Nobuyuki Takahashi’s blog

2012年 7月のアーカイブ

飛び交う唾液 むしり取られる髭

2012年 7月 22日

発達センターちよだは障害のある地域の子どもたちの通園施設だ。そこでデイサービスの一環として「デイサービスちよだ」が実践されている。私たちやさしい美術プロジェクトは2008年からデイサービスの一つである「絵画の取り組み」に参加している。
発達センターちよだの職員さんおよびボランティアさん3名が担当し、私たちやさしい美術プロジェクト数名と協働して取り組んでいる。 月一回のワークショップだが、子どもたちの成長や変化に寄り添い、前回のワークショップの反省点や改善点を反映させるなど、毎回試行錯誤の連続だ。ワークショップの後片付けが終わった後、「ケーススタディ」の時間を設けて、子どもたちの様子を報告し合ったり、ワークショップの内容や進め方で気がつく点や留意点を話し合う。発達センターちよだの職員さんたちも毎回、毎日が試行錯誤だという。職員さんの昼夜問わずの奮闘に比べれば、私たちが取り組む、一月にたった一回のワークショップで音を上げてはいられない!
職員さんらと一緒に子どもたちと接していて、はっとすることがある。その一挙一動に子どもたち一人一人を大切に思う心がにじみ出ているのだ。職員さんの対応を見ていると、杓子定規にはいかない。子どもたちのめまぐるしい躍動をスポンジのようにふわりと包み込む。たとえば唾を吐きかける子がいる。すると「唾は水を流す、流しにしようね。」と声をかける。積み木を投げつける子がいる。他の人に当たらないように気を配りながら投げつけるその手をぎゅっと抱きしめる。場も人も時間も空気も昨日起きたことも、今日起きたこともすべて関わっている、今この一瞬。それを全身で受け止めているのが伝わってくる。
それはそうと、私の髭は子どもたちの格好の餌食だ。むしり取られそうになるのだが、この髭のおかげで私のことを覚えてくれている。だから、髭はそらない。

ピンクのつなぎを着た人たちを子どもたちは「やさび」さんと呼ぶ

塗り分けられた世界地図に雲を描く

2012年 7月 16日

国境で色分けされた国土。自然物を感じるのは陸地と区分けされた海と複雑系の海岸線。そこに雲を描く。大気の流動は自転、公転、ひいては銀河の渦に連なる流動と変転の繰り返し。
世界地図は私たちという存在をとてもよく表していると思う。固定され、密閉された容器の間を宇宙のダイナミズムはいとも簡単に刺貫いていく。

ハンセン病療養所大島から見た高松の町

なかったところに現れる、あったところからなくなる

2012年 7月 8日

前例のないことに一歩踏み出すのは誰でも勇気がいるものである。アート、あるいはアートの取り組みはそれを延々と繰り返してきた。
これまでたくさんの作品を病院に展示してきたが、アーティストと病院とが膝を突き合わせ語り合っていく中で「根拠のない信頼感」が育まれなければ、前に進まない。でなければ、やったことがないからという理由に押しつぶされていく。合理的な思考で思考停止に陥る。
作品を展示すると今まで何もなかったそこに、何かが現れる。とたんに抵抗感、圧迫感を感じる人々の声が聞こえてくる。拒絶したい気持ちの声はひときわ大きく響く。しかし、通りがかる人から「あれ、何か変わった!」「いつもと違うね。」とのささやきも見逃してはならない。私はこのざわついた状態の時は「しばらく様子をみてください。」と病院側にお願いする。すべてとは言わないが、やがて時間が経つと人々の反応も落ち着いてくる。作品への感想が寄せられるようになり職員への質問があがったり、作品をめぐる会話も聞こえてくるようになる。そして、展示期間の終了ともなると、いざ作品を撤去すると、ぽっかりとあいたそのスペースに人々は「さびしい、撤去しないでほしい」「何か他に置けるものはないのか。」と喪失感を表す。
展示するための空間ではない、病院での展示では、こんなことが起きる。

旧・足助病院の取り壊し現場

新・足助病院の外来棟廊下

震災遺構と解剖台

2012年 7月 1日

石巻の車道の真ん中に流れ着いた「巨大缶詰」の解体、撤去が始まったそうだ。私も石巻に行った際、この巨大な缶詰を揉んだ自然の脅威を前に呆然と立ち尽くした。
水産加工会社「木の屋石巻水産」の魚油タンクだった、「巨大缶詰」は同社の看板商品である「鯨大和煮」のデザインをそのまま拡大したもので地元では名物だったという。それが、津波で約300mも流され、中央分離帯に横倒しになっていた。
保存を求める声が多く寄せられたそうだが、被災した当事者からは「思い出したくない」という声も少なくなかったという。移動して遺す案も浮上したが、高さ10mを越える「巨大缶詰」を運ぶには電線を切ってはつなぎ直す大工事が不可欠となる。費用も莫大にかかるだろう。解体した「巨大缶詰」の断片は今後テーブルや椅子にリメイクされ、同社の新工場敷地に置かれるそうだ。
こうした震災遺構と呼ばれる場所や事物は今後急速に姿を消していく。そうしたなかで「遺す」選択をした所もある。
遺すか、遺さないか。
とても多数決で決まるものではない。議論の末、正論に沿うとしても、「正しさ」は立ち位置によって異なる。答えは、ない。 有識者の提言に基づいたり、行政の強力なリーダーシップにより「遺す」に至るのも理解はできる。しかし忘れてはならないのは、「震災遺構」とは、都市の傷であり、そこで暮らす人々にとっては「痛み」そのものなのだと思う。自分から遠くにある傷口に興味本位で反応することはあってはならない。心理的な距離のみでなく、物理的な距離を縮め、肉薄して体感しなければ、その「痛み」の澱みに身を投じて土地の人々と共有することはできない。
「遺す」ことをその当事者たちが決断することは、自らの傷口に問いかけるようなものだ。遠くから見守る人々が「ひとごとではない」と関与するのも人としての「痛み」の回路に従うもの。組織や集団に属した場合と個人との見解が異なることも不思議ではない。その大きなブレが描くグラデーションに決断の楔を穿つ。簡単なことではないし、それを安易に「判断の正しさ」に還元してはならない。
ハンセン病療養所大島で2010年の夏、瀬戸内国際芸術祭直前に海岸に打ち捨てられた解剖台が発見された。島内で実際に使われていた、解剖台である。再発見からわずか1週間の間に解剖台を引き上げ、今は使われていない一般独身寮15寮前に設置した。いきさつは複雑に絡み合って直線的ではないのだが、私が入所者自治会の皆さんに解剖台の引き上げと設置を提案したのは事実だ。島内外で当時吹き荒れた感情の渦を何かに喩えることは難しいし、体感したものを私が喩えて表現するのを、許されるかどうか…。一つ確実に言えるのは、「私は何者で、どこに立っているのか」突きつけられ、立っているのも危ういほど揺るがされたということ。遺されたという事実、遺されたものが私たちの前にある。そこから出発するしかない。

私が見た石巻の巨大缶詰

大島の解剖台