどが捨ててあることがある。もちろん畑に水をやるために使っているものもある。明らかに茂みに捨ててあるものの中から何か発掘できることがある。今日は古い七輪を見つけた。
山からギャラリー方面をのぞむ。空き地に見える解剖台が存在感を放っている。あらためて、その重みがひしひしと伝わってくる。
さて、GALLERY15の次の展示の準備だ。展示の台座は極力島にあるものを探し、流用することにした。島の周囲には波に洗われて丸くなった美しい流木がある。使わない手はない。手始めに西の浜を歩く。私の目にかなった流木はすぐに両手で抱えきれない量になる。昼食後は東の浜を北から南の船小屋付近まで隈無く歩く。集まった流木を洗っていると盆栽に水をやりに来た野村さんがやってくる。昨日谷本さんから預かった臼を見て「きれいになったの。」とおっしゃる。じゃぶじゃぶ洗っていつでも使える状態だ。「餅、つきましょうか。」と冗談を言うと野村さんは笑った。今のところ聞いているのは今、ここにあるものと、庵治第二小学校にあるもの2つのつき臼が大島にある。餅つきを復活するアイデアも悪くない。
納骨堂から風景をゆったりと眺める。官用船せいしょうが高松を出て大島に着くまでずっと目で追う。この距離が近いのか遠いのか。
ギャラリーで作業をしていると、高松から帰ってきた泉と井木がやってくる。職員食堂の智代子さんがチャーハンを差し入れしてくれたそうだ。野村ハウスに戻り、食事にする。差し入れのチャーハンに加え、私は昨日川上さんからいただいた、ししとうと残りのタマネギ、コンビーフで炒め物をつくる。畑でプチトマトもボールにいっぱい摘んでくる。3人で食卓を囲む。なんとも幸せな時間。
食後は泉、井木はろっぽうやきの仕込み作業にカフェ・シヨルへ。私は洗い物をして、その後は搬入の準備。

お宝

2010年 8月 27日

ここ2、3日雲の様相がくっきりとしてきて秋を感じさせる。そよぐ風もすずやかだ。しかし、日中は容赦なく照りつけられる猛暑に変わりはない。
5:30 起床。ちょうど太陽が兜島からのぼる。あっという間に上昇して行く。
次の展示が近づいてきた。展示内容を細かく検討して行く。鳶の羽を並べてみる。意外にもテープで無造作にとめる方法がおもしろい。来場者は平日で比較的おちついていて、毎回の船に10名ほどでやってくる。
今日も台湾からの来島者がいた。ギャラリーで作品をめぐりながら質問を受け付ける。学生だろうか、大変興味深く鑑賞していただく。日本が植民地時代に台湾現地につくった施設について語る方もいた。
14:15 カフェ担当の井木が買い出しに高松に出ていた泉とたくさんの荷物を携えて大島入り。二人とも力持ちだ。カフェの買い出しは重労働である。
とにかく古いものを集めたいー。案外畑にいろいろな使われなくなったものが放っておかれている。野村さんに「この石臼、借りて良いですか。」とたずねると、「使わなくなったあとは漬物石に使っとった。いいよ。」と快諾いただく。大島ではお正月に杵と臼で餅をついたそうだ。昭和30年代初頭は入所者は800名ほど。皆で一日がかりで餅をつく。それはにぎやかだったことだろう。当時の餅つきの活気のあった時代を語る入所者は多い。その臼は入所者が減って行き、高齢化とともに使われなくなった。気がつけば、捨てられ、所在はわからなくなった。
ところが、野村さんがおっしゃるには15寮すぐ横にお住まいの入所者谷本さんのところに野鳥が水で遊ぶ場所として流用しているとのこと。すぐに野村さんと一緒に谷本さんをたずねる。奥まった山の斜面の袂にそれはあった。谷本さんに「展示に使いたいのですが、お借りできますか。」とたずねたところ、これもまた快諾いただいた。入所者の皆さんの思い出がつまった、臼。野村さんと谷本さんの庭から転がして運び出す。道路間際まで転がしてからは台車を持ってきて緩やかな坂を選びながらギャラリーに引いて行く。思わぬ出物に感激だ。
16:15 最終の高松便せいしょうを桟橋まで見送りに行く。
その後は海岸で材木を拾う。展示の台座を極力この島で得られたもので構成したい。
そこへギャラリーの裏手に住む川上さんがやってくる。川上さんに修復した解剖台を見せる。「きれいに直ったね。」とお褒めのことば。うれしい。ギャラリーに展示している「鏡mirror」展を観てもらう。展示中の五右衛門風呂は豚に食べさせる残飯をあたためたと聞いていたが、豚舎で働いていた川上さんから意外な情報を得る。五右衛門風呂は豚舎で働いていた人が「お風呂」として使っていたそうだ。情報を修正しなければ。
川上さんに以前いただいたししとうがおいしかった、辛かったとお話ししたら、「まだ少しあるからたべるかい。」とおっしゃる。そのまま川上さんの畑に行く。ししとうを摘んでいたら、その傍らで川上さんが畑の土をまさぐっている。何かをお探しなのかな、と思っていたら、「これ、何かわかるかい。」と小さな針金のオブジェを私に差し出す。いびつに歪んだそれは、手が不自由な入所者がボタンをとめるために引っ掛けて使う「ボタンかけ」だった。現在は職員さんがそれらの道具を制作しているが、それは川上さん自身が作ったオリジナル。まるで土の中から太古の人々が生活に使っていた鏃を見つけたような気持ちになった。川上さんはご自身が畑に捨てたのを憶えていたのだろう。私が今集めているものが何かを川上さんはとてもよく理解していた。とんだ発見。解剖台が見つかるのも、ボタンかけが見つかるのも、大島箪笥がお借りできるのも、私と入所者の皆さんとの交流、つながりの証のように感じられた。単なる物、存在はここ大島ではそのまま記憶の塊なのだ。それらに出会い、立ち会うことのよろこび。私は幸せ者だ。
急に胃腸がきしむように痛む。下痢になってしまい、夕食は控えめに済ませることにする。
11:00 就寝。

