Nobuyuki Takahashi’s blog

2011年 8月のアーカイブ

支援、応援を続けていくこと

2011年 8月 30日

現在、「ひかりはがき」の手渡しのため、宮城県七ヶ浜町を中心とした被災地行きを計画中だ。Morigamiの展開も少しずつだが、方向性を見当しているところ。
被災地に行くこと、災害に遭われた方に会ってお話ししてくること、全国から寄せられた「ひかりはがき」に綴られたメッセージをお渡ししてくること。すべて心をこめてしっかりやっていきたい。
さらに、私が暮らしている愛知県周辺にも目を向けなければと思う。被災地から移住してきた方々がいるのだ。Morigamiの「いのちの森」をまず育てなければならないのは、私たちが暮らしている街 からかもしれない。

泥の中から掬い出された記憶の断片

いのちをつなぐ

2011年 8月 28日

長年強制隔離に耐えてきた大島で暮らす人々。水道が来る前は南の山を取り囲むように集水溝を掘り、貯水池を設けてなんとかしのいできた。入所者の皆さんにとっては過去の遺物である。別の見方をすれば、貯水池は入所者のいのちをつないできた象徴と言えるし、雨水が山の斜面をたどり、生活用水になっていたことは自然のダイナミズムの一部に人が組み入れられていた痕跡とも受け取ることができる。ここで何かができそうな予感がしている。

現在の貯水池

修復を重ねてきた集水溝。この部分は比較的新しい遺構だ。

薮へと化した集水溝

20〜30年人の手がはいっていない集水溝

遺すことのスパン

2011年 8月 24日

夕方、ハンセン病療養所大島でカフェ・シヨルを運営する井木、泉とミーティング。私たちは月に一回必ず話し合う時間を持っている。私も大島での取り組み{つながりの家}を運営する上で悩んでいることがあれば、率直に二人に話している。
私たちの取り組みは瀬戸内国際芸術祭の土台があってのものである。芸術祭やイベントの開催は季節ごと、あるいは1年というスパンのリズムで動いていく。一方で大島で暮らす入所者の高齢化は進み、大島で暮らす人がいなくなる時がいずれ、やってくるという現実を、私たちは意識せざるを得ない。それぞれの療養所で将来構想が立てられ、準備が進められる。しかし、大島は離島であるため、将来構想の道は事実上頓挫している。芸術祭の時間の流れとは異なるリズムで大島時間も刻々とその状況を変えていく。
私たちの取り組みは直接将来構想に関わるものではないが、取り組みの内容を入所者の皆さんと相談しながら組み立てていくと、自ずと将来構想に触れることになる。どのような取り組みを行うにしても、時間のスパンを考えざるをえないのだ。

カフェ・シヨルの二人から微笑ましいエピソードを聞いた。私たちが行ってきたワークショップの場で入所者と周辺地域の子どもたちが出会い、その後文通したり、定期的に島で交流しているという。 子どもをのこすことを許されなかった入所者にとって、どれほど心が和むことだろう。私は思わず入所者の皆さんの笑顔を思い浮かべ、うれしくなった。
ふと思う。たとえ近い将来大島で暮らしてきた人々が人生を全うし、誰もいない島になったとしても、今入所者の皆さんと心を通わす子どもたちの世代は入所者の皆さんのことを絶対忘れないだろう。せめて、子どもたちがやがて大人になり、子どもを連れて大島に行った時にも入所者の皆さんが生きてきた証を感じ取れる島でなければならない、と。
これまで漠然と考えてきた「遺す」ということのスパンを考える上で、大きなヒントが得られた気がする。

おいしい美術

2011年 8月 23日

今日は学内で「プレゼン大会」(通称)。病院で行われる研究会でプレゼンテーションするという想定で、メンバーそれぞれが考案した作品を発表する。先輩、後輩の垣根はこの際忘れる。思いつく質問、疑問を投げかけ、感想を述べあう。
新築工事が進む病院に現れた仮設壁を活用する作品、えんがわ画廊で長期入院の利用者の目を楽しませる作品、「小牧の起源は帆巻き」という言説を包み込んだ大型の作品などなど、フレッシュで力強いプランが並ぶ。プランを持ち込まなかった人も、積極的に議論に参加する。朦朧と日々が過ぎがちな夏の日、しばし集中して「他人の作品を自分の作品であるかのように」見る。
「おいしい美術」も復活。一品ずつ食べ物を持ち寄ってランチだ。講義室が一瞬にしてビュッフェに早変わり。
はっとする。そうか、今年で10回目なんだな、プレゼン大会。

静かに熱を帯びた時間 家族

2011年 8月 21日

静かな熱を帯びた時間

2011年 8月 20日

瀬戸内の島々

2011年 8月 15日

豊島の漁師さん

女木島から観た大島

豊島美術館カフェにて

大島の盲人の方々が杖で叩いた柵

犬島の煙突

横井敏秀先生のこと

2011年 8月 1日

2009年夏 「やさしい家」のバナーは横井先生の指導のもと制作した

横井敏秀さんが6月9日にご逝去された。
染色家として長い間本学でご尽力された私たちの大先輩だ。
縁あって数年間同僚として仕事をさせていただいた。
2年前、体調を崩され、そのまま入院された横井さんを見舞った時、窓際にはMorigami(もりがみ:折り紙の木で森を育む参加型作品)、点滴棒には学生がフェルトで制作した小さなキャラクターが提げてあった。

横井先生はその後小康状態で退院され、力の続く限り染色工房で教育研究活動に邁進された。私たちやさしい美術プロジェクトは素材のこと、技法のこと、何度も横井先生からアドバイスをいただき、時には工房で一緒に汗を流した。

ここに深くご冥福をお祈りします。本当に、お疲れさまでした。

長男の慧地 「やさしい家」で滞在した日々は忘れない