Nobuyuki Takahashi’s blog

2011年 8月 24日のアーカイブ

遺すことのスパン

2011年 8月 24日

夕方、ハンセン病療養所大島でカフェ・シヨルを運営する井木、泉とミーティング。私たちは月に一回必ず話し合う時間を持っている。私も大島での取り組み{つながりの家}を運営する上で悩んでいることがあれば、率直に二人に話している。
私たちの取り組みは瀬戸内国際芸術祭の土台があってのものである。芸術祭やイベントの開催は季節ごと、あるいは1年というスパンのリズムで動いていく。一方で大島で暮らす入所者の高齢化は進み、大島で暮らす人がいなくなる時がいずれ、やってくるという現実を、私たちは意識せざるを得ない。それぞれの療養所で将来構想が立てられ、準備が進められる。しかし、大島は離島であるため、将来構想の道は事実上頓挫している。芸術祭の時間の流れとは異なるリズムで大島時間も刻々とその状況を変えていく。
私たちの取り組みは直接将来構想に関わるものではないが、取り組みの内容を入所者の皆さんと相談しながら組み立てていくと、自ずと将来構想に触れることになる。どのような取り組みを行うにしても、時間のスパンを考えざるをえないのだ。

カフェ・シヨルの二人から微笑ましいエピソードを聞いた。私たちが行ってきたワークショップの場で入所者と周辺地域の子どもたちが出会い、その後文通したり、定期的に島で交流しているという。 子どもをのこすことを許されなかった入所者にとって、どれほど心が和むことだろう。私は思わず入所者の皆さんの笑顔を思い浮かべ、うれしくなった。
ふと思う。たとえ近い将来大島で暮らしてきた人々が人生を全うし、誰もいない島になったとしても、今入所者の皆さんと心を通わす子どもたちの世代は入所者の皆さんのことを絶対忘れないだろう。せめて、子どもたちがやがて大人になり、子どもを連れて大島に行った時にも入所者の皆さんが生きてきた証を感じ取れる島でなければならない、と。
これまで漠然と考えてきた「遺す」ということのスパンを考える上で、大きなヒントが得られた気がする。