解剖台トーク

2010年 8月 26日

今日も快晴。朝と晩は幾分涼しくなってきた感があるが、それでも日中は暑い。
ガイドスタッフはこえび隊の末藤さん。心配りのあるガイドは横で見ていても気持ちがいい。ここのところガイドを務める皆さんにも余裕が出てきた。入所者にお話を伺う勉強会を開いたり、経験を重ねることで自分の中に引き出しができてきた感じだ。
脇林さんが集めている古い写真のパネルをギャラリー押し入れから出しておく。森さんの世話人を務める浄土真宗の関係者が見たいとのこと。その他脇林さんの写真はがきのスタンプ押しと補充を行う。
中学生の見学者が興味深く解剖台を見て行く。破損部分の修復を終わって、不思議だが見る人の解剖台への距離感が近くなった気がする。縁があることで中を覗き込むということもあるが、破損部分があまりにも生々しかったので人を遠ざけていたのかもしれない。
15:00 ギャラリーで森さんとお二方の真宗関係者に写真を見てもらっていると副園長さんがやってくる。野村さんもやってくる。「解剖台、修復したんですよ。」と皆で解剖台前に行く。そこへ末藤さんがご案内した10名ほどの来場者がやってくる。私、副園長、森さん、野村さんが解剖台に手を置いてテーブルトークならぬ、解剖台トーク。それを来場者の皆さんは興味深く聞いている。解剖台の説明はいささか私たちでは難しい。やはり入所者自身が体験を交えて語った方が来場者には腑に落ちるだろう。また、一般来場者が入所者と出会い、お話できる意義はさらに大きい。ハンセン病回復者と接した肌合いは心の深部を捉えて放さない。
16:15 官用船を見送る。
泉はろっぽうやきの仕込み作業に没頭している。私が夕食を担当する。
塩で揉んだキュウリに甘酢を加え、かえり(イワシの稚魚の干物)と胡麻で和える。ジャガイモを薄切りにしてハムと炒める。隠し味のショウガと酢がポイントだ。トマトとタマネギのスープで仕上げ。メニューがつまみ系になってしまった。自動的に泉と日本酒を酌み交わすことになる。
簡単にカテゴリーにおさめることができない、今回の取り組み{つながりの家}。アートとアーティストの存在意義を考える上でも今後様々な反響があり、様々な分野の専門家がこの取り組みのことを論じるだろう。そのまた次のムーブメントが生まれる時期、10年、20年後になるだろうか、私たちの活動はようやく位置づけが定まるのかもしれない。誰も取組んだことのない領域に私たちは、いる。

解剖台修復2

2010年 8月 25日

朝一便に女木島で作品を展示しているアーティスト行武治美さんが大島に来島。面識はあったので桟橋で声をかけると「どの高橋さん??」とピンと来ない様子。後でわかったことだが、私があまりにも日焼けしていたのと、ワイルドに麦わら帽子をかぶっていて誰かわからなかったそうだ。「今度はカフェが開いている時に家族で来ます。」とうれしいコメント。
来場者がいなくなった時を見計らって今日は解剖台の向かって右側の破片を組み上げる作業に入る。組み上げる手順通りにボンドで接着していく。昨日の左側に比べてパーツの数は3、4倍で、集中して作業にあたらないと取り返しがつかないことになる。ボンドはエポキシ系の樹脂で、今日のように暑いと硬化が始まるのは2時間ほどだろう。その間に正確に組み付け適所を固定しなければならない。
13:00 組み付けの作業を終える。片付けをしていると小豆島で同じく瀬戸内国際芸術祭に参加している香港のアーティストAlexander Hui氏が通訳さんと一緒にやってくる。解剖台とギャラリーの簡単な説明をする。解剖台の話をしたら、Huiさんが香港の刑務所の解剖にまつわる話と似ている、とおっしゃっていた。しかし、日本のハンセン病患者は誰も傷つけていないし、何もしていない。人の尊厳とは何かとあらためて思う。
入所者の野村さんが防波堤で佇んでいた。昭和30年代の入所者の暮らしの話を伺う。つらくかなしい話ばかりではない。岡山県長島にある療養所との交流は楽しい思い出もある。特に邑久光明園との所以は人と人の「縁」を感じずにはいられないエピソードだ。昭和9年当時大阪にあった光明園は室戸台風で壊滅的打撃を受け、たくさんの死者を出した。行き場のない生き残った入所者を全国の療養所が受け入れた。特に大島は重篤な方ばかりを受け入れ、寝食を共にした。その縁は深いもので、今でも語り継がれている。
16:15 桟橋から来場者らを見送る。
私はすぐに島の南の海岸に向かう。潮が引いているので海岸線を伝って行けばかなり遠くまで足を伸ばすことができそうだ。手つかずの岩場は自然が創り出した造形。何にも勝る存在感だ。その岩に絡み付く漂流物は人の営為の儚さを感じさせる。石英がぎっしりと詰まった鉱脈を見つけたり、美しい流木を拾う。大島の最南端まで足を伸ばす。いつもは官用船から眺める海岸に私は立っている。そこからは庵治町の港町がのぞめる。こんなに近いのか。東の浜から見てもこのような近さは感じない。漂流物を拾いながら桟橋方面へ戻って行く。庵治第二小学校方面から歩いて行くと職員寮の間を行き、何人かの職員さんに会う。先日カラオケをした職員さんにも会った。完成間近なヘリポートを左手に見ながら歩いて行くと大型の側溝の際にコンクリートの階段があるのを発見。側溝ができる前の古い遺構(といえばオーバーか)だろう。
青松園事務所の向かい側の畑の近くを歩いていると入所者森さんと西野ミエ子さんが畑作業をしている。ぶらりと畑に入って行くと、スイカ食べましょう、ということになった。その場で包丁で切ってなりふり構わずかぶりつく。「野性的な食べ方だけれどこれが一番おいしいよ。」とミエ子さん。カボチャ持ってきなさい、私のつくったタマネギおいしいよ、と持たされる。大地の恵みをありがたくいただく。
野村ハウスに戻る。さっそくいただいたスイカを泉に食べさせる。
夕食は私が担当。いただいたオクラをさっと湯がいてポン酢で食す。タマネギとトマト、しめじでスパイスのみのカレーをつくる。カボチャはレーズンと一緒に甘辛く煮る。充実した一日は終わりを告げる。

解剖台修復1

2010年 8月 24日

メンバー森が朝早くからビーチコーミングでたくさんのシーグラスを拾ってくる。野村さんからオクラの花をいただく。ここのところ毎朝咲くオクラの花は何度見ても見飽きない美しさ。
ギャラリー、文化会館、厚生会館をオープン状態にし、朝一便の来場者を迎える。やさしい美術プロジェクトに関わり続ける卒業生の浅井が来てくれる。ちょうど一年前、新潟の「やさしい家」にも来てくれた。どんなに忙しくても、いつもやさしい美術のことを気にかけてくれている。こうした卒業生の支えがあってやさしい美術は元気に活動できるのだ。そっかー、もう一年経つんだね。
10:30 泉と森が買い出しに高松に向かう。森はその足で名古屋に帰る。
私は解剖台の修復に向かう。破片の断面、モルタルの仕上げ面をよく観察すると大体どのあたりのパーツかがイメージできる。
昼食を浅井と一緒に食べながらディスカッション。浅井は現在障害を持つこどもたちを教える仕事をしている。社会の枠組みから取りこぼされがちな「障害」について考えを巡らせてみると、ここ大島が社会から隔絶され、人を隔離してきた人間の心理と重なる部分が見えてくるような気がした。
13:25 浅井を桟橋から見送る。来てくれてありがとう!
解剖台の破片は欠落している部分をほぼ網羅できることがわかってきた。まるでパズル。作業は難航する。問題は解剖台本体に組みつける手順である。これをまちがえると組み合わせられないパーツが出てくる。
14:30 買い出しから帰ってきた泉から電話。台湾からの来場者がいるとのこと、今日はなぜか通訳の人がインフォメーションに待機していないので私が島内をガイドすることになった。つたない英語で大島をまわる。途中で農作業をしている野村さん、盲人会の磯野さんに出会う。野村さんは「遠くから来たのう。」とにこやかにお話しされていた。58年におよぶ大島での暮らし。16歳で大島に来た野村さんの心情をおもう。台湾の皆さんも興味深くお話を聞いていた。
16:15 泉と二人で桟橋から高松便の最終を見送る。
私はギャラリーをクローズした後、向かって左の解剖台(海から引き上げた際にまっぷたつにわれてしまっているので)の破片に石材用ボンドを調合してはり合わせる。固定するためにベルトで締めつける。組み付け作業を一区切りつけ、潮の引いた海岸を歩いてみることにする。北へ北へ歩を進める。ところどころきわどい岩場があるが、先に行きたい気持ちをスポイルされることはない。それほどに手つかずの海岸線は美しい。「馬の背」のもとまで行くと、岩間から野鳥が飛んでいくのが見える。近づいてのぞき見ると浸食した岩場が洞穴になっていて「馬の背」を貫いているではないか。向こう側の光が差し込んでいるのが見える。大人の身体ひとつがなんとか通る洞穴、今回は通るのを見送る。潮がぶつかり合うところがある。私は浅瀬で波立っていると思っていたが、潮の満ち引きで双方から潮の流れがぶつかり合う場所があると教えてくれたのは入所者の浜口さんだ。そこだけが海が隆起しているように感じる。海が生き物のように感じられる。

生きている間に撮ったすべて

2010年 8月 23日

ギャラリーのオープンと同時に昨日洗った箪笥の引き出しをおさめてGALLERY15のオフィスに入れる。無垢板の箪笥はなかなか重い。ギャラリーの玄関を掃除していたら入所者の脇林さんが自転車でやってくる。昨日のNHKの取材で頼まれていた海岸にあった解剖台の写真、戦中戦後の大島の写真のデータを持ってきてくれる。すぐにNHKディレクター宛にメールで送らなければならない。
朝一便のお客さんを迎え、申し合わせ事項を確認する。
10:30 まつかぜに乗船して高松へ。サンポートの7階、芸術祭推進室横の喫煙ルームでパソコンをネットにつなぎ、メールの送受信、NHKから依頼のあった写真データのリサイズおよび送信、ブログの更新をしていたらあっという間に時間が過ぎていく。
13:55 まつかぜに乗船して大島へ。ガイドを終えた新妻さんと島内放送の文案を検討。9月4日のコンサートの問い合わせが多くなってきた。大島の島民の皆さんに周知するためには放送が有効。
16:15 いつものように来場者の皆さん、インフォメーションスタッフ、こえび隊の皆さんを桟橋から見送る。
解剖台を眺めていたら、ふと修復は今だ、と思い立つ。バケツに水を汲みたわしで解剖台を洗う。打ち捨てられていた海岸から引き上げる際にまっぷたつになり、縁の大部分が破損した。その破片はプラスチックのケースに無造作にとってあるが、いったんばらばらになったものを割れ戻すのは至難の業。それらの破片も同じように洗っておく。明日は修復作業をすると心に決める。
食後は亡くなられた入所者赤松さんの写真整理。膨大なネガとプリント。それらを私のフィルターで見ながら仕分けていく。いくつかのキーワードが見えてきた。なかでも興味を持ったのが庵治と大島の間を通っていく船を撮影したもの。定点観測的に通る船を淡々と撮っている。一日三脚を立ててシャッターチャンスを待ち続けなければ不可能だ。執拗に撮る理由。その行為に何か重要な実感を伴っていたとしか思えない。赤松さんは大島の外から写真を撮ることはなかったそうだ。通り過ぎるのは船ではなくて大島に立つ赤松さんだったのかもしれない。プリントは軽く500枚ぐらいはありそうだ。
3:00 就寝

日曜美術館の取材

2010年 8月 22日

6:00 起床。今日はNHKの「日曜美術館」の取材。GALLERY15に展示中の作品のコンディションをチェックする。「鏡mirror」展では大島で見つけた役割を終えたものや入所者から預かったものなどを部分的に鏡面に磨き、そこに自分自身を映すという内容の展示だ。鏡面はコーティングされていない生な金属の素性がそのまま露になっているので定期的に磨かないと曇りが出てくる。特に鉄はすぐに錆を呼ぶ。念入りに磨いておく。とにかく暑い。磨き作業をしているとしとどに汗があふれてくる。そして汗が乾かないー。今日の取材は暑さがネックになりそう。
9:30 NHKの取材陣が大島に到着。
NHKの中條アナウンサーが大島を担当。私の滞在先である野村ハウスに中条アナウンサーが訪ねてくるところから大島の取り組み{つながりの家}を案内していく。解剖台を鑑賞し、GALLERY15内部へ。自らの姿を展示物に照らしながら作品鑑賞は進む。
12:30 作品の鑑賞を終えて取材陣でカフェ・シヨルへ。自治会長の山本さんもやってくる。カフェの席につき、中條アナウンサーは山本さんに丁寧な質問を重ねていく。
13:25 NHK取材陣が引き上げていく。総勢10名を越える取材はここのところの多くの取材のなかでもめずらしいことだ。
入所者の川上さんから預かった箪笥を洗う。川上さんのご友人が使われていた箪笥は一切合板が使われていない無垢板のもの。北の畑の作業小屋に使われず保管されていたものをお借りしてきた。水道の水でじゃぶじゃぶ洗う。暑いのであっという間に乾いていく。

残りものでクッキング

2010年 8月 21日

7:30 名古屋発ののぞみに乗る。今回はビデオカメラと三脚持参で荷物が多い。
10:25 高松着。11:00 まつかぜに乗船、大島へ。西日本放送(ラジオ)がカフェのテラス席に放送機材を構えている。昨日大島に来たやさしい美術メンバーの森が生放送出演。青松園職員大澤さんも出演。
昨日までどうということはなかったが、今日になって急に疲れが出る。身体がなかなか動かない。
16:00 来場者を船にご案内する前のつかの間、ガイドツアーをここのところ担当している新妻さん、稲葉さんとガイドツアーの難しさと意義について話す。
桟橋でこえび隊稲葉さんが今日が最後と告げられる。お疲れさまでした!ありがとう。
冷蔵庫の残っている食材を見る。17日に入所者安長さんが買ってきてくれたステーキ肉が保存限界、川上さんからいただいたししとう、炊飯器に入ったままのお米などなど。一掃して調理することにする。
ステーキ肉はこんがりするまで火を通し、茶色くなってしまったリンゴをすりおろしたものと蜂蜜で甘辛く炒め煮。お米はぱりぱり部分を取り除いてインスタントのわかめスープにぶち込んで簡易のリゾット。仕上げにかき卵は欠かせない。パスタをゆでる。野村ハウスのミニトマトをざるにいっぱい摘んでくる。タマネギがないのでトマトベースのカレー風味の煮物をつくる。川上さんししとうをメインにピリ辛だ。これをめいめいパスタに載せて食べる。「おいしいっ。」残り物ばかりで作ったレシピ。泉、森がとても喜んでくれる。私もうれしい。

プレゼン大会

2010年 8月 20日

9:15 大学に出勤。書類の整理および提出をすませる。
10:00 プロジェクトルームに集合。今日は通称「プレゼン大会」である。
講義室を実際の足助病院でのプレゼンテーション会場に見立て、テーブルなどを設営し、実際の状況に近い雰囲気を創り出す。参加メンバーは9名緊張感が走る。
11:30 プレゼン大会開始。リーダー古川の司会のもと、古川から順次足助病院に提案するプランを発表していく。発表の後に企画書について、作品プランについての質疑と感想、時には意見を出し合う。普段は授業外の時間の合間を縫ってのやさしい美術の活動。夏休みだからこそ時間を際限なく使い、徹底的に1つ1つのプランを検討していく。
今回のメンバーが用意したプランは現在大島メンバーである泉麻衣子が足助病院B棟病棟で17の病室前廊下表示灯下に小さな縁を設けた「えんがわ画廊」に展示する作品プランである。あらかじめ設置場所の設えができているので比較的提案がしやすい場所となっており、メンバーの積極的な姿勢を見ることができた。実際には病院医療スタッフに集まっていただき、「研究会」で企画書を提示し、病院職員の皆さんにどのようなねらいの作品で、どのような展示となるかが伝わるものでなければならない。このような事前の発表の場で自身の作品世界に他者が踏み込んでくることに抵抗感があるメンバーもいるかもしれないが、他者との関わりの中で適切な表現を見つけ出していく際の配慮、意図に基づいた求められる完成度をそれぞれ確認していく。すべての意見をとりいれなくてはならないわけではない。こうした「プレゼン大会」の機会を通じて同じ病院という場所で活動する者同士が議論し、自らの提案を自分に返して見つめ直す。そのヒントを捉えるのはひとり一人の判断である。
15:00 プレゼン大会終了。
さて、恒例のバーベキューだ。鉄板と薪、食材を全員で協力して用意する。鉄板を炭火で加熱しようとするスタッフ川島にびっくり。即仕切り直す。すべて任せようとがまんしていたが、早くも頓挫。炭火は網などに食材を載せて直火で火を通すから遠赤外線の火が有効で、炭火の香りが食材を芯まで加熱されるからおいしいのだ。鉄板を熱するならば、燃料は燃えるものであれば何でも良い。逆に建材などの材木で直火で調理は危険だ。木材に含浸している防腐剤やダイオキシンに直接食べ物をさらして食べるようなものだ。(メンバーの皆さん、あまり納得がいってないようなのでここで書いておくね。)
火の起こし方もメンバーには経験がないので、とても見ていられない。角材をそのまま新聞紙で焚き付けようとしている。無理無理!!この調子では明日になっても肉は食べられない…。火を起こす方法をやって見せることにする。鉈で細かく割り、焚き付け用の新聞紙を少量空気が下から流れるように下に焼べる。あっという間に火が着く。私は小原村の鶏舎小屋で生活していたころ、夏に薪を切り、斧で薪割りして冬に備えた。冬は薪ストーブ(なんと1800円!!)に薪を焼べて暖をとる。時にはストーブの蓋をとり、そこに鍋をかけて調理し、火を無駄にしない生活をしていた。毎日火を起こす。町中の生活では考えられない贅沢な暮らしだったと今では思う。
皆で楽しく肉をつつく。うまい。焼きそばもうるさいおじさん=私がつくる。来年は誰かにやってもらおう。準備が足らなかったものもわかっただろうしー。
バーベキューを終わらせて片付け。
18:20 最終バスが出るのでスタッフ川島を含めた数名のメンバーがのこって片付けを完了させる。
19:00 メンバー全員が帰宅。私は1人プロジェクトルームにのこり、仕事をする。
22:30 帰宅。明日は大島に戻る。